「イントロ」その4

 罵声を飛ばす被疑者の横を通りすぎ甲州街道に出ると、Aは左折して新宿駅南口へ続く傾斜を上り始めた。

 夏の日差しが照りつけるなか歩き続けるオフィスワーカーたち。彼らは、さながら行軍を続ける亡者のようだ。


 そんな彼らをAは涼しい顔で追い抜く。額からは汗が一滴も浮き出ていない。

 彼は暑さを感じていなかった。ましてや体力、さらにいえば歳など感じていなかった。灼熱の空気は肌のコンマ数センチで止まり、届くことは叶わない。身体を巡る活性酸素は、自律神経や筋肉を攻撃する前に自壊する。

 全てを巻き込む巨大な海流でさえ、彼を屈服させることができなかった。


 そう、Aは超能力者だった。


 だが、彼の持つ〈力〉は一般でいう超能力とはいささか異なる。スプーン曲げや未来といった、インチキや曖昧なものとは違う。スプーンを鍋に変えるような、ような、そんな世界を一変させるような〈力〉の持ち主であった。

 ゆえに、彼の存在は一部の人間以外に知られてはならない。



 ——はあ、退屈だ。



 ちょうど南口が見えたところで、Aは誰にもバレないように嘆息を吐いた。超能力が使える彼にとって謎解きなど朝飯前——とりわけ冷えた麦飯——に過ぎなかった。どんなに手の込んだトリックや計画を思いつこうとも、それが実行に移されるということは、Aに自ら犯人だと名乗り出ることと同義であった。

 だから〝兵隊島〟も〝眼球堂〟も、彼が存在していたら、その時点で犯人は一つの罪も犯せずにお縄についただろう。


 彼にとって一般的に難事件と呼ばれる事件は、1+1の答えを導くことと同義であった。故に彼の中に不満が塵のように積もり始める。それは、やがて山を成し、人々の謝意を届かなくさせた。


 もちろん、事件を解決したり、犯人を捕まえることが嫌いではない。正義活動はAにとって心持ちの良いもので、人から感謝されて嬉しくないことはなかった。しかし、それも事件を次々と解決していくにつれて、次第に煩わしくなってきた。



    ——ありがとう。



 この五文字が自分を差別し、周囲から孤立させるための呪文のように感じていた。あの言葉は、もっと悩み抜いて疲れ果て、自分の限界をちょっとだけ超えた先で、誰かのためになったときにかけられる言葉であるべきだ。事件を解決することが、歩いていることとなんら変わりない自分に向けられていい言葉ではない。


 もっと自分を満足させてくれる事件は起きないものだろうか。

 それが不謹慎な願いと分かっていながらも、彼は今日も街を闊歩する。新宿駅南口前の信号を渡り、西新宿一丁目の交差点に出た。右手にはルミネ新宿がおつぼねのように通行人を見下ろしている。この建物も、今では八階しかない。


 屋上に塵は積もっていないだろうか。



「……あの」



 ふと、後ろから声をかけられた。

 それはとてもか細く、弱々しい女性の声だった。

 あたりは車のエンジン音や広告の音で喧騒なはずなのだが、Aには彼女の声が聞こえた。これもAが超能力者である所以ゆえんだろうか。


 Aは静かに振り向いた。声をかけられたのが自分ではない時のために、さりげなく声のした方を向く。

 果たして、そこには一人の少女が立っていた。青の蝶ネクタイが特徴的な高校の制服を身につけ、ポニーテールで髪を結った彼女の両手は硬く握りしめられていた。しかし、その眼はしっかりとAに向けられている。


「どうしたんだい、お嬢さん」


 Aは他の者と分け隔てなく少女に声をかけた。彼女は気づくと思わなかったのか、肩を震わせて一瞬視線を逸らした。だが、すぐにAに戻す。


「あの……」


 少女は再び口を開いた。しかし、そこから先の言葉が出てこない。まるでなんと言えば良いか悩んでいるようだった。はてさて、これから自分は何を言われるのだろう。Aは何の気無しに予想される彼女の問いかけと、それに対する返答も考えた。わずか五秒の間に二百七十三例を思いつく。


 だが、彼女の口から出た言葉は男の予想を裏切るものだった。


「あの……、!」


 少女は戸惑いを見せながらも、はっきりとした口調で言った。Aは予想外の要求に固まってしまう。だが同時に、彼の頭の中は猛烈に回転していた。少女の一言が今までずっと気にかかっていた瓶の蓋を開けたのだ。


 そこから溢れ出すは、二十年前に見た夕焼けと先ほど浴びた罵詈雑言。



 ——封印は解かれた。神はすでに活動を再開している。



 最初はどこかの信者の妄言かと思っていた。ただ、もし封印が〈〉で、神が〈〉だったら……。



 ああ、まさか。



 まさか、まさか、まさか!



 Aは明らかに先ほどの殺人事件よりも興奮していた。その高揚が頭の回転をより早める。脳はあらゆる可能性を考慮し、自分の行動が〈世界〉にどのような影響を与えるかを試算し始めた。


 だが、ややあって脳は一つの結論を導く。

 ——そうだ。まだ彼女の言ってることが自分の予期しているものとは限らない。ひとまず様子を見なくては。


 Aはようやく体を動かした。咳払いを一つして少女に話しかける。


「お嬢さん、君の名前は?」

「……Bです」


 少女はぽつりと自らの名を答えた。しかし、すぐにハッとすると慌てて両手を前に出して振った。握られた拳は解かれ、海藻のように少女の前で揺れる。


「違う! そういう意味じゃなくって……」


 何とか否定しようとするが、どう説明すればいいか分からないみたいだ。彼女は言葉尻をすぼめていく。


 しかし、少女の言いたいことは自分の名前が分からないというわけではないみたいだ。何とか自分の考えを伝えようと、彼女は言葉の宇宙を彷徨い始める。


「いや、違う。えっと……、その……。名前を無くしたというか、変えられたというか、いや、そういうわけじゃなくって。……えっと、……その——」


 旅先で見つけた星屑を手に取って吟味してみるも、心の宝箱にはきちんと収まらないようだ。何度も試行錯誤を繰り返し、そのたびに首をかしげる彼女にAは嘆息を一つついた。


「しょうがない。付き合ってあげよう、その名前探しとやらを」


 Aは言った。どうせ、このあと急ぎの予定はない。少女の感じている違和感とやらが果たして彼の危惧と一致すのかは、ゆっくり話を聞いていけば分かるだろう。


 それに、Aは他にも彼女にがあった。


 本日は二〇一九年七月三日。七夕でも、何か特別な記念日でもないこの日は、間違いなく世界にとって一つの大きな転機となる。それは誰も気付かれないかもしれない。多くにとってはさして重要なことではないかもしれない。しかし、この七月三日は間違いなく〈世界〉の命運を左右する大きな転機となるだろう。


 Aは少女に向けて一歩前へ踏み出した。そのとき、二人の間を一陣の風が通り過ぎる。風は真夏の都会の空気を目一杯に吸い込んでいたために生暖かく、それでいて刺激臭を帯びていた。



 〈何か〉が始まる予感がした。

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