「イントロ」その2
「大丈夫ですか?」
四十代の巡査部長は目の前に座り込む女性に手を差し伸べた。女性は新宿のビジネスホテルに勤める従業員で、客室で殺された被害者の第一発見者だった。
ホテルはここ数年の好景気によって建てられた、和モダンをベースとしていた。そのため、この客室にもすだれ風のカーテンや、畳のようなカーペットが敷かれている。
もちろん、シングルルームの中央に置かれたベッドには、紺と黒の市松模様が施されたベッドスローが置かれていた。一見して、この部屋は外国人受けもする、お洒落な場所になっている。
ベッドの上に大の字で寝ている男の死体さえなければ。
女性従業員はそのベッドの近くにある化粧台の前でうずくまっていた。
なぜ、彼女がうずくまっているのか。それは死体を発見したことによるショックからではない。一人の警官に追い詰められていたからである。
警官は金髪長身の男で、
男の名をAといった。
女性はAから男を殺した犯人として責め立てられていた。彼の推理は可能性の一つとして考えられなくもないが、あまりにも突拍子のない代物だった。そのため、現場にいる誰もがAの言うことを信じていなかった。
しかし、それでもAは次々と状況証拠をあげていき、彼女が犯人であることを立証していった。そして、最後には物的証拠として、女性の左腕に男と揉み合った際にできた擦過傷があると言ったのだ。Aの言葉を聞いた女性従業員は化粧台に背をつけたままズルズルと座り込んでしまった。
四十代になる巡査部長はそんな彼女を介抱するために手を差し伸べた。もちろん、彼はAの推理などちっとも信じていない。男と女性との間にはかつて怨恨があったとAはいうが、まだ現場検証も済んでいないのに、遺体発見時の状況すら聞けていないというのに、どうしてそれが分かろうか。
そんな憤りからか、はたまた精神的に参ったであろう女性従業員を憂いてか、巡査部長は手を差し伸べた。そして献身さをアピールしようと跪こうとした。
しかし、肥満気味だった巡査部長は、しゃがむと同時にベルトが彼の腹に食い込んだ。その痛みから、巡査部長は小さいうめき声をあげる。
最近、食生活が偏っていたからな。そんな呑気なことを思っていたのも束の間だった。巡査部長はふと、女性が右手で左手首を覆っていることに気がついた。しかも、決して見せてはならないもののように、強く圧迫までしている。
もしや……。
巡査部長の頭に先ほどのAの推理が想起された。まさか、彼の言ったことが当たっているというのか? まさか!
巡査部長としては、どこの馬の骨とも知らない警官——きっと地域課の人間だろう——に美味しい果実を奪わせてたまるか、という躍起があった。一方で、悪人は捕まえなければならない、という警察官精神もある。
果たして、彼は——。
「すみません、念のためですけど、その左手首だけ見せてもらっていいですか?」
巡査部長は事実確認することを優先した。Aの推理に従うのは癪だが、それでみすみす犯人を取り逃す方がよっぽど
彼は警察官である。それに、もし彼女の手首に擦過傷がなければ彼の推理がデタラメであると証明できる。そんなリターンも期待してでの言葉であった。
しかし、女性従業員はいっこうに右手をどかそうとしない。部屋にいる一同が二人に注目しているなか、沈黙が続いた。
季節は夏。まだ午前十時とはいえ、シングルルームに大勢の人が入れば汗ばんでしまう。巡査部長も暑さに耐えかねて、女性に注意を向けつつポケットからハンカチを取り出した。ハンカチは彼の薄くなった頭皮を拭う。
そして、ひときわ大きな汗の粒を吸い込もうとしたとき——
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