第八話 食の女巫
さっそく雪蓉は、厨房を借りて劉赫の食事を作ることになった。
一応後宮の妃嬪である雪蓉は、外廷の厨房を使うわけにはいかない。たくさんの男たちがいる中で、何かあってからでは遅いのだ。
そういうわけだから、雪蓉は後宮内にある一番大きな厨房を使わせてもらうことになった。
饗宮房(きょうぐうぼう)と呼ばれるそこは、後宮の女官や妃嬪の食事を作る役割を担っている。
宮を与えられるような身分の高い妃は、自身の宮の中に厨房があり、いつでも好きなものを食べられるようになっているが、女官や下級位の妃は、饗宮房で作られる食事しか食べられない。
劉赫は、後宮に妃を迎えることを好まず、高位の官吏らにどうしてもと押し切られて入れた妃しかいないため、人は少ない方だ。
それでも数百人の食事を一挙にまかなっている場所とあって、厨房の大きさもさることながら、料理人の数も多い。
饗宮房に案内された雪蓉は、食材の豊富さや調理道具の種類の多さに驚いた。
(凄い、ここなら何でも作れそうね)
雪蓉は胸がわくわくしてきて、厨房を見渡しながら口元が綻んでいた。
以前、劉赫に作った時は、残り物で簡単に済ませた。そもそも、まさか皇帝だったなんて知らなかったし、酷い怪我と熱でうなされていたから、胃に負担にならないものを作った。
それでも喜んでいたし、簡単なもので劉赫は満足するのかもしれないけれど、皇帝に献上する料理を作るのであれば、気合を入れたい。
毎日饕餮に食事を饗していた、女巫の血が騒ぐ。誰かのために心を尽くして料理を作ることは、雪蓉の喜びだった。
(それに、ずっと味が分からなかったなんてかわいそう。食は生きる楽しみで、励みにもなるのに)
美味しいものを食べたら、それだけで嬉しいし、嫌なことがあっても、また頑張ろうと思える。
(私が作った料理が、誰かの喜びになるのなら……)
本気出してやろうじゃないの。
雪蓉は綺麗に研いである切れ味の良さそうな包丁を選んで手に取った。すると……。
「お待ちください」
後れ毛一つでも許さないように、前髪を上げ髪をお団子に結い上げた年増の女性が雪蓉に話し掛けた。
他の後宮調理人たちは、雪蓉をまるで化け物を見るかのように恐れ、雪蓉からなるべく離れようと距離を取っているにも関わらず、その女性だけが雪蓉の側に近寄り、厳しい眼差しで見つめている。
威圧的な雰囲気と、明らかに敵対心を持っている眼差しを向けられ、雪蓉は戸惑う。
「あなたは?」
「失礼致しました。わたくし、饗宮房の料理長、鸞朱(らんしゅ)と申します」
料理長と言われ、雪蓉は慌てて包丁を置き、頭を下げた。
「こちらこそ申し訳ありません。勝手に触ってしまって」
雪蓉は女巫とはいえ、料理を饗する立場なので、調理場が料理人にとって神聖な場であることは分かっている。
雪蓉が皇帝の食事を作る任を賜ったので、饗宮房を使うことになったと料理長は知っていることとはいえ、礼を示すのは当然のことだと思った。
貴妃である雪蓉が、調理長に頭を下げたことに、後宮料理人たちは一様に驚いた。
料理長とはいえ、正一品である貴妃の方が格段に身分は高い。貴妃の許可なく話し掛けた料理長の方が無礼であり、処罰されても文句はいえない立場だ。
しかし鸞朱は、憶することなく雪蓉に言った。
「この包丁は、わたくしたちの物です。ここにある磨き上げられた道具も全て、饗宮房の料理人たちが後宮の人々の食事を作るために毎日丹精込めて洗っているのです」
「なるほど、だからこんなに綺麗なんですね」
雪蓉は素直に感心した。料理長からは、自身の仕事に対する矜持が感じ取れる。
部外者である雪蓉に高圧的なのも、自身の城を必死に守ろうとしてのことであろうと思うと、嫌な気分にはならない。
「ええ、ですから、あなたにはあれを使っていただきます」
あれと言って指さされた物を見て、雪蓉だけでなく後宮料理人たちも息を飲んだ。
鸞朱が指したのは、厨房の一番端にある、使い古され今日にも捨てられそうな調理道具の山だった。
雪蓉がこれから作ろうとしているのは、皇帝の食事だ。それは、この場にいる全員が分かっている。
それなのに、すす汚れた道具で作れと命じるなんて、鸞朱の首が飛んでもおかしくない。
「……分かりました。道具を貸してくださり、感謝いたします。食材は何を使えば宜しいでしょうか?」
「食材は何でも、あるもの好きに使いなさい」
「ご厚情ありがとうございます」
雪蓉は、周りが思うほど気にしていなかった。
饕餮山の厨房には、これ以上に古ぼけた調理道具もある。しっかり洗って使えば何の問題もない。
雪蓉は意気揚々と、まずは洗い物から取り掛かることにした。
鼻歌交じりで鍋を洗い出した雪蓉に、鸞朱は驚くと共に眉を顰めた。
(殊勝な態度を見せているけれど、こんな小娘に陛下を満足させる食事が作れるはずがないわ)
鸞朱は忌々しそうに雪蓉を見つめる。
しかしこの後、見違えるほど綺麗になった調理道具で、鸞朱も唸るほど見事な料理を雪蓉は作ってみせたのである。
特別に許可を得て、雪蓉は皇帝の臥室がある太清宮(たいしんぐう)に料理を直々に持っていく。
雪蓉が自ら作ったといって差し出さなければ、口にしない恐れがあるからだ。
太清宮は、地図上では内廷に位置している。
皇帝からのお呼びがあれば、妃は龍床に侍ることができる。だがもちろん、今まで劉赫が後宮の妃を臥室に入れたことはない。
金色の瓦屋根に、朱色の柱が威容を誇る太清宮の中に入り、磨き上げられ贅を凝らした長廊を歩き、皇帝の龍床がある臥室(しんしつ)に向かう。
「臥室ではなくて、食事処とかに来てもらうことはできないんでしょうか?」
と案内役から雪蓉の護衛のようになった明豪に聞くと、
「臥室とはいっても、食事に困るほどの狭さではない」
と一蹴された。
狭さを気にしているんじゃないんだけどなと思うが、明豪が怖くてこれ以上踏み込めない。
(そりゃ、皇帝の臥室ですもの、何でも揃っているでしょうし、広いでしょうよ。でもあの変態の臥室に行くと思うと、色々と身の危険が……)
心の中でブツブツと呟きながら、明豪をチラリと横目で見る。
(きっと明豪も部屋の中に来てくれるわよね。私、逃げ出したら困るもんね。いくらなんでも、明豪がいるのに手は出してこないでしょう)
明豪が臥室の扉を開け、中に入るよう雪蓉を促す。
意を決して中に入ると、重厚でとても豪華な造りだった。しかし、目に鮮やかな華美さはなく、落ち着いた色合いで統一されている。
心地のいい毛絨毯に、大きな黒檀の丸卓子が中央に置かれている。背板のある花鳥が象嵌された長椅子も豪奢で、置かれている調度品全て品が良く高級であることが一目で分かる。
呆気に取られて見ていると、臥室の扉が閉められた。雪蓉一人、臥室に取り残されたので、慌てて扉に向かって声を投げる。
「あのっ! 明豪さんは入られないのですか⁉」
「当然だ。しかし、逃げられぬよう、外で見張っている」
「窓とかから逃げちゃってもいいんですか⁉ 側で見張っていた方が安全だと思います!」
「劉赫様がいるから問題ない」
「問題大ありですから!」
その劉赫が一番危険なんです! と心の中で叫ぶも、一向に扉を開けてくれる気配はない。
「おい、お前、そこで何をしている」
薄い紗(しゃ)のとばりと玉(ぎょく)を連ねた簾が天蓋から下がっている大きく立派な寝台から、おもむろに劉赫が出てきた。
深紫色の光沢のある滑らかな絹の深衣を着ている。
(まずい、出てきちゃった! ……って、ここ劉赫の臥室だから、いるのは当然なんだけど)
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