第七話 命懸けの恋
これほど美しいのなら、後宮の妃にご所望されても致し方ないと、家臣たちから受け入れられた雪蓉だったが、後宮内では別だった。
なにせここは、嫉妬と欲望渦巻く女の園である。
どれほど美しくても、身分の低い女は虐げられる。
しかも、突然、正一品の貴妃である。
身よりのない女巫ふぜいが、皇帝からの寵を受ければ反感は必死。
皇帝に知られては自らの身が危険なので、表だって嫌がらせされないにしても、裏では相当酷い虐めを受ける……はずだった。
武官が数人がかりでも取り押さえるのに苦労した話や、扉を破壊した話。伝言された話は尾ひれがついて膨らんでいく。
雪蓉は、霊獣の化身だとか、片手で鉄を折り曲げるだとか、さすがにそれはあり得ないだろという話でさえも広がり、後宮内は恐怖に包まれた。
そんな恐ろしい人物相手に嫌がらせできる豪胆な者はおらず、雪蓉を見ると、皆が逃げ出し誰も近寄る者がいないという、雪蓉にとってはとてもありがたい状況が作られた。
雪蓉の身支度を整える者も、湯屋で手伝いをする者もいない。
高貴な身分の女性なら、女官たちの態度は無礼極まりない、相当な嫌がらせとして受け止めるが、雪蓉にいたってはどうぞご勝手にという姿勢は、快適そのものだった。
(あらやだ、案外居心地がいい……じゃなあい! 私は絶対、ここを抜け出して帰るのよ!)
後宮入りして三日目。
雪蓉は懲りずに、後宮脱出の機会を虎視眈々と狙っていた。
初日こそ、雪蓉を室に閉じ込めておこうと必死だった女官たちだが、尾ひれがついた噂話のおかげで、雪蓉を抑え込むのは危険と判断し、雪蓉を野放しにすることにした。
雪蓉が逃げてくれた方が彼女たちにとっては好都合なのだ。それで皇帝から叱られても、厳しい罰は受けないだろうという思惑である。
皇帝が冷酷無比であれば万死に値する行為だが、劉赫はそんなことをしないと彼女たちは分かっていたからこそできた行動だ。
自由を得た雪蓉は、意気揚々と後宮内を探索する。
もちろん、逃げ道を見つけるためだ。しかしながら、警備は厳重だった。さすがは武力に誇る舜殷国。何度か脱出を試みるも、あえなく捕まり後宮に戻される。
しかも、脱出を図る回数が増すごとに、武官は要領を得て、逃げ出すことがどんどん難しくなっていく。
やみくもに脱出することは自分の首を絞めるだけだと学んだ雪蓉は、もっと計画を練り、ここぞという時を決めて実行することにした。
室にこもり、脱出の計画を考えていたところ、思わぬ呼び出しを受けた。
「内侍監がお呼びです。至急、清内宮(しんないぐう)にお越しください」
無表情の女官が、雪蓉に告げる。雪蓉を見ても、恐れも不快感も顔に出さない。一切の感情を捨ててきたかのように、ただ無機質に告げる。
内侍監といえば、内侍省の長官のことだ。後宮は内侍省の管轄なので、いわゆる後宮の最高責任者。
(清内宮は、後宮外にある。ってことは、後宮を出られるってこと⁉)
悶々と後宮内からの脱出計画を考えていたところに、まさかの申し出である。断る理由がない。
女官の後ろに続き、雪蓉はあっさりと後宮から出られた。
しかし、後宮の大扉をくぐると、大勢の武官が待機していた。簡単には脱出させてはもらえないようだ。
だが、それも計算の内。
(機を見て、かいくぐってみせるわ!)
闘志に燃える雪蓉だったが、一人の男の登場によって、希望が消える。
「ここからは、俺が案内する」
回廊を悠然と歩き、こちらにやってきた武官の衣装を着た男は、そう言って雪蓉を一瞥した。
これまで見てきた武官とは雰囲気がまるで違っていた。
幅広の剣を身につけ、将官の証である龍の紋章が刻まれた武具をまとい、皇帝に近しい者だけが使うことが許されている貴色の紫糸が胸に刺繍されている。
このことが何を表すかというと、彼は皇帝の護衛の勅任武官ということだ。
しかも禁軍を束ねる最高指揮官。
歳は、二十代前半で劉赫と同い年くらいだ。精悍な顔つきながら、野性的な雰囲気を漂わせている。
鋭い眼差しを向けられ、雪蓉は固まった。
武官が何人いても、かいくぐる自信があったが、この男の目を欺くことはできないと本能が通告する。
雪蓉を見ていなくても、気配で動きを察することなどお手のものだろう。
「明豪(めいごう)だ。逃げようなんて思うなよ。手荒なまねはしたくない」
しっかりと釘を打たれ、雪蓉は項垂れた。
(後宮から脱出する方が簡単に思えてきた……)
とんでもない人物を出してきた。明豪の登場によって、雪蓉の希望は根こそぎ奪われた。
明豪の後ろを歩きながら渾寧門(こんねいもん)をくぐり回廊を渡る。
御花園と呼ばれる庭園を眺めながら進んでいくと、大きな太湖石で作られた築山がいたるところに飾られている。
花よりも樹木や奇石が主役のようだ。
内廷は濠に囲まれ、水路と橋が入り組んでいた。敵の侵入を防ぐためにであろうが、脱出も困難そうだ。
諦めの悪い雪蓉は、途中何度か逃げ出せないか機会を窺うが、駆け出そうと拳を握っただけで、明豪が後ろを振り向き、鋭利な眼差しを刺す。
その度に雪蓉は、にこりと微笑み、あらやだ逃げ出そうとなんてしてませんわよ、といった表情を見せる。
気配だけで察するんだから、明豪という男、さすがは皇帝勅任の護衛である。逃げ出すなんて無理である。
「着いたぞ」
ぶっきら棒に明豪は言うと、精巧な竹の文様を模した扉を開ける。
中に入ると、そこは執務室のようだった。
室の最奥に置かれた紫檀の長椅子に、ゆったりと座る人物は、書類から目をそらし、雪蓉に視線を動かした。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、文官の礼服を着た男は、雪蓉に柔和な微笑みを投げた。
雪蓉は慌てて、拱手(きょうしゅ)の礼をする。恐らくこの人物が、内侍監なのだろう。威張った様子はないが、漂う風格は隠せない。
「すまないね、急に来てもらっちゃって」
「いえ……」
ちらりと扉を見ると、しっかりと明豪が側で控えている。逃がす気は一抹もないらしい。
「実は折り入って頼みがあるんだ。逃げ出そうと毎日頑張っているという噂は聞いているから、そんな君に頼むのは酷だということも分かっている。だが、これは劉赫様の命に関わることなんだ」
「命……?」
皇帝の命に関わるとは、物騒な話だ。内侍監の困り果てた顔から察するに、危急を伴うことらしい。
「実は、三日ほど前から劉赫様は食事を召し上がっていない。飲み物も口に入れないから、衰弱してきている。このままではいつ倒れても不思議ではない」
「なんだってそんな……」
言いかけて、ふと思い出した。
『俺は、例え死のうとも、お前が作った料理しか口にしない!』
突然の、謎の宣言。
正直、今まで忘れていた。まさか本当に断食しているとは。一体どうして、何のために。まったく意味が分からない。
「劉赫様は、君の作った料理しか食べないとおっしゃっている。我々も最初は単なる我儘かと思って大して気に留めていなかっただが、ここにきてどうやら本気だと分かった」
「まさか……」
嫌な予感がする。
「劉赫様は意思が強い。自ら決めたことは何がなんでも守り通す。それが、自ら死を選ぶことだとしても」
「いや、でも……」
「こんな馬鹿げたことで、皇帝を失うことになっては困るのだよ。君の作った料理しか食べないとおっしゃるのなら、君が作ればいい」
そう言われるとは思ったけれど、無理やり拉致して後宮に軟禁させた張本人が劉赫である。
奴が死のうが死ぬまいがどうでもいい……とは言えない。
なにしろ彼は、舜殷国皇帝なのである。皇帝に死なれたら困るのは、舜殷国の国民全ての共通の思いだ。もちろん、雪蓉も。
「なんでそんなことをするのよ……」
額を手で押さえ、呆れ果てる雪蓉に、内侍監も同じく困ったように頷いた。
「それが私も不思議でね。劉赫様は元々、食に対して無頓着なお方なのだよ。必要最低限の量しか食べないし、効能や栄養は気にされても、味は一切関心がない。というのも、ある時から劉赫様は、味を感じることができない体質になってしまったからね」
「味を感じることができない?」
「そう、何を食べても味覚がしないらしい。だから、これほどまで食に執着することが我々にとっては驚きなのだよ」
これまで理解できなかったことが、妙にストンと腑に落ちた。
『味がする……』
と言って無我夢中で雪蓉の料理を食べていた劉赫の姿を思い出した。
やけに回りくどい褒め言葉ね、と思っていたが、これまで味覚を感じることができなかったのなら、そういう言い方になるだろう。
それに、雪蓉を後宮へと連れてきた理由。
彼は、『お前の料理が食べたかったからだ』と言った。味を感じることができない彼にとって、雪蓉の料理は特別。
もう一度食べたかったという言葉に偽りはないのだろう。
だが、雪蓉が『それなら宮廷料理人でいいじゃない!』と言った後に彼が漏らした言葉を思い出して、顔が青くなる。
(あんっの、変態野郎。女には興味ないみたいな顔しながら、手が早いなんて本当たちが悪い)
うっかり気を許すと唇を奪ってくるんだから気を抜けない。
そこは、今後要警戒ということで置いておくとして、雪蓉の料理がどうしても食べたいという気持ちは分かった。雪蓉でなければいけないということも。
だからといって、拉致して後宮入りさせたことを許すわけではないが、料理くらい作ってあげてもいいかと思う。
それに、せっかく助けたのに、雪蓉のせいで死なれたら気分が悪いではないか。
そうだ、これはまたとない好機だ。交渉の余地はある。
「……分かりました。作りましょう。ただし、条件があります」
「ほう?」
内侍監は、片眉を上げ、興味深そうに雪蓉を見た。
「私を帰してください」
「それは無理だ」
あっさりと却下される。しかし、ここで食い下がるわけにはいかない。
「どうしてですか⁉」
「劉赫様は、君の作った料理しか食べないとおっしゃられている。君がいなくなったら、また何も食べなくなってしまうだろう」
「じゃあ、私以外が作った料理を食べるようになればいいんですね?」
雪蓉以外が作った料理でも、味を感じることができるようになれば、雪蓉はお払い箱のはず。
「……まあ、劉赫様が許せば」
内侍監はにこにこと微笑を浮かべて肯定した。
そもそも、全ての元凶はあいつだ。劉赫を説き伏せなければ、帰ることなんて不可能だ。
なんとか劉赫の味覚を治して、家に帰る。あわよくば逃げ出せたとしても、また引き戻されたら意味がない。そんな当たり前のことに、今さら気が付いた。
「……やりましょう」
燃えたぎる闘志を漲らせる雪蓉を前に、内侍監は「うん、宜しくね」と軽く返事をした。
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