第六話 初夜
向かうはもちろん、貴妃雪蓉の元。
逸る気持ちを抑えて室に行くと、大勢の女官たちが室を囲むように待機していた。
額には白いはちまき、長い槍を持って立っている。これから戦争にでも行くのかという恰好だ。
「どうした、何事だ」
皇帝のお出ましに、皆は驚き一様に膝まづく。案内役の采女が気まずそうに口を開いた。
「貴妃様が逃げ出さないように、皆見張っていたのですわ」
「あいつはまだ諦めていないのか。しぶといな」
感心するように劉赫が言うと、女官の一人が頭を上げ、縋るように口上した。
「ああ陛下、申し訳ございません。本来ならば、夜伽の準備をいたさなければならないところ、なにぶん皆、近寄るのが怖ろしくて、用意がまったくできていないのです。ですがせめて、逃亡は防ぎたく尽力致しておりました」
「雪蓉は中におるのだな?」
「はい、それは確かに!」
「ならば良い。皆、慣れぬことを頑張ってくれて礼を申すぞ」
「ありがたきお言葉」
女官たちは涙を拭う。妃の室に訪れたという甘い事実とは真逆の光景に、劉赫は、はて、俺は何をしに来たのかなと思考が一瞬迷子になる。
さらに扉は木板で至急塞いだのか、不自然な修理箇所があった。
「これは雪蓉が?」
劉赫の問いに、皆が気まずそうに視線を泳がせた。
「訊ねるまでもないことだったな」
案内役の采女は、中にいる人物がよほど怖いのか震える手で扉を開けようとするが、張りぼての扉はなかなか開かない。
「俺が開ける。ここからは皆、下がっておれ」
采女は安心した顔を浮かべ、音も立てず素早い所作で下がった。そして女官たちも命拾いしたような表情で、あっという間にいなくなった。
室の前で一人佇む劉赫は、俺は本当にどこに来たのかと心内で苦笑した。
まるで極悪人の罪人のいる牢獄の中に入るか、はたまた猛獣のいる檻に入るようなありさまである。
(俺の嫁は、なかなかの曲者のようだ)
劉赫は自然と笑みを浮かべていた。
木板を外し、扉を開ける。本来ならば侍女を通して室に入るのが習わしだが、なにせ色々と慣例崩しの後宮入りだ。
本人の承諾も得ずに室に入ることに、若干後ろめたい気持ちが生まれたが、すぐに消える。
「俺だ、劉赫だ。……入るぞ」
一応、断りを入れて中へと進む。
室の中は整然としていて、綺麗に保たれている。しかし、見回しても、肝心のいるはずの人物の姿がない。
(まさか……逃げられたか)
ギリ、と歯を食いしばった瞬間。
天井から突然、大きな何かが降ってきた。
ハッとしたのも束の間、劉赫の頭を目がけて黒いこん棒のようなものが振り下ろされた。
劉赫は咄嗟に腰の太刀を鞘ごとかざし、黒い棒を受け止める。奇襲に失敗した雪蓉は、ひらりと体を回転させ、床に着地した。
「訪問早々、俺に襲いかかるとは。このことが他に知られたら命はないぞ」
「あんたの妃になるくらいなら、死んだ方がマシよ」
雪蓉は劉赫を鋭く睨み付けて言った。
真正面から挑んでも勝てないと諦めたのか、雪蓉はくるりと背を向けて室の奥へと歩いていった。
そして、脚が一本なくなっている卓子に、さっきの黒いこん棒のようなものをつけ始める。
(あれは卓子の脚だったのか)
雪蓉は劉赫を無視して、懸命に卓子を直そうと頑張っている。
「新しいものに変えてもらえばいいだろう」
「何言ってるのよ! もったいないじゃない! まだ直せば使えるわ」
自分で壊しておきながら直すのか。なかなか慎ましい性格だな、と劉赫は感心する。
ただの貧乏性だと教えてあげたい。
「良かった、直ったわ」
満足気に微笑む雪蓉の横顔を見て、劉赫の頬も緩む。
さっきあなた、この人に殴りかけられてましたよと突っ込みたい。恋とは恐ろしいものである。
雪蓉はクルリと振り返って劉赫を睨んだ。
凄い形相で睨まれているのに、目が合って劉赫はどこか嬉しそうだ。大丈夫だろうか、この皇帝。
「いい機会だからはっきり聞くけど、あんた一体どういうつもり⁉」
「……どういうつもりとは?」
「私を貴妃になんかして、何を企んでいるのよ!」
雪蓉が怒鳴るように詰め寄っても、劉赫は意に介さない。
「企んでなどいない。言っただろう、仙になるよりも幸せな方法があると」
「あんた私の言葉聞いてた⁉ 妃なんて私には魅力の欠片もないの! それに、仙になる以上の望みなんて私にはないわ!」
相変わらずの強い意思に、劉赫の表情が曇る。
「仙は駄目だ」
「なんでよ」
「絶対に許さない。例えどんな手を使っても。後宮が嫌いだろうと、俺が憎かろうと、仙にだけはさせない」
(お前だけは、絶対に……)
劉赫の気迫に押され、雪蓉は思わず黙り込んだ。そして、はあと大きなため息をつく。
「理由は話せないけど、とにかく私を仙にしたくないのね」
「そうだ」
「……そんなこと言われて納得できるわけないでしょ! それに、どうして貴妃なのよ! なんでよりにもよってあんたの女にならなきゃいけないのよ!」
「本当は、皇妃にしたかったんだが……」
劉赫はとても残念そうに、そして申し訳なさそうに言った。
「皇妃⁉ そっちの方が大問題よ! 貴妃もありえないけど、皇妃の方が断然嫌!」
「一応肩書は貴妃だが、俺にとって嫁はお前だけだ」
なぜか劉赫は胸を張って応える。
「聞いてた? 人の話聞いてた⁉ ていうか、自信満々にそんな気持ち悪いこと、よく平気で言えるわね!」
「そういうことだから……諦めろ」
劉赫は艶笑を浮かべ、雪蓉の肩に手を置いた。
雪蓉は怒りで肩が震え出し、拳を握りしめ劉赫の顔面目がけて振り上げた。しかし、劉赫は慣れた様子でひらりとかわす。
「この前は不意打ちだったから避けられなかったが、もうお前の気性の荒さは知っている。そうそうあの二の舞は踏まないぞ」
この前とは、雪蓉の唇を奪い、頬に平手打ちをくらった夜のことを指している。あの時のことを思いだし、雪蓉の怒りはさらに燃え上がる。
「どうして私なの⁉ あんたなら女に困ることなんてないでしょう!」
「そ……れは……」
思わぬ問いに、劉赫はうろたえる。
雪蓉の言う通り、人生の中で女に困ったことなどない。
整った容姿に加え、彼は皇帝である。後宮に各地から集められた美女が、皇帝の訪れを待っている。
だからこそ、興味がなくなる。求められれば逃げたくなる、逃げられれば追いたくなるのは、男の性か。
では、雪蓉が彼の寵愛を望んだら、興味が失せるのか。
答えは、否だ。
雪蓉が劉赫を求めてくれたら、劉赫も喜んで気持ちを返そう。
ならば、この気持ちは……。雪蓉じゃないといけない、雪蓉しかいらない、この気持ちは……。
「……お前の料理が、食べたかったからだ」
劉赫は目線を斜め上へと泳がせた。
「は?」
予想もしていない、とんでもない方向から玉が投げられたかのように、雪蓉は劉赫の言葉を受け取ることができない。
「お前の料理には味がする。だから、もう一度食べたかった」
ここで、お前の料理が美味いから、と言わないところが素直じゃない。
「……それなら、貴妃じゃなくて、宮廷の料理人でいいじゃない!」
もっともな言葉に、劉赫はたじろぐ。
「それじゃ駄目だ」
「どうして。私の料理が食べたかったんでしょう?」
「宮廷の料理人なら、受け入れたのか?」
「受け入れるわけないでしょう!」
「なら、貴妃でいいだろう」
「よくないわよ! ていうか、軽々と論点かわそうとするんじゃないわよ!」
劉赫は逃げられないと思ったのか、渋い顔で黙り込む。そして、本人の意図とは真逆に、つい口から本音が出てしまった。
「……妃にすれば、あんなことやこんなことができるからとは、断じて思っていないぞ。そう、断じて」
雪蓉の引きっぷりは凄かった。
心身ともに引くとはこういうことを言うのかと、なかば感心してしまうくらいのどん引きだった。
雪蓉は音もなく、すさまじい勢いで劉赫から離れ、室の端まで後ずさりした。
「いや、だから、断じて俺は……」
慌てて弁解に入る劉赫に、雪蓉は手を前に出して拒絶を表す。
「いい、もう、いい。あんたが真性の好色家で、助平で、変態で、不埒な男だっていうことは、よ~く分かった」
「いや、だから……」
「いい? よく聞きなさいね。あんたが人の話をまるで聞いていないってことは経験済みだけど、これだけは覚えておいて。
あんたがもし、私に手を出してきたら、私は迷うことなく舌を噛み切って死ぬわ。
もしも、舌を噛み切らないように、拘束されて口に何かを入れられて阻止されたとしても、私はその後、どんな手を使ってでも命を絶つわ。女巫である私が穢されたら、もう女巫には戻れない。
それならば、私は死を選ぶから」
雪蓉の目に、偽りは微塵も見えなかった。
脅すために言ったのではない。言葉にして、決意を固めるために言ったのだと分かった。さすがの劉赫も息を飲む。
「……分かった。ならば俺も、お前の作った料理しか食べない」
「え?」
「ここで誓う。俺は、例え死のうとも、お前が作った料理しか口にしない!」
高らかに宣言され、雪蓉は面食らう。どうして、そうくる。
「いいか、分かったな!」と謎の念押しをされ、劉赫はいきり立ちながら、雪蓉の室を出て行った。
残された雪蓉は呆気に取られて固まる。
(……意味が分からない)
劉赫の捨て身の本気が分かるのは、それから数日後のことである。
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