第九話 俺の側で、俺のために飯を作れ

「……雪蓉、か?」


 諦めに似たため息を吐いて、大きく息を吸い、振り返る。


「ごきげんよう」


 とりあえず、挨拶しておく。皇帝に対する挨拶が、これでいいのかは別にして。


「何をしている」


「何って、見て分かる通り、食事を持ってきたのよ」


 大きな黒檀の円卓子の上に、雪蓉の渾身の手料理を乗せる。


「お前が作ったのか?」


 劉赫は意外そうな顔をして、料理に近寄る。


 お前と呼んだり、雪蓉と呼び捨てにしたり、劉赫は雪蓉の呼び方を統一する気はないらしい。


かくいう雪蓉も、あんたといったり劉赫と呼んだり、皇帝として敬う気は微塵もない。


「そうよ。私以外が作った料理は食べないって言うから。内侍監に頼まれたのよ」


「内侍監に頼まれたら、言うこと聞くのか?」


「そういうわけじゃなくて。私のせいで皇帝が死なれたら困るのよ」


「なるほど。俺の命懸けの賭けは勝ったということだな」


 満足気に劉赫は微笑む。普段と変わらないように見えるが、少し顔色が悪いことに雪蓉は気が付いた。


でも、いつ倒れてもおかしくないほど衰弱はしていない。足腰もしっかりしているし、元気そうだ。


(あの内侍監、私に嘘をついたわね)


 とぼけたふりをして、実際には悪賢い人物だったようだ。


 狸め……と心の中で悪態をつく。しかし、これは考えようによっては好機なのである。気を取りなして劉赫と向き合う。


「あのね、そんなことで命懸けないでくれる?」


「同じだろう? 雪蓉も俺が手を出したら舌噛んで死ぬと言った」


「それとこれとでは重みが違うでしょう」


「一緒だ。少なくとも、俺にとっては」


 突然、劉赫が真剣な面持ちになったので、雪蓉は言葉を噤んだ。


 劉赫にとっては、命を懸けるほど大事なことだったらしい。共感することはできないけれど。


「まあいいわ。とりあえず、冷めないうちに食べてよ」


 雪蓉に椅子に座るよう勧められ、円卓子に置かれた料理を見下ろす。食欲をそそる生姜と鳥肉の匂いが漂ってきた。


 朱塗りの豪奢なお盆の上に、丼ぶりと小鉢が置かれている。美味しそうな匂いの正体は、鶏肉と棗(なつめ)の羹(あつもの)のようだ。


脂の乗った濃厚な汁に、ほろほろになるまで柔らかく煮込んだ大きな鶏肉が存在感を放っている。小鉢は冷菜の盛り合わせだった。

 

 劉赫は、葱が絡みついた鳥肉を箸で摘まみ上げ、ゆっくりと口の中に入れた。


「おー」


 謎の感嘆の声が上がる。それからは、一心不乱に食べ続ける。


(良かった、気に入ったみたい)


 とても美味しそうに食べる劉赫の横顔を見ながら、雪蓉は充足感に包まれる。


 そしてその後、チクリと胸の奥が痛んだ。雪蓉がいなくなれば、劉赫はまた食事に楽しみを見いだせなくなる。彼の幸せを奪ってしまうような罪悪感を覚えた。


(いやいや、だからって、一生を皇帝に仕えようなんて思えないし! 劉赫には私以外が作った料理でも味を感じられるようになってもらって、さっさと帰るのよ!)


 ぎゅっと拳を握り、決意を深める。


 味を感じなくなるというのは、精神的なものが関係しているのだろうか。まずは、情報収集だ。


「いつから味を感じられなくなったの?」


 雪蓉の問いに、一瞬劉赫の箸の動きが止まる。しかし、すぐに何でもないような顔をして食事を進める。


「……知っていたのか」


「さっき聞いたのよ。で、いつから?」


「十四年ほど前かな」


「そんなに⁉」


 十四年前といえば、劉赫が皇位継承した年だ。劉赫は当時十歳。若すぎる皇帝継承だった。


 相当精神的に負荷がかかっていたことは、庶民の雪蓉でも容易に想像できる。


 舜殷国は、神龍が皇帝を決める。正統な血筋と、知力体力共に優れた者が神龍に選ばれ、神龍が持つ力をその身に宿すことができるという。


 どんなに若く未熟であっても、神龍が選んだ者に異議を唱えることはできないのだ。


「どうして私が作った料理は、味を感じることができるのかしら」


「それは食を饗する女巫だからだろう」


「それって、私には仙になれる素質があるってことよね⁉」


 パッと目が輝いた雪蓉を見て、劉赫は眉をひそめる。


「……そうは言っていない」


「そういうことでしょ! そういうことよね! 私にはほんの少しかもしれないけど、力が備わってきたってことよね。よっし! 俄然やる気が湧いてきた!」


「いや、お前には素質の欠片もないと思うぞ。一生頑張っても仙になれず死ぬのが目に見えている。諦めろ」


 雪蓉は、劉赫の言葉をまるで聞いていない。飛びはねて全身で喜びを表現する雪蓉に、劉赫は大きなため息を吐いた。


 劉赫が食事をあらかた終えると、それに気が付いた雪蓉は、お茶と共に食後の甘味を差し出す。


 こういうところはよく気が付くし、かいがいしい。倒れている劉赫を拾って看病した時もそうだが、けっこう世話好きだ。


「芝麻球(あげだんご)も作ったの。あなた、甘いもの好きでしょ。甘えん坊だものね」


「だから、それをいうなら甘えん坊じゃなく、甘党だ。わざとか?」


 劉赫は箸を置いて、本気で嫌そうな顔をした。


「言い間違えただけじゃない。それくらいで怒るなんて、器の小さい男ね」


 劉赫は、うっと息を詰まらせて、項垂れながら置いた箸を手に取った。


 静かに茂麻球を口にする。噛むと、甘い餡子の味が口の中に広がり、自然と笑顔になった。


 体中から、隠しきれないほどの喜びの情緒が溢れている。美味しいと言わなくても、充分すぎるほど雰囲気で伝わってくるので、雪蓉は嬉しかった。


「これから毎日、料理を作ってくれるのか?」


「ええ、あなたの味覚が治るまで。その代わり、味覚が治ったら私を帰してね」


 サラリと付け足した言葉に、劉赫の眉が寄る。


「……逆にいえば、治るまでは、ここにいるということか?」


「不本意だけど、仕方ないわよね。脱走しようと試みたけど難しそうだし、仮に脱走できてもまた連れ戻されたなら意味ないし」


 脱走して身を隠すならまだしも、雪蓉の行き先は知られている。それならば、味覚が治る方に賭けた方が現実的だ。


……それと、なんだかんだいって、劉赫のことが心配でもある。


食べ物が美味しく感じないなんてかわいそうだ。雪蓉の料理なら美味しいと感じるのなら、作ってあげたいとも思う。


 雪蓉は元来、世話好きの情に厚い性格だ。困っている人を見ると放っておけない。


 劉赫は、指を顎に当て、考え込んだ。この要求を飲むか、否か……。


「朝も昼も夜も、雪蓉が作るのか?」


「そうよ、感謝しなさい。私は恩を売っているんだから、ちゃんと返してよ」


 雪蓉の返答に、劉赫は思わず破顔した。


 考えてみれば、最高の申し出かもしれない。劉赫の味覚が治ることなど、まずないであろうし、いつ脱出されるのかと気を揉む必要もない。


 雪蓉は自ら進んで劉赫の食事を作ってくれる。無理強いした結果ではない。


「いいだろう」


 劉赫の言葉に、雪蓉は「やった!」と喜びの声を上げた。


 互いにとって利益のある契約である。劉赫は笑顔になった雪蓉を見て、口の端を緩めた。


「昼は公務があるから抜け出せないにしても、朝と夜は一緒に食べよう」


「え、なんで?」


「一緒に食べた方が美味しいだろ」


 劉赫は、至極当然だという顔をして言った。


「いいけど……。これだけは約束してね。絶対に私に手を出さないで」


 劉赫は途端に無表情になって口を閉じる。不本意だというのが、顔全体、いや、体全体から表れている。


「手を出すというのは、どこからになる?」


「私の体に触れること。手も、口も、体のどこも触っちゃ駄目!」


「抱きしめることも、手を繋ぐことも、口付けも許さないと?」


「そうよ」


 雪蓉は両手を組んで、大きく頷いた。


「……拷問だな」


「え、なんか言った?」


「いや、何も言っていない」


 劉赫は苦悶の表情を浮かべて考え込み、「……分かった」と吐き出すように言った。


「元から俺が手を出したら、舌を噛んで死ぬと言っていたからな。死なれては困る。いや、困るどころの話ではない。俺にとってお前は……。


いや、何でもない。とにかく、手は出さない。だから、俺の側で、俺のために飯を作れ」


 雪蓉は、劉赫が暗に示した言葉の意味を正確には分かっていなかった。


ただ、自分が死んだら味のしない料理を食べ続けなければいけないから困るのだと思っていた。


 劉赫にとっては、味のしない料理を食べ続けるよりも、雪蓉がいなくなることの方が何倍も辛い。そんな思いなど、雪蓉に分かるはずもなく……。


「分かったわ。あなたが喜ぶ料理を作ってあげる」


 雪蓉の言葉に、劉赫は嬉しそうに微笑んだ。そのあどけない笑顔に、雪蓉の胸がぎゅっと締め付けられた。


 不思議な胸の高鳴りに、どういう心境の変化がおきたのか、雪蓉自身も分かっていなかった。


 ただ、劉赫が美味しそうに食べる姿や、ふとした瞬間に零すあどけない無邪気な微笑みが、妙に胸の奥をくすぐったくさせるのだった。

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