第四話 口付けと求婚

日が沈み、漆黒の闇と静けさが辺りを包み込んだ。


 小屋に明かりはなく、暗闇に覆われていたが、男は闇黒の中でも目が見えるので不便さを感じることはなかった。


「ごめんね、遅れちゃって」


 いつものように足で扉を開けて入ってきた雪蓉は、息を切らしていた。急いで来てくれたことが申し訳なくもあり、彼女に会えたことが嬉しくもあった。


 雪蓉は大きなお盆を片手で器用に支え、もう片方の手には紅提灯を持っていた。

雪蓉は提灯を大きく左右に振り、明かりに照らされた彼の姿を見つけ、「いた、いた」と言った。


夕飯、というよりも、もはや夜食の時分だが、文句も言わずに与えられた食事を食べる。皿にこんもりと盛られたのは焼飯だった。胡麻油とにんにくと葱の香ばしい匂いがする。一口食べると、青菜がシャキシャキと歯ごたえを残していて、予想通り最高に美味かった。


「余りもので作ったの。子供たちを寝かしつけてから作ったから、時間もなかったし、大したもの食べさせてあげられなくて悪いわね」


 夢中になって焼飯を食べていた俺は、珍しく詫びを言う雪蓉に驚いて顔を上げた。

 どうやら、朝の一件で、頭がおかしくなっていると勘違いしている雪蓉は、男を見る目が少し変わったらしい。


恐らく、不憫とか気の毒だとか思っているのだろう。同情されてもいい気持ちはしない。憐憫の眼差しに、俺はまともだ、と男は心の中で返した。


 あっという間に平らげた男は、皿を置いてひと息ついた。雪蓉の作る料理は、俺が今まで食べてきた料理の中で群を抜く美味さだ。もうすぐ食べられなくなると思うと、物悲しさが胸に染み入る。


 〈味が分からない〉俺にとって、食事はただの動作だった。ただ腹は減るから口に入れる。愉しみや喜びを感じたことなどなかった。


「雪蓉、お前の望みはなんだ」


「何よ、急に」


「いいから答えろ」


 礼は何がいいかそれとなく聞こうと思っていたが、口から出たのは直球だった。だが、雪蓉はその問いが、礼のためであることに気が付かなかったようだ。


「そうね、私の望みはただ一つよ。食を極め仙となり、この地を守る。身よりのない子供たちを預かって、心と体を癒し、生きる術を教えて自立を見届ける。


私は死ぬまでこの土地を離れない。だから結婚もしない」


 予想しなかった答えに、俺は言葉を失う。


(……仙に、なりたいだと?)


「仙は駄目だ!」


 勢いよく否定され、雪蓉は驚いた。


「なんでよ!」


「なんでって……。それは言えないが……」


 仙の秘密は、代々皇籍や身分の高い一部の者のみが知る門外不出の理。うかうかと漏らすことはできない。


「私は仙になるの。それが夢であり、目標。仙の術は、その道を極めれば得ることができるというわ。


仙婆のように、強い力はないけど、私の作った料理には、ほんの少し不思議な力が宿っているの。


きっと、毎日饕餮のために料理を作って、仙婆の力を見ているからだわ。ここで修業を積めば、いつか必ず」


 雪蓉は、仙になることは夢であり、目標だと語った。仙になるなんて、本来は荒唐無稽の話だが、彼女には密かな自信と手応えがあるのだろう。


 思い返してみれば、雪蓉の作った料理には、味がした。ある時から、味がまったく分からなくなったのに、彼女の料理は美味いと感じた。


 男は、雪蓉の自信があながちうぬ惚れではないかもしれないと思い、背筋が凍った。


「仙にならずとも幸せになる方法を知っている」


「は?」


 彼は、真っ直ぐに雪蓉を見つめた。


「後宮の妃となれば、美味いものは食べ放題で贅沢し放題。皇帝からの寵を得られれば、いくら低い身分であろうとも誰も歯向かえず、立場は安泰。どうだ、悪い話ではないだろう?」


 男がやけに真面目な顔になったので、何を言い出すかと気構えていた雪蓉は、大きな口を開けて笑った。


「アハハハ、後宮の妃? 何馬鹿なこと言ってるの? 頭おかしいんじゃないの? ああ、ごめん、おかしいんだった、冗談にならないわ」


 雪蓉は笑いながら自分に突っ込む。俺は一瞬むっとしたが、すぐに気持ちを切り替えて立ち上がった。


 急に近付いてきた俺に、雪蓉の顔色が変わった。雰囲気が変わり、妙な圧力を感じたのかもしれない。


上背がある俺は、雪蓉よりも頭一つ分大きい。急に感じる男の部分に、雪蓉はたじろいでいた。


「お前は美しい。そして、純真だ。もっと、女としての幸せを考えたらどうだ?」


 甘い言葉で俺は囁く。そして、雪蓉の瞳を見つめ、白い頬に指を這わす。


 絡み合った目線に、時が一瞬止まった。


「……あのね。仙になりたいなんて言う女が、世間一般の女たちが憧れることに興味あると思う? 美味しいものなら自分で作るし、華麗な衣装だって動きにくくて邪魔なだけ。


寵愛を得ることに躍起になる人生なんて息苦しいだけよ。男に頼らずとも、私は生きていける。だから、結婚なんてしないの」


 雪蓉の言葉に、甘い雰囲気は一瞬で壊された。意外と冷静に自己分析しているようで、感心してしまう。いや、いかんだろう、仙は駄目だ、とにかく駄目だ。


「ならばわざわざ仙にならなくてもいいだろう。霊獣の近くに住み続け、この土地から出られない幽閉されたような身の上だ」


「それでいいのよ。私がこの土地に居続ければ、身よりのない子供たちが巣立った後も、帰る場所となれる。故郷ができるの。


私は仙婆のように、来る者拒まず、去る者追わず、いつでも帰ってこられる場所として、あり続けたい」


 雪蓉の瞳に迷いはなかった。強い意思、仙の力が最も好むものだ。四凶の側にいることも、仙の力を呼び寄せる要因になる。


 仙になる素質と、環境は揃っている。このままでは本当に雪蓉は……。


「仙にはさせない。絶対にだ」


 彼は、冷淡な眼差しで、まるで命令を下すように言った。


「な、なんでよ! なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないの!」


 怒って抗議する雪蓉の腕を掴み、引き寄せる。抵抗する間もなく押し付けられた唇に、雪蓉は目を丸めて固まった。


「お前はもう、俺のものだからだ」


 次の瞬間、静かな夜の闇の中で、バチーンと頬を叩く音が響き渡った。



・・・・・・


 雪蓉が、図々しくて生意気で、挙句の果てに無理やり人の唇を奪った失礼千万な不埒な男を助けてから一か月後。


 雪蓉はすっかり元の生活に戻っていた。というのも、男の頬を渾身の力で平手打ちし、「死ね! 馬鹿! 変態! 下衆野郎!」と思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ小屋を飛び出し、次の朝行ってみると、男は忽然と姿を消していたのだ。


 あれだけの大怪我を負って、一人で山を下りるなど自殺行為なはずだ。確かに死ねとは言ったけど、本当に死んでいたら心地が悪い。あんな最低な奴でも、助けた手前無事だろうかと気に病んでいる。


(もういい! 大丈夫よ、なんでか知らないけど、凄まじい回復力だったし。急に記憶を思い出して帰ったんでしょうよ)


 そうであればいいと、雪蓉は密かに願う。


蒼玉色の瞳、整った顔立ち、見上げるほど高い背丈……。雪蓉の作った料理をとても美味しそうに無我夢中になって食べる姿。思い出すと、少し寂しくなる。軽快な軽口を交わし合い、互いに口は悪かったけれど、本気で腹は立たなかった。


(元気だと、いいな……)


 雪蓉は大きな入道雲を見上げながら、心の中で呟いた。


 今日も無事に饕餮に食事を捧げ、洞窟から帰る道すがら、騒がしい物音がした。馬の鳴き声や、騒々しい人の声。それらは雪蓉たちの住む家屋から聞こえてきた。


 小さな女巫たちと何事かと目を合わせ、急いで家屋へと走る。


 そこには馬に乗り、鎧で身を固めた武官が大勢列挙していた。物々しい雰囲気に、小さな女巫たちは震えあがる。


 仙の居宅を取り囲むようにして、武官たちは馬上から周囲を見回していた。そして、腰の曲がった小さな仙が居宅から外に出て、一人で対応しているようだ。


(何を話しているの……?)


 震える小さな女巫たちを抱きしめながら、彼らの様子を窺う。


 すると彼らは大きな声で「潘 雪蓉はおるかー」と叫んでいた。


(あの人たちの目的は、私……?)


 林から彼らの前に出て行こうとする雪蓉に、小さな女巫が裾を掴んだ。不安そうに見つめる彼女たちに、雪蓉はにっこりと微笑む。


「大丈夫よ、私は何も悪いことなどしていないもの」


 小さな女巫は、掴んでいた袖を離した。


(そうよ、大丈夫。何が目的か分からないけど、仙婆一人に任せて、隠れているわけにはいかないわ)


 雪蓉は意を決して、彼らの前に歩み出た。


「潘 雪蓉は私よ!」


 遠くまで響く、威勢のいい声に、大勢の武官たちは一斉に雪蓉の方に振り向く。


 体格が良く頑強そうな男たちの視線を一身に浴び、さすがの雪蓉も肝が冷えた。しかし、それをおくびにも出さず、背筋をしゃんと伸ばした。


 男たちを睨み付けるように佇んでいると、仙と話していた位の高そうな武官が雪蓉に歩み寄ってきた。


「お主が雪蓉か。なるほど……」


 位の高そうな武官は、まるで雪蓉を値踏みするように視線で舐め回す。当然、いい心地のしようもない雪蓉は毅然と口を開いた。


「私に何の用があって?」


「ある御方が、貴殿に用があり、わざわざ兵を引き連れ参った」


「ある御方……?」


 おそらく相当偉い身分なのであろう、そんな人物に心当たりがあるはずもなく、雪蓉は首を捻った。


 すると、馬のひずめの軽やかな音がして、武官たちが一様に道を開ける。


 黒い毛並みが美しい馬に乗り、紅色の鎧兜をした男が雪蓉にゆっくりと近付いてくる。


先ほどまで仙婆と話していた武官も位が高そうだと思ったが、そんな比ではない。威風堂々、圧倒的な威厳のある風格を放ち、駿馬に跨っていることからも、兵の大将であることが窺い知れる。


男は雪蓉の側で馬を止めると、おもむろに紅色の鎧兜を外した。


現れた顔は、息を飲むほどに整った見目麗しい青年だった。流れるような漆黒の髪に、鋭くも色気の含んだ蒼玉色の瞳。


 こんなに綺麗な顔をした男の人、初めて見た……。雪蓉は圧倒されながら男を見上げた。


「……久しぶりだな、雪蓉」


 固く結んだ唇が、わずかに綻ぶ。威圧されるような雰囲気から、いくぶん柔らかな顔を見せて男は言った。


「えと……どちら様ですか?」


 見るからに高い身分である彼と、出会うはずもないし、その顔に見覚えもなかった。戸惑っていると、男は眉根を寄せて怒り出した。


「鎧兜を取っているのに思い出せないとは、お前の脳みそは鶏以下だな」


 精悍な顔立ちに似合わない暴言を吐かれ、雪蓉は「あっ」と声を出した。


 この生意気な口ぶり、なにより蒼玉色の瞳……。髪はわかめのようにぐちゃぐちゃだったから随分雰囲気が違うけど……。間違いない、こいつは……。


「あの時の行き倒れ男!」


 雪蓉は腕をぴんと張り、指さした。


「思い出してくれたみたいで光栄だな」


 庶民に指さされたにも関わらず、男はニヤリと口の端を引き上げる。


「何しに来たのよ!」


 一か月前の接吻を思い出し、雪蓉は今にも砂を投げかける勢いだ。


 無礼極まりない口ぶりと態度に、武官が慌てて会話に入る。


「おい、女! この御方は、舜殷国皇帝、劉赫様であられるぞ!」


 ……舜殷国、皇帝?


「まさか」


 から笑いをすると、周りの武官たちはまなじりきつく雪蓉を睨め付ける。

 周りの雰囲気に、どうやら本当のことであると察する。


「嘘……」


 途端に血の気が引く。なにしろ雪蓉は、時の皇帝に、罵詈雑言を浴びせかけ、渾身の平手打ちをおみまいしたのである。


「まさか、あの時のことを恨んで私を処罰しに来たの⁉」


 なんていう執念深い底意地の悪さ!


 雪蓉は心の中で叫んだ。


「お前今、心の中で俺のことを粘着質な野郎だとか思っただろ」


「いや、そこまでは……」


 だいぶ近いことを心の中で叫んでいたが、少し言い方が違う。意味は同じだが。


 劉赫はため息をついて言った。


「処罰しに来たんじゃない」


「じゃあ、何しに?」


 訝る雪蓉に、劉赫は不敵に微笑む。


(俺が皇帝だって分かっても、口調も態度も改めないとは……)


 呆れるような、それでこそ雪蓉だと喜ぶような、不思議な満足感に包まれる。


「あっ! お礼しに来てくれたの?」


 雪蓉の顔がぱっと華やぐ。


「お礼……そうだな。最高の幸せをお前に与えに来た」


 なんだろうと思いつつ、なぜか嫌な胸の予感がする。


 雪蓉は自然と身構えた。


「お前を後宮の妃に召し上げる」


「……は?」

 驚いたのは雪蓉だけではない。そっと成り行きを見守っていた小さな女巫たちや仙でさえも言葉を失った。


「俺と結婚するんだ、雪蓉」


 勝ち誇った劉赫の笑みに、冗談ではなく本気で言っているのだと悟る。


 一瞬、泡を吹いて倒れそうだったが、慌てて気を確かに保つ。ここで倒れたら、起きたら後宮の妃にされていそうだ。


「死んでもお断りよ!」


 雪蓉はもう一度皇帝の頬に平手打ちをかましそうな勢いで言った。


「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」


 駿馬に跨り、雪蓉を見下ろしながら劉赫が目を細めて言った。淡々とした口調だが、明らかに怒っている。


「ええ、十分理解しているわよ。聞こえなかった? もう一回言ってあげる。あんたの妃になんか、死んでもならない! 殺すなら殺しなさいよ、変態下衆野郎!」


 雪蓉の暴言に、武官たちがざわつく。皇帝にこのような口をきいたら、首を即刎ねるのがしきたりだ。だが劉赫は、怒る武官たちを冷静に静め、やけに慣れた様子で雪蓉の暴言を聞き流す。


「お前の言い分は分かった」


 感情の起伏を見せず、平淡な物言いだった。


 元より、拒まれるのは計算の内だ。


「分かってくれたみたいで良かったわ」


 案外聞き分けが良かったので、雪蓉はほっと胸をなでおろす。しかし……。


「捕獲しろ」


 劉赫の口から出た思わぬ言葉に、雪蓉は目を丸くする。


「ほ、捕獲!?」


 動物じゃあるまいし、と言いかけたところで、武官たちが雪蓉を取り囲む。


「待ちなさいよ、こんなの人権侵害よ! 卑怯者! 非道! 鬼畜! 人でなし! それと、ええと……甘えん坊!」


 雪蓉は襲い掛かる武官に囲まれながら叫んだ。思い浮かぶあらゆる悪口を並べたてる。妃になるくらいなら、不敬罪で処罰された方がいい。


「それをいうなら甘党だ」


 眉間に皺を寄せ、心底不服そうに、劉赫が訂正する。他の罵詈雑言はまったく気にしていないようだが、甘えん坊は別らしい。


「私は絶対、妃なんかにならない……から……ねー……」


 雪蓉が叫んだ言葉尻は、武官たちに抑え込まれ、儚く消えていったのだった。

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