第三話 どうにかしてお前を奪いたい
次の日、朝日と共に目が覚めた男は、痛む足をどうにか引きずって小屋の外に出て、用を足した。昨日は起き上がることもできなかったから、我ながら治癒力は相当なものだと思う。
『まるで、人間じゃないみたい』
女の言葉を思い出し、胸元の襟を押し潰すように握りしめた。
その時、子供の笑い声が聞こえたので、慌てて木の陰に隠れる。ここは、男子禁制だと女が言っていた。姿を見せない方がいいだろう。見つからないように、そっと様子を窺う。
四人の子供たちに囲まれて、真ん中に立っていたのは、昨日の女だ。遠目から見ても、美しいのがよく分かる。
整った横顔に、背筋の伸びた綺麗な立ち姿。子供たちに向ける笑顔が、とても柔らかで輝いて見える。
彼女たちが遠くへ歩いて行き、見えなくなると、ハッと我に返った。
……見惚れていた、彼女の美しさに。
馬鹿な、美しい女なら飽きるほど見ている。あんなガサツで口の悪い女に、心を動かされるわけがない。
……しかし。
昨日食べたお粥は、驚くほど美味かった。濃厚な豚足の旨味と、繊細な味付け。丁寧に下処理をしなければ、あんなに爽やかで喉越しのいい味は出ない。
あれを、あの女が作ったのか……。そう考えると、なぜか胸がそわそわする。
藁の上で、目を開けたまま気配を消すように横たわっていると、小屋の扉が開き、女が入って来た。
「もう起きていたの。おはよう。その顔色を見ると、よく眠れたみたいね」
声を出さずに頷く。なぜだろう、女の顔がまともに見られない。
「朝食を持ってきたわ」
そう言って女は、お盆を床に置いた。白い湯気を立てる丼の中には、ふわふわの雲吞と鶏肉と野菜、それらに隠れるように半透明の米麺が入っている。
まずはスープを飲むと、濃厚なのにあっさりとしていて、野菜の甘味が溶けて優しい味わいだ。次に米麺を啜る。喉越しがよく、いくらでも食べられそうだ。さらに、雲吞を頬張ると、中から肉汁が出てきた。
「……これが、美味い味というものなのか」
感心したように丼を見つめ呟くと、女は呆れたような声を出した。
「ずいぶん遠回しな褒め方ね」
無我夢中で食べる俺を見て、女はまんざらでもない顔をして微笑む。
「昨日は起き上がれなかったのに、今日は自力で起き上がれるのね。本当凄い回復力」
女のひとり言のような言葉にはあえて反応せず、あっという間に平らげて、丼をお盆に戻す。
「ここはどこなんだ?」
「ここは、四凶の地の一つ、饕餮の住む山よ。私は饕餮を鎮める女巫なの」
「饕餮……。ああ、だから男子禁制なのか」
なるほど、ずいぶん遠くまで流されてきたらしい。
「饕餮の女巫なら……お前は親に捨てられたのか?」
「あんたはっきり言うわね。普通はそういうことを心の中で思っても聞かないものよ。……って、これ私がよく人に言われることだわ」
「だろうな。お前、失礼なこと平気で言いそうだし」
「はあ⁉ あんた助けてもらった分際でよく言うわね!」
……確かに。俺も人に言えないくらい口が悪い。だが、それを指摘されたことなどなかったし、こんな風に怒られることもなかった。女の言い方はきついし、無礼ではあるが、不思議と悪い気はしない。
女は桶に入った水で布を濡らすと、それでぞんざいに俺の顔を拭き出した。
「おいっ! 何するんだ! 痛い、痛いっ!」
「ちょっとくらい我慢しなさいよ! 真っ黒に汚れた顔を拭いてあげてるのよ!」
「それにしたって、もっと拭き方ってものがあるだろ。床にこびりついた汚れを落とすように力強く拭くやつがあるか!」
「うるさいわね! こっちは感謝されても、文句言われる筋合いはないわよ!」
「いい、痛い! いいから、自分で拭く!」
布を取り上げて、顔を拭く。前言撤回だ、悪い気しかしない。
顔を拭き終えた俺を見て、女は驚いた顔を見せた。
「あんた……汚れてて気づかなかったけど、整った顔しているのね。特に蒼玉色のその瞳、とっても綺麗……」
女は感嘆するように、俺の顔をじっくり見つめた。気恥ずかしくて、ふいと顔を背ける。
「俺は自分の顔が嫌いだ」
「どうして、こんなに整っているのに」
「嫌いなものは、嫌いなんだ」
投げやりに答える。自分の顔なんて、見たくもない。
「そんなこと言ったら、親が悲しむわよ」
ふいに、嫌な記憶が蘇る。俺の顔を見ると、恐怖に怯える表情を浮かべた女。女は、俺の母親だ。その顔を思い出して、強烈な憎悪が湧いてきた。
「親に捨てられたくせに、よく言うな」
酷く攻撃的な気持ちになった。女が傷付くような言葉を言ってしまい、ハッと我に返る。
「悪い……今のは……」
慌てて弁解しようとすると、女は気にしていない様子で話し出した。
「確かにここは、子捨て山と呼ばれているけど、親を憎んでいる子なんていないわ。私が生まれた農村は、ここからとても遠い場所にあるの。
父は数日かけて、わざわざここまで私を連れてきた。
ここに来るまでに全ての所持金を使い果たしてまで。売ることだってできたのに、それをしなかった。
農村は貧しくて私を引き取ってくれる余裕のある人はいない。ここしかないと父は思ったのだと思う。
私を助けるためには、ここしかないと……。
その後、父がどうなったかは分からないわ。お金も尽きて、生きているかも分からない。
だから、恨んではいないのよ。恨みようがないとも言えるけど」
思いがけず、女の過去を聞いてしまって、彼はバツが悪くなって口を閉ざした。
……恨みようがない。まさしく、恨んでも仕方がない。悪いのは、母親ではない。だが……。
そこまで考えて、思考を止める。もう抗うことさえ許されない。俺の中にはあいつがいる。運命を受け入れなければいけない。それがどんなに苦痛を伴うとしても。
・・・・・・
目が覚めてから二日目の朝。驚異的な回復力によって、片足を引きずるようにして休みながら歩けば、山を下りることも可能なくらい回復した。
多少無理をしても、早く戻らねばならない。きっと大騒ぎになっていることだろう。だが……。
「おはよう、ご飯持ってきてあげたわよ。感謝して敬いなさーい」
足で扉を開け、器用にまた足で扉を閉める。両手がお盆でふさがっているとはいえ、なんとも粗野な開け方だ。
「感謝して敬えと言われると、途端にありがたみが失せるな」
「助けてあげたのに、あんた本当に偉そうね」
呆れた顔で俺を見下ろす女。お互いの性格の悪さを認識し、軽く受け流せるほど距離感は近くなった。
「今日の飯はなんだ?」
「焼きおにぎりよ」
「それだけか。どんどん質素になっていくな」
「あんたね、タダ飯食べてる分際のくせに文句言わないでくれる? 米だって高いのよ」
ズイっと口の前に焼きおにぎりを出され、そのまま一口頬張る。
「なんだこれは……」
口の中で広がる香ばしい醤油の味わい。ホロリとほどける白米の旨味。
女から焼きおにぎりを奪うようにして持ち、夢中になってかぶりつく。
「三食三晩これだけでもいいぞ。一生これだけしか食えなくても後悔はない」
「また回りくどい褒め方ね。ま、気に入ってくれたみたいで良かった」
女は、自分が作った料理を美味しそうに食べてくれることが嬉しいらしい。いつもはきつい雰囲気なのに、男が食べている姿を見る時の彼女の顔はとても柔らかくなる。
そんな彼女を見ると、頬が熱くなって胸が締め付けられる。黙っていれば天女のように美しいその顔を、直視することができなくなる。
……飯が美味いから、つい長居をしてしまうんだ。打ち解けてきた彼女と離れるのが惜しいからではない。そう、断じて。
男はなぜかむきになって自分にそう言い聞かせた。
「さすがにこれだけじゃかわいそうだから、これもあげる」
女は懐から袋を取り出し、中から一つ摘まみ上げた。
「それは?」
半透明の輝く四角い個体は、まるで宝石のように綺麗だった。
「琥珀糖っていうのよ。子供たちの大好物なの」
女は微笑むと、半ば強引に男の口に琥珀糖を押し入れた。
「お、おい!」
有無を言わさず口に入れられた琥珀糖は、口の中で甘くとろけた。
思わず黙り込み、ゆっくりと味わうように咀嚼すると、シャリシャリと小気味のいい音がする。
まるで呆けたように味わう様子の男を見て、女は不思議そうに顔を覗き込む。
「もしかして、甘いの苦手だった?」
男は勢いよく首を横に振る。
「え……それなら……あ、分かった! 美味しすぎて感動して言葉が出ないのね!」
女の指摘は当たっていた。世の中にこんなに美味い食べ物があったのかと衝撃を受けていたのだ。
「あんたって甘えん坊だったのね」
不愉快極まりないことを言われたので、怪訝な顔で女を睨み付ける。
「……甘えん坊? もしかして甘党って言いたかったのか?」
「ああ、そうそう、それ!」
「二度と間違えるな」
正直本気で怒っている俺に対して、女は全く気にする様子もなく話題を変えた。
「そういえば、長袍と下衣を持ってきたんだったわ。仙婆が着なくなったものを継ぎはぎして作ったものだから見た目はアレだけど……。今のボロボロの衣よりはまだいいでしょ」
見た目はひどいものだ。布の色がおかしなところで変わっているし、そもそも布生地も違う。これはお洒落です、と言い張るには明らかな無理がある。だが確かに、今の血がべっとりと固まった服よりはましだ。
「ちょっと、こっそりため息つくのやめてくれる⁉ 見えてるから!」
「着替えるから、一旦外に出るか、後ろを見ていてくれないか。俺の裸が見たいというなら止めないが」
「ため息の件、思いっきり無視したわね。まあいいわ。あんたの裸なんか見たくもないから外に出てる」
女が外に出るのを確認し、服を着替える。元は女物の衣を無理やり男が着られるように作ったので、色々と残念な部分はあるが、目を瞑ることにする。
生まれて初めて袖を通す安価な布の肌触りに、新鮮な驚きを感じる。見た目はみすぼらしいが、あいつが俺のために作ってくれたと思うと、妙に胸の奥がくすぐったくなるのはなぜだろう。
まあ、悪くはないか、と独り言つ。
「できたぞ」
外にいる女に声を掛けると、扉が開き中に入ってきた。
ようやくまともな身なりとなり、佇んでいる俺を見て、女は目を見開いた。
「……驚いた。あんたって、元は精悍っていうか、気品があるというか、農民の雰囲気ではないわね。あんた一体何者?」
女の問いに、目を逸らす。こんなところで正体を打ち明ければ大変な騒ぎになることは分かっている。
「そういえば、あんたの名前聞いてなかったわね。私は、潘 雪蓉」
ニコリと微笑み、俺の返答を待つ雪蓉と名乗る女を前にして、わずかに罪悪感が生まれる。
「……忘れた」
「えっ!」
もちろん覚えているが、言うわけにはいかないのだ。……今は、まだ。
「頭でも打ったのかしら。まともそうに見えたけど。いや、そうでもないわね。図々しいし生意気だし。確かに変ね、変だわ」
なぜか妙に納得した様子で、本人を目の前にとんでもなく失礼なことを口走る。
誰が変だ、俺はまともだ、と言いたい気持ちをぐっと堪える。
「雪蓉」
名を呼ばれた雪蓉は、驚くように彼を見つめる。
「礼は、必ずする」
「何よ、改まって。別にいいわよ、礼なんて。それより、自分の名前も分からないのに、どうやってお礼する気よ」
黙り込む男に、雪蓉は快活に笑う。
「じゃあまたね、ゆっくり休むのよ」
コクリと頷くと、雪蓉は安心したように出て行った。
礼は、何がいいだろう。本人にそれとなく聞いてから出立しても遅くはないはずだ。
雪蓉……。ガサツで口が悪く失礼な奴だが、優しく純真な女だ。着飾らなくても内側から輝くような美しさがある。こんな女、初めて見た。
「雪蓉、どうにかしてお前を奪いたい」
心の内に芽生えた強い欲望に、思いを巡らす。
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