よりどころ
俺は誰も殺したくなかった。
そのことに気付いた時、俺の中で酷く冷たく凍えていた心が、音を立てて砕けた。
状態:空っぽ
何だよそれ。空っぽってなんだ、空っぽって。ふざけてんのか。
全身の力が抜けて行った。万能感が浮遊感に変わり、喪失感が圧し掛かる。
俺の体は主を失ったようにピクリとも動かなくなり、空から落ちていく。まさに、体の形をしただけの空っぽな何かだった。
この感覚を覚えるのは、たぶん二度目。死ぬ感覚を全身に浴びるのは、二度目だ。
意識が体よりも早く落ちていく。真っ暗闇の中に落ちていく。他に誰も居なくて、他に何もない空間に向かうために、真っ直ぐに落ちていく。
もう死ぬ、そう確信できたその時に、最後に二つの瞳がそれぞれ捉えた。
どんな氷でも溶かして瞬時に蒸発させてしまうソルが泣いていた。悲しければ、辛ければ俺に涙を見せてくれていた黒江が悔しそうに剣を握り締めていた。怒りに満ちた顔で、遣る瀬無い気持ちをかみ殺していた。二人は一心に、俺を真っ直ぐ視線を向けていた。
本当の本当、俺の意識が完全に消えるその瞬間。二人が大きな口を開けて何かを叫んでいるのを見た。それは果たして何を言っていたんだろうか。分からなかった。けれどただ、嬉しそうななんてことはあり得ないっていうのは、はっきりと分かった。
次に目が覚めた時、俺がいたのは真っ暗闇の中じゃなかった。冷たくて寂しい場所でもなかった。
快晴の中で真っ白な太陽がさんさんと輝いて、大きくふわふわ浮かぶ雲がゆっくりと流れる。そんな青空の下で、俺は目覚めた。疲れを持ち去るような軽やかな風が吹き、心地いい草の香りが漂う草原で、俺は目覚めた。
それはまるで、この世界で初めて目覚めた時のような光景。
「司、おはよ」
はっとした。してから、声が聞こえたことに気付いて、起き上がったことに気付くよりも早く、その声の主を探した。そして見つけた。
頭の上で三角形の耳を二つ揺らし、長細い尻尾を生やすその少女。
寝ころんでいた俺を見下ろしていたのだろう。中腰から姿勢を正しながら俺を見上げるかなを見て、俺は言葉を詰まらせた。
「か、な……」
「ん、かなだよ」
あっけらかんと言ってのける。それが当然かのように、無垢な顔を傾げて見せる。
全身が震えるのを感じた。何かを言葉にする気にはなれなかった。ただゆっくりと、頬に涙が伝った。
「司、泣いてるの?」
再び小首を傾げるかなの体を、思わず抱きしめていた。
「司?」
「かな……かなぁっ!」
思わず思いが零れだし、涙となって濁流のように顔をぐちゃぐちゃにする。
「ああもう、なんだよ畜生。生きてるなら早く言え、死んでないなら早く顔を見せろ。俺、かなが死んだと思って、自分さえ捨てかけたんだぞ!」
「ん、よしよし……」
「なんだよ、俺は、かなを……っ!」
かなは、ゆっくりと俺の背中を撫でた。それだけで、どんな言葉よりも先に安堵が漏れて、喜びが涙となって流れ出る。
怒りも湧いた、憎いとさえ思った。それでもそれを中和してあまりある、喜びに溢れていた。心の中がぐちゃぐちゃになって、言葉にするのなんて不可能なほどに頭の中がぐるぐるで。何か言おうとするたびにそれが嗚咽になって、その中でたまに、かなの名前になっていた。
俺の涙が収まるまでに、いったいどれほどの時間が経ったのだろうか。一体どれだけの涙があふれ、何度かなの名前を呼んだのか。そんなことが分からなくなるには十分な程、俺はかなを抱きしめ続けた。かなは、俺の背中を撫で続けた。
「ありがとな、かな」
「ん、かなも、司にありがとって、言う」
「どうしてだ? 俺は、別に何もしてないぞ?」
「ん、かなのこと、大切に思ってくれて、ありがと、って」
もう一度泣かそうとしているんじゃないかって言葉に、俺は思わず笑っていた。
「当然だろ。俺は、かなのことが大好きだからな」
「かなも、司のことが大好き」
「知ってる」
「かなも、知ってたよ」
抱擁は解かれ、俺たちは並んで座る。まだまだ青い大空が、地平線の先まで伸びている。一望できる草原に二人で座っていると、他に何もいらないんじゃないかって、そんな風にさえ思えてしまう。
やっと思考が落ち着いたところで、俺は気になっていたことをかなに聞くことにした。
「なあ、かな。どうしてかなこのユグドラシルにいるんだ?」
そう、ここはかなの造り出す、精霊だけの暮らせる世界。何度か訪れたことがあり、俺に取っても見慣れた場所だった。
「ん。ネルが、かなを体から追い出した。消えそう、って思ったら、ここにいた」
「なるほど……ネルの力で体と核が分離させられたのか。それで、核だけでも生きて行けるくらい安定しているユグドラシルに……ってことはもしかして、俺も今核だけなのか? かなと普通に話せているし……」
「ん、司も、体を置いてけぼりにした。だから、かなが呼んだ」
「そうだったのか」
つまり、俺はかなに命を救われたのだ。でも、そうと分かればやることは決まって来る。かなに提案しようとそちらを向けば、かなは真っ直ぐな瞳でこちらを見上げていた。
先手を打たれるような行動に驚くと、かながゆっくりと言う。
「司、行くの?」
「……ああ、まだ、戦わないといけない気がするんだ。戦いは、たぶん終わってない」
「危ないよ?」
「分かってる。でも、守りたい人がいるし、俺のことを待ってくれている人もいる」
「そっか。なら、かなも行く」
「ああ、そうしてくれ。頼りにしてるからな」
嫌な顔をするどころか、迷いのない視線を向けるかなは、僅かに微笑みを作る。ぎこちなかったけれど、満面の笑みだった。
「ん、かな、司と一緒」
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