冥府の覚醒

 俺とルナが亜人国ミレイヤの城下町を散策している頃。王城の一角では密談が行われていた。


「それで、獣王国の動きはどうですか?」

「……突然、軍を立てて進行を始めた、としか言えません。宣戦もなく、使者もありません。既に、国境へと向けて数万の軍が集結しているようです」

「明確な戦意はない、と言うことですか?」

「あくまで国境に集っているだけで、我が国に侵略を開始したわけではありません。不可侵条約に抵触していない以上、こちらから反撃に出ることは条約違反になるかと」

「まったく、あの獣王も鬱陶しいですね」


 ルナは、その手に持っていた果物を握り締め、散々させた。


「リリア、そちらの防衛線は任せます。最悪の場合は、私も前線に出ましょう。その時は連絡をお願いします」

「かしこまりました。けれど、よろしいので? 何も秘密裏に進める必要はないでしょう。例えば、ソル様やルナ様に助力を願ってはどうでしょうか。それか、あの司と言う精霊人を使うのも手かと思いますが」

「分かっています。けれど、これはこの国の問題です。あまり、巻き込めない。……すいませんね、リリア。やはり、私は国王の器ではないようです」


 玉座に腰掛けながら、ネルは小さく頭を下げる。目の前に立つ、エルフの女王に。


 煌びやかな金髪を背中の半ばまで伸ばし、翡翠色の瞳がくるりと覗くその顔は人形のように精密で、作られたような美貌だった。

 けれど、これが本来の姿だ。クイーンエルフ、リリアの。


「いいえ。それは私も同じことです。だからこそ、ネル様に感謝しているのですから。これからも、お仕えさせてもらいますよ」

「……そう、ですか。なら、安心ですね。けれど、いざとなれば私の名など無視して、同族のために動いてくれて構いません。その時、私があなたを恨むことはあり得ませんから」

「そうなることがあれば、そうさせていただきますよ」

「ええ、そうしてください」


 安堵の笑みを浮かべるネルと、絶えぬ微笑みを向けるリリア。その言動に現れるのは信頼のように見えて、どこかずれている関係に見えた。


「それでは、私は失礼します。長居は無用ですからね」

「そうですね。まだ、あなたの存在を知られるわけにはいきませんから」

「はい。それでも、その時は近いですよ。では」


 そう言ってリリアは小さくお辞儀をし、転移で王城を去って行った。

 一人残ったネルは、険しい表情を浮かべて唇を噛む。


「私にもっと、優れた采配が出来れば、こんなことには……ッ!」


 国王の苦悩は、簡単に晴れることはない。

 そこに浮かぶのは後悔のような、怒りのような表情。苦虫を噛み潰したよう、と形容することが出来れば、歯を食いしばると表現することも出来るような、そんな顔。


 それは、いつもの毅然とした態度が嘘であるかのように、悶々とした日々を送る少女そのもののように。苛立ちを露にしつつも、その標的を見失ったように、掴みどころも落としどころもないような、浮遊感に包まれた怒り。

 どす黒い何かが、彼女の足元から漏れ出した。霧のように薄っすらと、形を持たずに広がっていく。


「まだ、扱いきれないんですね、私には……。《冥界神ハーデース》、あなたはいつ、私を認めてくれるのですか?」


 霧が大きくなるほど消えて行ったネルの怒りは、やがて何かを懇願するようになる。


「……《森羅万象》。これが、すべての鍵なのでしょうか。答えてください、英知の頂よ」


 すべてを受け入れるように天を仰ぎ、瞳を仕舞いこむ。その、大和撫子然とした華奢な体には似つかない、漆黒の瞳を。そして、両手を合わせて祈りを捧げる。懇願する。そして、瞼を上げた。


 そこに、黒はなかった。浮かんだのは紫色ししょくの百合。


「《死後色ネザー・コスモス》……神は、私に恵んでくださるのですか? 世界の調和を保つためではなく、私自身の願望を、叶えてくれるのですか?」


 冥府は小さく、笑みを浮かべた。


「感謝します、神。必ずや、神を語る不埒物を、この手で制裁して見せましょう。期待、していてくださいね」


 ふふふっ、と笑うネルから溢れ出した黒い霧は、既に部屋中を覆っていた。


 ルナに揶揄われた帰り道、いつにもまして上機嫌なルナを微笑ましく見ていると、軽い足取りで先を行っていたルナが突然歩みを止めた。どうしたんだと思いながらも歩調を変えずに近寄って、気付いた。

 ルナの体が、小刻みに震えていることに。覗き込んで、目を見開いた。ルナの瞳が、驚きと、恐怖と、怒りに溺れていた。


「あの、バカ娘。何をやらかしたのか、分かっていないのかの?」

「お、おい、どうしたんだよ、ルナ」

「っ!? 司殿、やっぱり王城に戻るのはなしかの。もう、妾達の居場所はあそこにはないかの」


 焦った様子で振り返り、ルナは俺の手を引いて走り出そうとする。


「だ、だからどうしたんだよ!」


 しかし、突然のこと過ぎて俺も理解が追い付かない。僅かながらの抵抗をしてみると、ルナは無理強いすることなく力を弱め、こちらを向いて言った。


「邪神が、復活したかの」

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