王女の葛藤
影空間の中でしばらく王女を観察していると、不意にこちらに振り向いてきた。
小さく息を吸い込むのが見えたため、俺は咄嗟に影空間から飛び出す。数瞬後、先ほどまで影空間の門が隠れていた影部分に王女の剣が突き刺さっていた。
思わず、頬を引きつらせたべ。おいおい、ばれるとは思わなかったぞ。
空は雨でも降るのか黒い雲に覆われていて、あたりは影ばかりだ。やみくもに狙って、こんなうまく当たるわけがない。
王女はそもそも俺が陰に隠れていることを知らないはずだし、気配を完全に遮断する空間に潜るスキルなので初見で見抜くのは普通無理なんだが……勘だけで突破されるとは。
そして俺が飛び出したのを一瞥した王女は、瞬絶を発動して俺との間合いを詰めてきた。引きつる顔を戻す暇もなく、王女の剣は俺の首元に添えられた。俺は影武者を発動しようとして――
刹那、俺と王女は光に包まれた。聖気ではなく、魔法の光だった。
「ッ!!」
軽く、甲高い音が辺りに響く。聖剣を発動していなかったのだろうか。訪れたのは腐り落ちるような苦しみではなく、何もかもを失ったかのような解放感、浮遊感だった。
僅かに残った意識の中で、俺は加速し続ける思考で自分の状態を確認した。
――俺の首は切り裂かれ、血を吹き出しながら頭と体が分離した。体は力なく崩れ落ち、頭部もポトリ、と寂しい音を立てながら地面に落ちる。地面には次々と大量の血が流れだし、赤く染まる。
王女のきらめく金髪にも、かなりの返り血がついていた。その赤く染まった顔には、混乱の表情が浮かんでいた。戸惑い、後悔、畏怖。そう言った感情が入り乱れた結果か、可愛らしい顔が歪んでいた。
「どうやら終わったようですね。死んだのは魔獣使いの方でしたか。まあ、都合がいいと言えるでしょう。なにやら厄介な能力を持っていたようですしね」
不意に、訓練場に声が響いた。大きいわけでもないのに全体に届いた声は、先ほどまで国王と女王が立っていた場所から発せられたものだった。
見てみれば、そこには純黒のローブを身に着け、フードで顔を隠す一人の人間が立っていた。
「あなたは? 先ほどの光は、あなたの仕業ですか? それに、母と父をどこに」
「まあ、落ち着いてください。そうですね。先ほどの魔法は私の使ったものです。スキルを一時的に封じる魔法でしてね。面白いでしょう? そこの男が何やらスキルを使いそうだったので、手助けして差し上げたのです」
王女の質問に、そいつは淡々と答える。
「それと、あなたの両親には、少し眠ってもらっただけですよ」
「なんですって?」
王女が鋭い視線でそいつを睨む。先ほどまでの歪んだ表情は、すでに消えている。むしろ、怒りに染まっているようだ。
「用があるのはそちらの狼です。どうやらあなたはあの魔獣使いに仕えていたようでしたが、主を失った今、どうするのですか?」
「どうだろうか。適当に放浪するのも、住処に帰るのも我の勝手だろうが、一旦亜人国に戻ることにしようと思っている」
リルは異常なほどに落ち着いていた。目の前のそいつのせいで司の首が跳ねられたというのに、一切の焦りも見せず、ただ淡々とそいつの質問に答えた。
「そうですか。では、提案です。我ら、邪神教の同志となりませんか? 賢明なあなたなら、よい返事が聞けると期待していますよ」
そいつが述べたのは、近頃司たちを悩ませる原因となっていた邪神教の名だった。
「我らに味方すれば、貴方にさらなる力を与えましょう。今のあなたは主を失ったことで弱体化しているでしょう? 邪神様の加護を受ければ、今度は思う存分暴れることができるようになります。どうですか? 悪い話ではないでしょう?」
「何の話をしているのだ?」
「いえ、ごまかす必要はありませんよ。あなたはかなり好戦的な性格のようだ。ですが、ここ最近は暴れたりないでしょう? 我らのもとに来れば、今よりも強大な力を思う存分使うことができる、と言っているのです」
「ますますわからんが?」
得意げに語るそいつに、リルは理解できないと首を傾ける。
「どうして我が暴れる必要がある? そもそも、我は邪神などという下卑た生物の力などいらん。それに、司殿を失ったことによる弱体化? そんなものは受けていないが?」
「……はい? 弱体化を、受けていない?」
「ああ。試してみるか?」
「それは、どうやって――」
そいつが言い終わることのないうちに、リルは一瞬にしてそいつの右腕を切り落としていた。
「うがぁッ!! ば、バカなっ!? 従魔が主を失って弱体化を受けぬなどッ! そんなことあり得ないはず!」
腕を失ったそいつは声を上げ、自信の背中に回り込んでいたリルに鋭い視線を向ける。血が滴る腕の切り傷に左手を当てて、止血をしようとしているようだが綺麗に切り裂かれた断面から流れる血を止めることはできない。
「そもそも我は司殿の従魔ではない。従者ではあるがな。何か勘違いしているようだから教えておくが、司殿は魔獣使いではなくただの剣士だ」
「それこそありえない! 普通の人間が、魔獣にしか扱えない能力を使っていたのだぞ! 従魔の力を扱えるようになる上位テイマーではないのか!?」
「違うと言っているだろう?」
騒ぎ立てるそいつだが、リルはそいつに背を向けたまま興味なさげに地面で爪を研ぎながら適当に答える。
「そもそも、貴様は何をしに来たのだ? そんな弱さで単身突入とは、愚かにもほどがあるだろう? この場には天人である王女もいるのだぞ?」
「はっ!王 女とて男との戦闘で疲弊している。片腕を失っていようが貴様さえ倒せば、なんてことはない!」
自信ありげにそう言うそいつへの興味を、リルは完全に失っていた。
(こいつ、本当に何を言っているんだ?)
勘違いも甚だしい。王女は先ほどの戦闘で疲弊してなどいない。あの程度の戦闘で疲れる王女であるはずがないのだ。それに、どうにかリルを倒せるつもりでいるようだ。そんなわけがないというのに。
呆れきったリルは、男に背を向けたまま王女と司の体に近づいた。
「状態は悪くないな。うまくすれば蘇生もできる」
「蘇生、出来るのですか!?」
リルの小さな呟きを、しかし王女は聞き逃さなかったようだ。少しばかりの歓喜と安堵を込めた瞳でリルを見る。その顔に合われた歓喜と安堵は、しかしすぐに罪悪感へと塗りつぶされる。本来ならば、ただ敵を切り伏せただけだ。
その程度の割りきりならば、王女には容易なはずだが。
「出来るやもしれぬだけだ。わかってはいたが核の損傷が大きい。生贄として魂と、かな嬢がいれば何とかなるやもしれぬな。呼んでおくとしよう」
「……生贄は、人間の魂で大丈夫ですか?」
「ん? ああ、構わないぞ。一人分あれば十分だろうな」
「そうですか……。では、目障りな相手を切り伏せるついでに、贄を確保するとしますね」
王女はそいつに向き直り、剣を構える。
「その命、いただきますよ。流石の私も、国の敵相手に賭ける情けはありませんので、覚悟してください」
「くっくっく、どこからでもいいですよ。邪神様の加護を受けし私が、貴方に負けるとは思わないことですね」
嫌らしく笑うそいつに、王女は冷笑を受けべた。両親に手を出されたことに対する怒りと、司を殺めたことによる動揺が合わさり、そいつへの純粋な殺意へと変化していた。
「どんな経緯であれ、司様を殺してしまったのはこの私。元々殺すつもりで向かっていましたし、本当ならばこの命を捧げるところですが、その前にこの行き場のない怒りをあなたにぶつけさせてもらいます。すみませんね」
王女は視線を下げ、悲しげに呟いた後、顔を上げた。
「私は剣士アリシア。罪を犯したものとして、王族を名乗るなどという恥は晒しません。一個人として、理不尽なまでの怒りを、あなたにぶつけさせていただきます」
そう、高らかに宣言した。
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