名前を呼んで

 死ぬのだろうか。


 俺が今考えられるのはこれくらいだった。激しい頭痛、酷い眩暈、苦しい痛み。その全てが死ぬ前兆なんじゃないかと思えてしまう。冷徹者の反動であることはわかるのだが、あまりにも辛いためそんなふうに思ってしまう。


 冷徹者。それは精神強化Ⅹが進化し、獲得したスキル。判断力、動体視力、洞察力、思考力、身体能力が上昇する代わりに、効果が切れた後大きな反動が待っているハイリスクハイリターンのスキル。

 発動条件は願望の強さが一定ラインに達したとき。そして願望の強さが一定ラインを下回った時、効果が途切れる。そして第二の権能として、思考の先端に願望のためなら死すらもいとわない、という第一前提が常に発生するようになる。

 冷徹者。そのスキルの名前の由来はそこにある。願望が強くなれば強くなるほど、その願望をかなえるためならどんな手段だって使う、そんな人間になってしまうのだ。だからこそ、冷徹者。精神強化が進化したその先に待っているスキルとして、相応しいものだと言える。


(主様! 主様! しっかりして! 主様ぁッ!)


 崩れ落ちた俺の体をかながゆする。大丈夫だと伝えたくても、うまく体を動かせない。力が、入らない。辛うじて動く視界は、しかし揺れ動き焦点が合わない。ただ、脳内に響くかなの声に悲しみがまぎれていることは、なんとなくわかった。

 もしかしたら泣いてくれているのかもしれない。死んでほしくないと思ってくれているのかもしれない。そう思うとどうしようもなく嬉しくなって、元気な姿を見せたくなった。だが、それも簡単にはできないらしい。

 腕に力を入れて、申し訳ないと思いながらもかなの肩をつかむ。何とか起き上がろうとしたものの、込めた力が一瞬にして抜けた。だめだ、まともに起き上がることすらできない。


 どうすっかなぁ……このままいくと心配させる一歩だぞ。……いや、簡単な話か。


「俺は元気だぞ。かなはどうだ?」


 擦れる声で、そう問いかける。もちろん、かなには意味は伝わっていないだろう。でも、何度ともなくかけたことのある言葉だ。


『俺は元気だぞ。かなはどうだ?』

『にゃー』


 学校近くの神社の軒下に丸くなるかなに、何度もかけた言葉。俺が気に入っていた挨拶のようなものだ。今日も俺が元気でやってけているっていう確認と、かなが元気にやっているかの確認。

 表情なんてほとんど変わらなかったし、真顔に近い顔ではあったけど、出会ってしばらくたってからは俺がそう話しかけると鳴き声でもって返してくれるようになった。雨の日も、雪の日も、多分台風の時も行ったことがあったな。それでこっぴどく親に怒られて、かなのことがばれるのは嫌だったので川がどうなっているのか気になったと嘘をついたらさらに怒られた。

 まあ、かなのことがばれなかったからよかったと当時は考えていたな。母さんが怖いのはわかっていたのに、あの頃の俺はよくできたものだ。


 だから、俺はそんな声を出していた。俺は元気だぞって伝えていた。そうしたらかなが俺をゆする力が弱くなった。そしてその手つきはなでるようなものになった。


(かなも、元気だよ)

「!?」


 どうしてわかったんだ? 日本語は聞きなれているはずだけど、完全に理解するなんて不可能のはずだ。なのに、どうして?


(主様がかなにかけてくれた言葉、たくさん覚えてる。全部全部、優しくて嬉しい言葉だったの、分かってた。こっちに来てたくさんおしゃべりしてたら、なんて言ってもらえてたのかがわかって、とっても嬉しかった。だから、わかる。主様元気、かなも元気。……それが一番)

「……かなは、本当に賢いな……」

(かな……かな、やっぱり好き。かなって名前、かなは好き。主様の、司って名前も大好き。司、って呼んでもいい?)

「……俺は司だ。だから、司って呼んでくれ」

(司……司……やっぱり、かなは好き。司がくれた、かなって名前も好き。だから、かなって呼んで)


 かながそう優しく語りかけてくる。やっぱりかなは賢い子だ。ちゃんと俺が言ってることがわかってることがわかってる。それに、優しい子だ。ちゃんと、俺の名前を憶えていてくれた、呼んでくれた。

 大好きな人に名前を呼ばれることが、こんなに嬉しいことだなんて、思ってもいなかった。司……ここしばらく聞いてなくて、俺でも忘れかけてたような名前。


 司。優秀な親に、しっかりとした人間になってほしいという願いを込められて付けられた名前。俺とは真逆の名前。だけど、決して嫌いになれなかった名前。司、司、そう母さんや父さんに言われるたびに少しだけ嬉しかった名前。好きじゃなかった両親だけど、俺をちゃんと一人の人間として認めてくれているような気がして。

 優秀な、心のどこかであこがれていた二人に認められている気がして、嬉しかったんだ。


 だけど、その時とは比にならないくらいに、かなに名前を呼ばれると嬉しい。司って呼ばれるたびに、もっと呼ばれたいって思える。ああ、愛おしい。こんなにも大好きだ。

 かなが大好きだったのは昔からだけど、この二か月でもっとずっと好きになっている。愛玩動物としての好きではない。今までは父性が出ているだけだと思っていた。それなのに――


「かな……かな、大好きだぞ」

(ありがと、司……。でも、かなの後に、なんて言ったの?)

「かな……わからなくていいよ、かな」

(まあ、いいや。あと少し、頑張れる? 司)


 任せろ。そういう意図を籠めて右手の親指を立てる。かなは一瞬目を見開いたが、俺が何をしているのかわかったのだろう。笑顔で親指を向けてきた。


 かなと会話をしているうちに、体が元に戻ってきた。一人で立てるくらいには回復したし、剣も握れる。かなに向けて笑って元気だって証明することもできる。かなもまた、俺に笑顔を向けてくる。

 それが嬉しくて、俄然やる気がわいてくる。このまま、押し切って勝ってやる。そして、かなと一緒に帰るんだ。


 冷徹者は、もうは発動するか分からない。そのほかには切り札のようなものなんてないし、どうしたって俺は補助に回ることになってしまう。それでもかなの限界突破はまだ発動中だし、生命力もかなり回復している。

 俺にはもう、勝つ未来しか見えていなかった。


(限界突破は頑張ってもあと三十分くらいしか使えなさそう。だから、それまでに勝負を決めよう!)


 俺はそれにサムズアップで応えて、気合を入れる。三十分もあれば十分だ。フェンリルはかなり疲弊しているが、俺たちはほとんど万全の状態だ。油断しなければ有利なのはこちら側。


 あと数分もしないうちにフェンリルが出てくる。それと同時にかなが畳みかけ、俺が隙を見て攻撃する。フェンリルの体には大きな傷が二つほどあるのでそこを重点的に狙っていけば俺でもダメージを与えられる。最後はかなが決めてくれるはずだ。それ以外は随時かなから指令が来るはずだ。それに、かなにはまだ切り札がある。万一にも負けはない。

 勝って二人で、リリアのもとに帰る。そう決めたから。


 空間門が、俺たちから少し離れたところに開かれる。俺は即座に解析鑑定を発動する。生命力:1983/3192 魔力:1293/6289


 さっき出てきた時よりも生命力が減っている。やはりさっき付けた傷が大きかったようだ。大きな傷は負っているだけで半永続的期にダメージを受けることになる。自然治癒の回復でも回復しきれないくらいのペースでフェンリルの生命力が減っているということだ。

 右足や腹部の傷からはもう血が出ていないが、先ほど付けた傷からはまだ血が滴っている。かなり疲労しているようで、魔力もぎりぎりだ。あの魔力量なら、再び空間門を発動するまでに三十分はかかるんじゃないか?

 移動程度になら使われるかもしれないが、回復目的で使うのは難しいはずだ。


 今が攻め時、そう思ったその時だった。


「――――」


 フェンリルが咆哮をあげる。それと同時に、地面に小さな空間門のようなものが現れて、三十近くの狼が現れた。鋼狼、銀狼、光狼、闇狼。いわゆる狼の中でも上位の存在たちで構成された集団だった。

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