M2
「アリス、アリス。教えて。あたしはおかしいの? 『お嬢様』はほんとうに存在するの? そこのスタンドにはほんとうに盗聴器が仕掛けられてあったの?」
あたしはそう叫ばずにはいられなかった。
アリスは笑う。血まみれの顔でくすりと笑う。
『なにをいまさらいってるの、マリア? あたしのことはずうっと見えてたくせに。それがあたりまえだと思ってきたくせに』
それはそうだが、アリスの場合、自分でも幻覚だという自覚はあった。
『それと「お嬢様」の指令書。どこからともなくいきなり現れても平然と受け入れてたくせに』
いわれてみれば、どうしてそれを不思議に思わなかったのだろう? いや、はじめは思ったはずだ。いつのまにか、そういうものだと受け入れていたような気がする。
だが、冷静に考えれば、やっぱりおかしい。あんなものがいきなり机の上に現れることはありえないのだ。ドアの下とかなら、誰かがこっそり外からさし込んだのかもしれないけど、机の上では無理だ。透明人間でない限り。
あたしは今までどうしてこんなことを平然と受け入れてきたんだろう?
……やっぱり、あたしはおかしい。普通じゃない。
「じゃ、じゃあ、あたしが彼らを殺したことも幻なの? ほんとうはべつの誰かが殺していたのっ!」
そう考えれば、猪股、羽田殺しのアリバイがあることも納得できる。今までは「お嬢様」がなんとかしてくれたと信じていたけど、なんとかって、いったいどうすればそんなことができる?
殺したことこそが幻覚……というか妄想、あやまった記憶で、ほんとはべつの誰かが殺したんじゃないのか?
それに考えれば考えるほどありえないことばかりだ。たとえば、あたしは「お嬢様」にすくなくとも数ヶ月は拉致され、殺し屋としての技をたたき込まれたはず。
だけどそれだって変だろう? その間、学校は? 母はあたしがいなくなったことに気づかなかった? その間、面倒は誰が?
そういえば、ナオミはいったいいつからいるんだったろう? その前は誰かべつの人が母の面倒を見ていたんだろうか? いずれにしろ大騒ぎしたはず。
矛盾だらけだ。しかも記憶がかなり飛んでいるところがある。それどころか、あの事件以前のことがよく思い出せない。断片的な記憶しかないのだ。
異常すぎる。しかもそれを不思議に思わないできた。
なぜか今まで完全に思考停止していたのだ。
ありえない。
「アリス、たった今、わかった。ぜんぶ妄想なのね。あたしの頭は壊れている」
『ぜんぶ妄想? あたしだけでなく?』
「そうよ、アリス。『お嬢様』なんていない。あたしは殺し屋としての能力もない。あいつらを殺したのもぜんぶ幻。指令書もない。あたしの妄想が作り出した狂った世界の中であたしは生きてきたんだわ」
『あはははははは。なにをいってるの、マリア。あなたは彼らを殺したのよ。「お嬢様」だって実在する。あなたに特訓したのもほんとのこと。あなたにとって幻といえるのはあたしの姿だけ』
「そんなはずはない。あたしは今、目覚めた。なぜかずうっと止まっていた思考が動きだしたのよ。もうごまかしはきかない」
『じゃあ、もう一度見てみれば。電気スタンドを。盗聴器やカメラが仕込んであるのを否定できるの?』
あたしは深呼吸した。心を落ちつかれ、見てみる。
幻じゃなかった。やはり機械は仕込んである。
「こ、これは、あの刑事が仕込んだのよ」
そうだ。あの電気スタンドを昔から持っていると思いこんだことがまちがっていたのだ。あれは黄金崎が忍びこみ、すり替えた。スタンドの細かいデザインを覚えていなかったから、それに気づかなかっただけだ。
そうだ。きっとそうだ。
「アリス。だったら説明してよ。どうしてお嬢様の指令書はいきなり机の上に現れるの? 猪股、羽田殺しのとき、『お嬢様』はどうやってあたしのアリバイを作ったの? 『お嬢様』に地下室で数ヶ月も特訓を受けてたとき、どうして誰もそのことに気づいてないの? 幻でないのなら、ぜんぶ説明が付けられるはずよ」
そうだ。そんなものに説明がつくはずがない。あたしはこの狂気の世界から、正気の世界に戻る。今ならできそうな気がする。
そして、普通の暮らしを取りもどすのだ。
『そこまでいうなら、説明してあげる』
嘘。そんなことできるはずがない。
アリスは、この狂った幻覚は、あたしをこっちの世界に閉じこめておきたいのだ。正気の世界に戻るのを全力で阻止しようとしている。
だまされてたまるか。
『マリア。机のほうを見ていなさい』
ま、まさか、「お嬢様」からの指令書が来るとでもいうのか? ありえない。あれは幻なのだ。
『机そのものじゃなくて、すこし上のほうをね』
言われてそっちを見る。数秒後、机に面した壁と天井の境界あたりから、なにかが飛びだした。それは机の上に舞い降りる。
封筒だった。
「そ、そんな馬鹿な?」
あたしは机のところまで走ると、机に乗り、今手紙が飛びだしたあたりを調べる。
ちょうど、壁と天井の隅にある回りぶちがかたかた動く。それを引っぺがすとスリットが空いていた。長さ三十センチ、幅五ミリほどのスリットが。
「な、なによ、これは?」
この向こうは洗面所だ。なぜ壁にこんな穴が開いている?
部屋を飛び出すと、廊下を走り、となりの洗面所に飛びこむ。
壁を調べた。とくに変わったことはなにもない。
いや、ここはあたしの部屋より天井が低い。
ということは、あのスリットが空いているとすれば、天井の中だ。
そしてまさに天井には壁ぎわに点検口があるではないか。今まで気にもとめたことがなかったが。
あたしはいったん部屋に戻って椅子を取ってくると、それを台にして天井点検口を開け、その中に顔をつっこむ。
なにかがあった。幅の広い弁当箱程度の大きさのなにか。それがあたしの部屋側の壁に張り付いている。
「なんなのよ、これは!」
あたしはそれをつかむと、渾身の力で引きはがした。
壁から光の筋が見える。さっきあたしが自分の部屋で見つけたスリットから光が差し込んでいるのだ。
念のため、そこをのぞき込むと、案の定、あたしの部屋が見えた。
……こ、この機械は?
手にした金属製の箱を調べる。こっちは簡単にふたが開いた。
中身は空だったが、これがなんなのか想像はついた。
「こいつに封筒を入れておくと、あのスリットから飛び出して机に落ちる仕掛けなんだ」
だけどこれをどうやって操作するんだろう?
そう思ったとき、電気のコードがつながっていることに気づいた。しかもそれは壁の中に引き込まれている。
「これは電気の供給と同時に、リモコンスイッチなんだ」
だけど、だけど、……そんなことが?
こんなことはありえない。いったい誰がいつこんなものを仕込み、どうやって管理するというのだ。この家が完全に無人になるのは、せいぜい一日に一時間程度。その間に忍びこんで、こんな機械を設置したとでもいうのだろうか? ありえない。しかもこの機械をコントロールするとなると……。
ぜったいに無理だ。
あたしはふたたび自分の部屋に戻った。床に落ちている封筒を拾う。中身を取りだした。
『階段下の床を調べてごらんなさい
お嬢様』
いつもの手書きの文字が書かれてある。
「どういうこと? いったいどういうこと?」
『そんなに気になるなら行ってみたらいいじゃない』
ささやいたのはアリスだ。アリスがいることをすっかり忘れていた。こんなことははじめてだった。
アリスは床に降り立った。二本の足で立つ。これもはじめてのことだ。
『来なさいよ、マリア』
アリスは歩く。血の足跡を残しながら。
そのままゆっくりと階段を下りていく。あたしは息をのんだ。
いったいこれからなにがはじまろうというんだ?
『怖いの、マリア?』
アリスは中段まで降りると、ふり返り、笑った。
それがほほ笑みなのか、侮蔑の笑みなのか、もうよくわからなかった。
なにかとんでもないことが起こる。それは直感できた。だが、逃げるわけにはいかない。あたしはアリスのあとを追う。
アリスは階段を下りると、そのまま階段の下に回った。
そういえば、この家に何年も住んでいるが、そんなところに行くことはめったにない。あるいははじめてかも。
『さあ、マリア。床を調べてごらんなさい』
床。フローリングの床。あたしはひざまずいて手に触れてみる。
かたかたと動いた。遊びがあるのだ。
まさか、……まさか。
「蓋。なにかの蓋なの、これは?」
『うふふ。そうかもね』
なんとか開けようとしたがうまくいかない。すき間にこじいれて開けるにしろ、バールのようなものがいりそうだ。
叩いてみたが、びくともしない。ぶち割るというわけにはいかないらしい。
『マリア、階段の下を見てごらんなさい。下の床じゃなくて、階段の下の部分。なにかがあるでしょう?』
階段の下? 下のほうを見ろということではなく、階段の下部ということらしい。
「なにこれ?」
階段の斜めになっている底の、床から一メートルほど離れた位置にボタンが付いていた。壁ぎりぎりのところに。目立たないようにまわりと同じ色をしている。
もちろん、そんなもの、今の今まで存在自体を知らなかった。
……まさか、まさかこれが、スイッチ?
恐る恐る押してみる。案の定、床の蓋がせり上がった。ゆっくりと。
それは蓋というよりドアだった。壁側を支点にして押し開く。
そしてそれは箱ではなく、入り口だった。下に階段が伸びている。
「地下室? いったいどうしてこんなものがあたしの家に?」
まったく理解できなかった。
馬鹿な。そんな馬鹿な。……ありえない、こんなこと。
やっぱりこれは幻覚なんだろうか?
『入ってみたら、マリア。すべての答えがここにあるかもよ』
アリスにいわれるまでもなく、あたしはそこに吸い込まれるように入っていく。石の階段を噛みしめるように下りた。
まさか、まさか、……ここは?
下に行くにつれ、鼓動は高まる。息苦しくなる。
階段を下りきると、ぱたんと入り口のドアが勝手に閉まった。訪れる暗闇。
だが次の瞬間、明るくなった。電灯がついたのだ。
目の前にはふたたびドア。
恐る恐るドアノブを回す。鍵はかかっていない。
ドアを押し開けたとき、目に入った光景にあたしは恐れおののいた。
飾り気のないコンクリート打ちっ放しの壁、天井。これはまさに……。
あたしが殺し屋に生まれ変わった部屋だ。
あれはやはり夢でも幻覚でもなかった。ほんとうのことだった。
……いや、今がまさに幻覚を見ているのだろうか?
あたしは壁に触れ、手触りや冷たさを確認する。とても幻とは思えない。
実在する。これは実在するんだ。
だけど、いったいこれは……。
「まだ、わからないわけ、マリア?」
語りかけたのはアリスではなかった。どうやら奥のほうに先客がいたらしい。
あたしはそいつを見て愕然とする。
ま、まさか、……そんな馬鹿な?
「ようやくわかった? というか、思い出したかな? マリア」
そういってあたしを挑発する。
「ま、まさか……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます