挿話 サリーの記憶

4

「アンダーソン先生、それはつまりサリーはカウンセラーに偽の記憶を埋め込まれたってことなんですか?」

 講義でサリーの物語を語り終えると、学生のひとりベンが質問した。

「そうね。カウンセラーは必ずしも自分が求めていた虚偽記憶をサリーに移植したわけじゃない。彼女が求めていたのは、あくまでも父親によるレイプ。その事実がサリーの心を守るために記憶を抑圧した。それが摂食障害につながった。そういうストーリーにしたかったんでしょう。それがサリーの暴走により、とんでもない結論になった」

 アンダーソンが答えた。彼女は虚偽記憶の問題については、かなりつっこんだ研究をしていて、それなりに名前が知られている。そのため、非常勤講師としてときどきこうして大学の教壇に立っている。

「そのカウンセラーは、なんのためにそんなことをしたんです?」

「彼女に悪気はないのよ、たぶん」

 アンダーソンは苦々しげに言う。

「というと?」

 若い学生には理解できないようだ。無理もない。そんなものわかれという方が無理だ。

「若い女性が家族にレイプされている。しかも、その事実を思い出せないでいる。もしそれが本当なら、大変なことよ。彼女たちにはそれが許せないのよ。だから、抑圧された記憶を取り戻し、幼い娘をレイプする極悪人を告発する。それを使命と思い込んでいる」

「彼女たち?」

「ひとりじゃない。そういうカウンセラーがたくさんいたのよ。1990年前後のことだけど」

「そのために、家庭が崩壊しても?」

「娘をレイプする親などいないほうが、その子のためでもあるという考え方なんでしょうね」

「過激な考え方だな。つまり、そのカウンセラー集団はアメリカ中に子供をレイプする鬼畜どもであふれているから、浄化する必要がある。女性が安心して暮らせる世界にしなければならない。そう考えたってことだろう? 戦うフェミニストの仮想敵に選ばれたのが、娘をレイプする父親ってことだ」

 べつの学生、ジョンが参戦した。

「女性として、どう考えてるんですか、アンダーソン先生?」

「アメリカはそこまで腐っていない。わたしはそう思うわ。どうしようもなく狂って腐った世界は、彼らの妄想でしかない。そう思う」

「なるほど。俺もそう思うな」

 ジョンが頷く。

「でも、ほんとうにそんなことが可能なの?」

 ケイトが質問した。

「いくらうまく暗示をかけたとして、ほんとうにそんな妄想を記憶と取り違えるなんてありえるの?」

「それがありえるのよ。いったん、記憶が上書きされてしまえば、たとえ虚偽記憶といえど、本物の記憶と区別することができなくなるの」

 アンダーソンは答えた。

「先生。スーザンは本当に生きていたんですか? 母親の方が間違っていた可能性は?」

 ベンはべつの可能性を提示した。

「もちろん、警察は事実を調べたわ。スーザンはたしかに生きていた。つまり、サリーが死なせたことも、死体を埋めたこともあり得ないの。それは間違いない。つまり、サリーの記憶は明らかに事実と違う記憶だったのよ」

「でも信じられない。人間の記憶って、そんなにいい加減なの?」

 ケイトも納得していないようだ。

「虚偽記憶研究の第一人者、エリザベス・ロフタス博士はかつてこんな実験をしてみたわ。なにも知らない第三者の子供に、小さい頃、ショッピングセンターで迷子になったという偽の記憶を移植できるかどうか。その子は、ごく単純な暗示で、ほんとうにそんなことがあったと思い込んだ。そんなことはなかったのに」

「でもそれは、ごく些細なことだけど、サリーのようにそんな重大な出来事を間違うなんて」

 ケイトは粘る。

「サリーはずっと悩んでいた。自分を苦しめる原因があるに違いないと思い、それを探し続けていた。重大な出来事だからこそ、そんなことがあったのかもと信じたっていう面もあるわ。些細なことなら、今自分をここまで苦しめはしない。そう思っていたんだろうし。だからあんな荒唐無稽な妄想が浮かんだとき、それが真実かもしれないと疑った。あとはいかに暗示が強烈だったかよ。カウンセラーの執拗な暗示。グループカウンセリングによる集団暗示。さらにジャッキーのフラッシュバックが引き金になった。サリーの理性は耐えられなくなったのね」

「なるほどね。よく催眠術で、失われた過去の記憶を探るとか、やりそうだけど、それはなかったんですか?」

 ジョンが聞く。

「サリーのときはなかったようね。だけど、それをやったカウンセラーもいたようよ」

「それは当てにならない?」

「そうね。催眠暗示によって、子供の頃に戻ったつもりにさせる。そこから導き出される記憶が、果たして本当の記憶なのか、ただの空想にすぎないのか、両者が絶妙にミックスされ新たに作り出されたものなのか、正確にわかる人は誰もいない。催眠暗示をかけた方もかけられた方も」

「つまり、催眠で導き出された答えが正しいとは限らない?」

「その通りよ。私の考えでは、催眠はむしろイメージ記述やグループカウンセリング以上に、偽の記憶を作り出しやすいきわめて危険な方法よ。とくに術士の誘導の仕方によっては、導き出された答えに信頼性はほとんどなくなってしまう」

「でも、先生は催眠術が使えるって聞いたけど」

 ケイトが口を挟んだ。

「ええ、それは事実よ。それなりの腕前だと思ってね」

 アンダーソンが笑った。

「こええ」

 ジョンがおちゃらける。

「だいじょうぶ。私は悪用しないわ」

「先生。1990年前後、そういうことが何件もあったんですか? それがぜんぶカウンセラーの誘導による虚偽記憶だと?」

 ベンが聞いた。

「まあ、中にはほんとうに虐待を受け、その記憶を失っていた子もいたかもしれない。でもわたしの考えでは、ほとんどは暗示による妄想を記憶と勘違いしたケースだと思う」

「だったら、親側も黙っていられなかったんじゃ?」

「その通りよ。子供が訴え、親も子供とカウンセラーを訴え返す。とうぜん、大問題になったわ」

「それで、どう収束したんです?」

「明確に白黒付いたわけじゃないけど、思い出した子供の記憶が、間違っていたことが証明された件が出てきて、カウンセラー側が劣勢になった。それにともなって、子供とカウンセラーが両親を訴訟する件はいつのまにかほとんどなくなった」

「それはよかった」

 ジョンが実感のこもった声で言った。

「もしそんなことがずっと続いていたら、怖くて結婚なんてできやしない」

 ジョンは笑う。ベンやケイトも釣られた。

 だがアンダーソンは笑えなかった。自分の娘が将来こんなことを言い出さないとはどうして言い切れよう。

「ママ、あたしすべてを思い出したの。あたしは小さい頃、パパとママから性的虐待を受けていたわよね。許せない。どうしてそんなことをしたの?」

 いくら言い聞かせても、彼女は信じない。そんな悪夢が訪れないという保証は?

 そんなものはない。

「先生、最後にもう一つ」

「なに、ケイト?」

「カウンセラーは、必ずしも悪意があったわけではないし、誘導はしたけど、相手がどんな記憶を作り出すかは、けっきょく相手次第ってことでしょ? もし、こういう偽の記憶を植え付けようという明確な意図があって、ありとあらゆる手段を使って仕掛けた場合、……たとえば、グループカウンセリングだってやらせのサクラを使って、それこそ催眠から拷問、幻覚剤まで使えるものはなんでも使った場合、どんなことができるの? というか、どこまでできるの?」

 それこそがアンダーソンが研究してきた課題だ。

「それは誰にもわからない。だって、人体実験できることじゃないからデータがないの。ただ私の考えでは、監禁して外界から遮断するなら、……時間さえかければ、かなり思った通りに記憶の改ざんはできると思うわ。ただしやりすぎれば……」

「……どうなるんです?」

 ケイトの瞳は好奇心であふれていた。

「間違いなく、頭がおかしくなるでしょうね」

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