M2
きょう、学校の帰りに黄金崎の家を下見してきた。
一階建ての小さな家で、庭らしい庭もない。もう日が暮れ、うす暗かったが電気がついていないところを見るとひとり暮らしなのだろう。そういえば、アリスがいっていた。家族を殺されたと。
窓には格子などは嵌っておらず、隣家が寝静まった夜なら、それほど侵入はむずかしくなさそうだ。
両隣は普通の民家で、こっちはごく一般的な家庭のようだった。気のよさそうな奥さんが玄関前を掃いていたので、なにげなく声をかけてみる。
「あの、すみません。こちらの方はいつも何時くらいに帰ってくるかわかりますか?」
「あら、あなた誰? ジャーナリスト?」
三十代後半と思われるその奥さんは好奇心をむき出しにした。
「い、いえ。そうじゃありませんけど……」
なんと答えようかとあたしが考えていると、奥さんは、まあそんなことはどうでもいいとばかりに話しはじめた。
「べつに隠さなくてもいいわよ。今でもたまに来るのよ、あんたみたいな人。だって、あれだもんねぇ、この家。頭の狂った殺人犯に家族を殺されたんだしね」
やっぱりそうなのだ。
「まあ、あの旦那さんも事件以来変わったよね。もっと陽気な人だったのに、なんていうか、野獣みたいになっちゃってさ」
「あの事件って、この家で起こったんですか? そこに住み続けてる?」
「そうなのよねえ。あたしだったらためらわずに引っ越すけどね」
奥さんが顔をしかめる。
そうだ。それが一般的な考えだ。現にあたしはあの家に住み続けることなんてできなかった。
どうしてあの男はそんなことができるんだろう?
あたしはこの時点で、黄金崎の正気を疑っていた。
「その……、犯人は今どうしてるんですか?」
「精神病院に入院したはずよ。出てきたって話は聞かないけど」
そいつは司法で裁かれなかった。あくまでも患者として収容されたってことか。
となれば、いつでてくるかはわからない。懲役刑ではないのだから。
「それで殺された娘さんなんですが……」
「ああ、あれは悲惨だったわねえ。……まだ小さい子だったのに、刺し殺されるかなんかしたのよ。まあ、くわしくは知らないけど、部屋は血で真っ赤になったそうよ」
胸が悪くなりそうな話だ。
黄金崎が異常な殺人者を憎む気持ちはよくわかる。つまり、あたしもあの男にしてみれば、そいつと大差ない精神異常の殺人鬼なのだろう。
「あの、それで黄金崎さんはいつも何時くらいに帰宅されるかわかります?」
無視された最初の質問に戻った。
「さあねえ。なにせ刑事だから。バラバラだし、だいたい夜遅いんじゃないかしら。帰ってこない日も多そうだし。ここ数年、ほとんど顔をあわせることもないから、よくわからないわ」
「そうですか、ありがとうございました」
あまり詮索して、怪しまれても困るので、あたしはそこをあとにした。
*
夕食後、自室に入るとパソコンで黄金崎の事件を調べてみる。ネットに流れている情報はたいしたものがなかった。事件の日にちがわかったくらいだ。マスコミの発表以上に詳しい人間はいないのだからしょうがないだろう。一応、女の子の死因は刺殺ということになってはいるが、ほんとうは首を切られたんだろうという人も一部いる。奥さんはやはり刺殺されたという意見が大半だが、中には病院で今も意識不明のまま生き続けているというサイトもあった。どれが真実で、どれが根拠のない推測なのか計り知れない。
「まあ、いい。そんなことあたしの知ったことじゃない」
パソコンをシャットダウンし、ベッドの上に寝ころんだ。
黄金崎の悲劇は、個人的には興味もあったが、しょせんは無関係。それよりどうやってやるかだ。
両隣、というか、あのへん一帯は一般家庭の住宅街で、昼間は主婦が道を歩いたり、あるいは家の窓から外を見ていたりする。侵入はむずかしい。だが、夜襲うにしろ、何時ころいるのか、そもそも帰宅するのかどうかもわからないのではやりようがない。外でやるにしろ、行動パターンが読めないと、仕掛けづらい。かといって、刑事を尾行するのは危険だ。相手はそういうことになれている。
呼び出すか? そうも考えたが、むこうだって馬鹿じゃない。殺人鬼だと思う人間の呼び出しにのこのこ無防備でやってくるはずがない。
今までで一番、難易度が高い殺しだ。
そもそも黄金崎は、狙われるかもしれないという危険を感じているのだろうか?
なにも考えていないというのは楽観的すぎる。なにしろ、あいつにとってあたしは頭のおかしい殺人鬼で、しかも思いっきり挑発している。狙われることなどありえないと考えるほど、脳天気なわけがない。むしろ、待っているのかもしれない。
だとすると、なおさら危険だ。下手なことはできない。
そもそも乗り気ではないのだ。あの刑事を殺すことに、いかなる意味でも正義が感じられない。ただ保身のために人間を殺すことがはたして許されるのか?
もし、このまま「お嬢様」の命令を無視したら、あたしはどうなるのだろう?
今まで考えもしなかったことが頭に浮かぶ。
びしっ、びしぃっ。
例の空間が割れる音がした。闇とともに、血まみれのアリスが浮かぶ。
『さっさとあの刑事を殺しなさいよ、マリア。なにぐずぐずしているの?』
アリスはいきなりハッパを掛けてきた。
「隙がないのよ。べつに期限を切られてるわけでもないし、確実にやれるときを待ってるの」
『そんなの待ってたらいつまでたってもできないって。強引にやっちゃいなよ』
「簡単にいうけど、相手は刑事よ。しかもこっちが殺人鬼だと信じて待ちかまえてる。どうやってやるの?」
『考えすぎだよ、マリア。あいつは抑圧された怒りで頭がおかしくなってるんだよ。まともそうでいて、ちっともまともじゃない。マリアを追いつめていい気になってるけど、自分が逆襲されることなんてちっとも考えてないに決まってる』
「逆襲されることを考えていない?」
『そうだよ。人間なんて、自分が狩る側だと思いこんでると、相手が襲ってくることなんか考えもしないの。とくになにかに取り憑かれて、狭い視野しか持ってないならなおさらだよ。賭けてもいい。あいつはマリアから攻撃してくることなんて、考えてもいない』
なんとなく一理ありそうな気もした。
『同じだよ、あいつらと。あたしを殺したやつらと。あいつらは自分たちがぜったいに強いと思ってた。だから、逆襲されることなんてこれっぽっちも考えてなかったのよ。もちろん、あとで復讐されることだって頭になかった。そんなことはありえないことなのよ、自分が強者、狩る側だと信じている内はね』
「じゃあなに? たとえば、今夜、あいつの家に忍びこめば、あっさり殺せるっていうの?」
『もちろんよ。だって、あいつはマリアが今夜、襲うなんていう可能性を考えているわけがないもの』
そうなのか? ほんとにそうなんだろうか?
あたしはよくわからなくなった。
『急がないと、あいつはどんどんマリアにちょっかい出してくるよ。そうしたら、こう思うかもしれない。ここまで追いつめたら反撃してくるかもなって。でも今はそんなこと思ってないって。あいつにしたら、まだ軽いジャブで牽制しただけ。この程度で犯罪者が反撃してくるはずがない。犯罪者は刑事から逃げるものだ。反撃するのは追いつめられて死にものぐるいになったときだけ。そう信じてる。だから、今はまだチャンスなんだよ。もっとプレッシャーがきつくなってきたら、あいつもだんだん用心するようになるって』
いわれてみればそういう気がしてきた。放っておけば危険が増すばかり。
今が最後のチャンスなのかもしれない。
「だけど、あいつの行動パターンが読めない。いつ帰るのかも、そもそもきょう家に帰るかどうかもわからない」
『待ってればいいじゃない。マリアなら、夜中まで待たなくても、忍び込めるでしょう? あとはひたすら待てばいいじゃない。もし帰ってこなければ、日をあらためるだけ。なんの問題があるの?』
いわれてみればそうだった。あたしはやらないいいわけを探していただけなんだろうか?
「わかった。今夜、やる」
『そうよ。それでいいのよ、マリア』
アリスは闇とともにかき消えていった。
ため息をついた。
気がのらないが、やるしかない。これは「お嬢様」の命令以前に、自分が生き残る戦いなのだ。
時計を見る。十時過ぎ。微妙な時間だが、まだ帰ってきていないかもしれない。
あたしは母やナオミに気づかれないよう、しずかにベランダから庭に舞いおりた。
バイク、それに殺しに必要な道具や服装は近くのアパートにある。あたしはまず、そこに向かった。
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