K1

 俺は風呂から上がったあと、居間でソファに座り、テレビを見ていた。

 あの狂った殺人鬼が、愛の首を転がし、留美子を意識不明の重体にした家にいまだに住んでいる。

 もちろん、そんな家はたたき売って、警察の寮に入れ、というやつもいる。

 別段、規則とか経済的なこととか、そういうことではなく、俺の精神状態を心配しているらしい。

 早い話がよくそんな家に住み続けられるな、ということだ。

 だが、俺はそういう助言やら、半分命令のようなものやらをがんとして拒み続けた。

 そんなことをすれば薄れるだろうが。

 あの憎しみを忘れずにいることだけが、今の俺を支えている。

 あの事件を悪夢として記憶の奥底に封じ込めてしまったら、どうなってしまうというのだ。そうだ。忘れるんじゃなくて、封じ込める。そうなってしまう。

 もし完全に忘れることができるっていうんなら、それもいいだろう。だが、そんなことは不可能だ。

 だから、封じ込める。そうするしかない。

 だが俺は直感的にわかった。そんなことをすれば、あの事件は俺の心の奥底で発酵し、ぶすぶすと異臭を放ちながら膨張する。逃げ場を失った腐敗ガスは、なにかの拍子によみがえった怒りの炎に引火し、爆発する。

 そうならないように、俺はちょっとずつ出しているのだ。腐った憎悪を。

 そのためにはこの家に住み続けることが必要だ。

 内心、もう顔など見たくもない留美子の病室に定期的に行くのもそうだ。あれは見舞いなどではない。行かないことによって、恐怖がかえって増幅してしまうからだ。

 そう、俺が恐れるものは、怒りと恐怖と復讐心で精神が完全に崩壊し、なにをしでかすかわからなくなることだ。そうなったとき、俺はたぶん何人も殺すだろうし、結果として俺自身の命も失うだろう。

 だから、マリアが俺の命を狙うことに今さら怯えはしない。

 とはいえ、殺されることを望んでいるわけでもない。俺はきっと殺し合いをしたいんだろう。むしろそうなることで、俺の精神は安定するような気さえする。

 俺たちは似たもの同士だ。内心、自分の狂気に怯え、止めたがっている。

 だが、自分ではそれができないから、誰かに止めてほしい。

 マリアにとってそれは俺であり、俺にとってそれはマリアなのだ。

 止められたいと同時に、相手を止めたい。

 けっきょくそれは殺し合いにつながってしまう。相手に止められたいという気持ちに矛盾するが、黙って殺されるわけにはいかないのだ。

 スポーツの試合で、わざと力を抜き、勝ちをゆずる相手を尊敬できるか? できるわけがない。俺とマリアの関係は、清く正しいスポーツ選手のライバル関係に似ている。

 やる以上、互いに全力で戦わなくてはいけない。

 だから、俺はマリアの襲撃に備えていた。

 残念ながら、いくら刑事とはいえ拳銃を自宅に持ち帰ることはできない。だから武器は自分で調達しなければならなかった。

 拳銃の売人をつついて、違法拳銃を手に入れる方法もあったが、そいつが他の刑事にしゃべったら終わりだ。やばすぎる。だからかんたんに手に入るものを用意した。

 まずナイフ。これは刃渡りの長いやつと、携帯性にすぐれたバタフライナイフ。バタフライナイフはポケットに、大振りのやつはケースに入れて足首にテープで巻いてある。それと部屋のあちこちに木刀を隠していた。もちろん、一見わからないところ。たとえばベッドやソファの下とか、クローゼットの中とかだ。無防備になるトイレや風呂場にも忘れない。剣道有段者の俺にしてみれば、ある意味、ナイフなどよりこっちのほうがよっぽど頼りになる。もちろん、打つ場所によっては殺すことも可能だ。ただし相手に気取られてはいけない。

 もちろん、戸締まりには注意している。玄関に施錠するのはとうぜんだが、ピッキングされないとも限らないので、内側から掛ける錠を新たに取りつけている。それ以上に気を配っているのが窓だ。高層マンションとはちがい、窓からだとかんたんに忍びこまれる。こっちに知られずに入るには、窓から入るに限るだろう。

 だからクレセント錠を掛けたあと、細い針金でがんじがらめにしている。つまり俺だって窓を開けようと思えば、ペンチで針金を切る必要があるってことだ。

 もちろん窓ガラスを全面的に割ればべつだが、ガラスカッターで小さな穴を開け、手を入れたくらいじゃかんたんには解除できない。

 さらに、俺はきょうから一度外出して戻る際には、玄関から中に入る前に、家のまわりをぐるっと見て、窓ガラスが割れていないことを確認することにした。今までのマリアの手口から、部屋に忍びこんでおいて、不意打ちをかますのがひとつのパターンだと知っているからだ。

 時計を見ると、十時。もしこれから襲うとすれば、数時間後、こっちが寝入ってからだろう。

 きょうはもう来ないかもしれないが、油断は禁物だ。

 テレビで討論番組がはじまった。ゲストには人権派弁護士の赤井健一郎。ぱりっとしたスーツで身を固め、七三に分けた髪には白髪も交じってはいない。高校生の息子がいるが、そういう年には見えない。

 こいつのにやけた、いかにも善人でございという顔を見て、俺ははらわたが煮えくりかえった。

 こいつこそが、愛を殺したやつを、無罪にした弁護士。俺が二番目に殺したいやつだ。

 赤井健一郎は司会者に向かって、ご高説をのたまう。

『最近、我々人権派を非難する人たちもいますが、そういう人たちは自分たちの言動が自分たちに返ってくることにまったく無自覚です。彼らはいう。人権派弁護士は加害者の人権ばかりをうたい、被害者はないがしろにされていると』

 その通りじゃねえか。いったいなにがまちがってるっていうんだ?

『しかし考えていただきたい。我々が加害者の人権をことさら重要視するのは、被害者がすでに死んでいる場合。つまり、殺人の場合です。これがたとえば、レイプとかになると、話は違ってきます。被害者の人権に配慮するのはとうぜんといえましょう。こういう場合、我々、いや、すくなくとも私は加害者の人権を過剰に訴えたりはしない。まず、被害者の人権を憂慮する。とうぜんです。もちろん、冤罪の場合は別ですが』

 嘘をつけ。レイプ犯を弁護する場合、被害者の女性に、ほんとにレイプだったのか? ほんとはあんたが誘ったんじゃないのか? あんた、じつは性に奔放なんじゃないか? などといいがかりをつけるのが常だ。いわゆるセカンドレイプってやつだ。依頼人を無罪にするためならなんでもする。それが弁護士だ。

 俺は胸がむかついてきた。

『しかし、殺人の場合はまたちがってきます。なぜなら被害者はすでに死んでいる。死人に人権はない』

 俺は一瞬、耳を疑った。テレビの放送でこんな馬鹿げたことをいうやつがほんとにいるのか?

『死人に今後の人生はない。ならば加害者がやり直せる社会を作るべきなのです。一度の過ちで、死刑にしたり、あるいは二度と社会に復帰できないようなシステムを作るべきではない。とうぜんです。あいつは人殺しだから殺してしまえ。それではただのリンチなのです。一度の過ちで、リンチに合い、殺されてしまう。あなたはそんな社会に住みたいですか? 人生の歯車が狂い、いつあなた自身が、被害者でも傍観者でもなく、加害者になるかわからないのですよ』

 いったいなにをいってるんだ、こいつは?

 リンチを廃止するために、国家が個人にかわって罪人を罰するのだろうが。

 それに一度の過ちで殺されるのがおかしいだと? すくなくとも日本じゃ、ちょっとやそっとの過ちじゃ、死刑判決など出ない。たとえ計画的な犯罪で、いかに残虐でも、殺したのがひとりならまず死刑にならないのがこの国だからな。

『しかし、日本はだんだん厳罰主義に向かっているような気がします。たとえば少年法です。ごく一部の凶悪な少年犯罪によって、少年でも重大犯罪に限っては、大人と同じ判決を受けることもありうるようになってしまいました。それはほんとうに正しいのですか? たとえば、中学生を、凶悪犯罪を犯したからといって死刑にすることがこの国のためになるのですか?』

 馬鹿め。そういうやつをかばおうとするからこそ、マリアのようなやつが生まれる。

『もし、死刑にしておいて、あとで冤罪だったとわかった場合、どうするのでしょうか?』

 それはべつの問題だ。それは裁判の公正なシステムの問題で、死刑制度とはべつの話だ。すりかえるな。そもそも死刑なら冤罪は許せないが、懲役刑ならいいのか? まちがっても。十数年、刑務所に入れられ、まちがいでしたといわれて、許せるのか? 失った人生を取り戻せるのか?

 もちろん、自分が冤罪で逮捕され、死刑になる可能性はゼロではない。人生なにが起こるかわからないのだから。だが、そういうときはそれこそ雷に打たれて死んだようなものだとあきらめるしかない。すくなくとも交通事故で死ぬよりは、はるかに確率は少ないだろう。

『さらに、殺人者が精神障害者だった場合ですが……』

 俺はこの言葉に反応した。

 知らず知らずに拳を握っていた。いったいなにをいうつもりだ、この野郎!

『明らかに刑事責任を問えない患者にまで厳罰をという人たちがいます。まあ、言葉は悪いですが、頭のおかしい人殺しは殺せってことです。私はこれだけは許せません。少年法の厳罰化、死刑存続に関しては、そう主張する人なりの正義もあるのでしょうし、意見に耳をかたむけるべき点もあるとは思うのですが、これはいけません。まさに弱いものいじめのリンチです』

 めきききっ。

 左手に激痛が走った。浮かび上がる真っ赤な痣。留美子が握りつぶした手形。

『数年前のことですが、家族が殺された方がいました。犯人は明らかに精神が崩壊していました。それも一時的な錯乱ではなく、精神科に長期入院が必要なほどの状態で、刑事責任を問える状態ではありませんでした。なのに、その人は、まあ、刑事さんだったんですが、弁護士の私を責めたんです。責めるばかりか殴られました。まあ、訴えはしませんでしたがね』

 目の前をころんころんと転がるものが見えた。もちろん愛の首だ。

 息ができない。

 全身に汗が浮かぶ。ぬるっと粘液が全身を包むような堪らない不快感。

 殴られただ? 嘘つくな! 俺は殴ってなんかいねえ。……いや、殴ったのか? 覚えていないだけで。

『家族が殺されたというと?』

 司会者が聞く。

『奥さんと娘さんが殺されたんですよ。刺されてね』

 でたらめをいうな。女房は生きている。俺を恨みながらな。

 娘は刺されたんじゃねえ。首を切られたんだ。しかもその首を俺の目の前で転がしたんだ!

 テレビのモニターが砕け散った。

 無意識にリモコンを投げつけたらしい。

 ようやく呼吸ができた。もっともいつの間にか床に転がっていた。ぜえぜえと荒く息を吐き、数分そのままでいる。

 ようやく落ちついた。手首の痛みと痣も消えている。

 だが、赤井に対する怒りは消えない。ぶすぶすと心の奥底で憎悪になって燃えさかる。

 そうかよ。刑事責任を取れないほど頭がおかしいやつは人を殺してもいいのかよ?

 だけど知ってるか? おまえを殺したいやつがここにいるぞ。しかも、そいつは頭がおかしいんだ。

 いつの間にか、笑っていた。それも我ながら不気味な声を出して。

 マリアのことは忘れていた。

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