K2

 ナオミから連絡があってからしばらくすると、玄関から車いすを押した彼女が出てくるのが見えた。もちろん車いすにはマリアの母親が座っている。

 母親はにこやかな表情で、この前のような狂気はいっさい感じられない。症状は回復に向かっているのだろう。もっとも俺と直接顔をあわせれば、どうなるかは知らないが。

 ナオミはすこしちらちらとまわりを見たが、やがて雇い主に笑顔で話しかけつつ、門から外に出た。

 俺は彼らが視界から消え去ると、車から降り、行動を開始する。

 まずは鑑識が使うような手袋を嵌めた。もちろん、不用意に指紋を残さないため。

 まわりをきょろきょろしたり、こそこそしたりはせず、堂々と黒井家に向かう。さっき彼女たちが通っていった道に出ると、もう離れた位置にいて、こっちには気を掛けていないのを確認する。そのまま、門をくぐった。

 まるで自分の家に帰るようにあたりまえに玄関まで行くと、ドアを開け、中に入る。

 もし誰かに見とがめられても、警察の身分証を見せればそれですむ。さいわい俺を気にかけた人間はいないようだ。

 まず玄関ドアの内鍵を掛けると、靴を脱ぎ、持ってきたビニール袋に入れた。これは万が一、緊急脱出しなければならない嵌めにおちいったとき、玄関以外のところからも逃げられるようにするためだ。

 マリアの部屋の位置はこの前聞いている。俺は奥の階段までいくと、上に向かった。

 二階まで上がると、部屋はふたつあった。ひとつには洗面化粧台があった。どうやら脱衣所を兼ねているらしく、トイレ付きのユニットバスに通じている。となるとマリアの部屋は必然的にもうひとつのほうということなる。

 俺はドアを開け、中に入った。

 とくに雑然としているわけでも、趣味にあふれているわけでもない。ベッドに机、それに本棚がふたつあり、専門書や小説が並んでいる。小説は軽めの娯楽小説、あとは年ごろの女性らしく人並みにファッション雑誌などもあった。机の上にはノートパソコン。立ち上げてみたが、パスワードが掛けられてあった。残念ながらそれを突破するスキルも時間もないし、パソコンを持ち去ることもできない。あきらめてシャットダウンした。

 家探しする前に、俺は用意してきた盗聴器をセットした。これはぱっと見、ぜったい盗聴器には見えないし、コンセントに差していても不自然ではないタイプのやつだ。つまり充電の必用がないってことだ。これで数十メートル以内にいれば、この部屋の会話は拾い放題になる。

 それからまず引き出しを開ける。日記や殺人計画を書いた書類でも出てくれば最高だが、さすがにそんなに間抜けではないらしい。それらしきものはなかった。

 もちろん、黒い逆さ十字なども出てこない。鍵付きの引き出しもあったが、そもそも鍵が掛かっていなかった。案の定、そこにもめぼしいものはなにもない。

 ちっ、やはり重要なものはこんなところに隠さないか。

 机を物色するのを諦めて、クローゼットを開けた。洋服が数枚ハンガーに掛かっている。ジーンズもある。だが、駅の監視カメラがとらえたような革ジャンはなかった。棚の上にも、床にもなにもない。念のため、掛かっている服のポケットを漁ってみたが、なにも入っていなかった。

 次は本棚だ。ほんとはぜんぶ本をぶちまけたいところだが、侵入したことを悟られたくないので、ひとつずつ調べるしかない。

 取りだしては、ざざっとめくる。そして戻す。それをえんえんとくり返した。

 だが、本の中にも、本に隠れた棚の中にも、なにもなかった。

 そろそろ一時間になる。気ばかり焦ってきた。

 くそ。くそ。くそ。なにかないのか?

 ベッドの下も見た。ゴミ箱も漁った。だが出ない。なにも出ない。

 下で玄関ドアの開く音がした。

 もう、戻ってきたのか?

 だが足音はすばやい。しかもこっちに向かってくる。

 おかしい。ナオミだったら、車いすを押しているはず。そんな感じはしない。

 とんとんと足音が階段を上ってくる。

 マリアか?

 俺はようやくその可能性を思い立った。さすがにここではち合わせはまずい。

 外に面したサッシ戸を開けると、ベランダに逃れる。そして袖壁の陰に身を隠すと、ガラス越しに中をのぞき込んだ。

 数秒後、ドアが開き、入ってきたのはやはりマリアだった。

 まだ勤務時間なのにどうして戻ってきた?

 ひょっとしたら鋭い勘で、こっちの行動を予測したのかもしれない。あるいはきのう、独り言を立ち聞きされたことに気づき、看護師が警察になにかいったのではないかと心配した末のことだろうか。

 用心のため、靴を玄関に残したままにしておかなかったのは正解だった。

 マリアは部屋中をきょろきょろと見まわし、引き出しを開けて中を確認したりしはじめた。明らかに誰かが入って荒らしていないかを調べている。

 もっとも、俺は荒らしっぱなしにはしておらず、必ず動かしたものは元に位置に戻しておいた。よほど神経質な人間でない限り、気づかないはず。

 さいわい、マリアは持ち物の数ミリの動きに気づくほど神経質ではなかったようだ。安心したらしく、ベッドに大の字になる。サッシを開けて、ベランダを確認しようとまではしなかった。

 俺としては、こっそりベランダから下の庭に降り、逃げる選択肢もあったが、しばらく様子を見ていたかった。そもそも今動けば、かえって物音で気づかれるかもしれない。ならば息を殺し、ふたたびマリアが部屋を出るのを待ったほうがいい。どうせ、すぐ学校に戻るはずだ。

 ふたたび下で玄関ドアが開く音がした。母親たちが帰ってきたらしい。ますます玄関から帰ることはできなくなった。

 さて、マリアはどうする?

 安心してふたたび学校に戻るか、それともなにかしでかすのか?

 そんなことを考えていると、マリアはいきなり動いた。放心してベッドに寝転がっていたのが、急に起きあがったのだ。

「なんなの、アリス?」

 しかもマリアはそう叫んだ。中空を見上げながら。

 もちろんそこにはなにもない。おそらくマリアには見えているのだろう。宙に浮いたアリスの亡霊が。

 やはりそうだ。かつて母親が聞いたという部屋で誰かとしゃべっている。あるいは、きのうナオミがいっていた、「マリアはアリスに話しかけている」それはほんとうのことだった。スマホで誰かと話していたわけじゃない。幻覚と会話していたのだ。

 このいかれた殺人鬼め。

 俺は身を乗り出す。さいわい、マリアの視線は天井当たりに向いていて、こっちには注意すらしていない。

 マリアは中空に向かってなにかつぶやいた。

 どうやら妄想と会話しているらしい。

「だいじょうぶよ。盗まれたものもないし……」

 後半はよく聞こえなかったが、こっちが忍びこんで家探しすることを幻覚はお見通しだったらしい。もっともそれはマリアの妄想なのだから、マリア自身が予期していたわけだが。

「……だいたいパソコンの中になんか、なにも入ってない。……くらいなら安いもんだわ」

 ふん、よく聞こえんが、パソコンは調べても無駄らしい。

 思わず舌打ちしたかった。

「だったらどうしろっていうのよ?」

 やはり、マリアは自分の妄想に操られている。だから、妄想に問いただすのだ。

「だから、『お嬢様』からそういう指令は来てないの……」

 お嬢様? なにものだ、それは? 指令? そいつがマリアに指令を送るのか?

 俺は混乱した。てっきり今見ている幻覚……妄想が殺しの指令をしてくると思っていたがちがうのか?

「……ターゲットは未成年犯罪者だけだから。刑事なんて……」

 ターゲットは未成年犯罪者。やはりそうだ。マリアの復讐心が歪んだ妄想を生み出す。しかも、刑事なんて……なんだ? つまり、俺のことか。マリアの理屈では俺を殺すのはまずいらしい。

 そりゃそうだ。マリアは歪んだ正義感に取り憑かれてるんだからな。いくらなんでも刑事は殺せないはずだ。あくまでも標的は犯罪者。それも法律でろくに裁けない未成年の。

「来ない」

 マリアは険しい表情をしていいすてたが、その後、ほっとした顔つきになった。どうやら幻覚が消えたらしい。

 マリアはそのあと、机のほうに向かって歩いた。なにかを机から拾う。

 封筒? さっきはそんなものなかったはずだが?

 俺は混乱する。いったいいつの間に誰が?

 マリアはその封を切った。

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