第3章 闇の指令書
K1
俺は朝から黒井家に張り付いていた。警察車両は使えず、自家用車はもっていないので、ミニバンをレンタルし、すこし離れたところに駐車している。とはいえ、双眼鏡を使わないと見張れないほど遠くもない。
ケータイは切っていないが、警察関係の着信には出ない。いっさい出ない。
きのう、直属の上司である係長にマリアに張り付かせてくれと進言したが、あっさり拒否された。捜査本部を仕切る管理官の方針から外れるというのが理由だ。管理官も係長もマリアが犯人である可能性などまったくないと思いこんでいる。
馬鹿馬鹿しい。あいつらはなにもわかっていない。
俺はついに警察組織から離れる決心をした。
心が青空のように晴れわたった。自分の体にからみついていた鎖を脱ぎすてた気分だ。
ずっと前からこうすればよかった。遅すぎた。
正式に休暇がもらえたわけじゃない。辞表を出したわけでもない。だが、しばらく捜査本部にも捜査一課にも顔を出す気はない。すくなくともマリアのしっぽを掴むまでは。
クビになるかもしれんが、知ったことか。マリアを追いつめることはなによりも優先する。それができないなら刑事を続ける意味すらない。
七時半ころになると、マリアが家を出て行った。証言どおり自転車通勤だ。こっちの車にはまったく気づいていないらしく、一度も視線を向けなかった。
マリアを尾行するつもりはなかった。どうせ今の時間ならそのまま学校に行くだけだ。それより、中に忍びこむチャンスをうかがいたい。
ナオミが車いすの母親を連れて、外出することはないのだろうか?
なんとかマリアの部屋に入りたい。ぜったいになにか出るはずなのだ。
車の中で、あらかじめコンビニで買ってあった菓子パンをかじる。どうせ、持久戦だ。しばらくはたいした動きもないだろう。
そうは思っていても、焦れる。俺はもともと張り込みには向いていない。尾行や聞き込み、取り調べのほうがよっぽど性分に合っていた。ただひたすら相手の動きを待つというのは、ポイント情報がなにもない釣りのようなものだ。もっともどうでもいいような事件なら骨休めの気持ちで気軽に構えてりゃいいが、ことマリアに関しては、とても平静ではいられない。ものすごいストレスが堪る。だが、好き嫌いなどいうつもりはない。我慢だ。我慢するしかない。
それでも一時間もしないうちにいらいらしてくる。
動け、動け、動け、動け。
そんなとき、スマホの着信音が鳴った。モニターをチェックすると番号は警察関係じゃない。見知らぬケータイ番号だ。俺は通話ボタンを押し、名乗る。
『あ、あの……、以前お会いした黒井家住み込みの看護師、星野です』
俺は心が躍った。彼女は今朝、一度も外に出ていないから、こっちには気づいていないはず。まさか、張り込みに対する苦情でもないだろう。
「なにかあったんですか?」
ついつい声が大きくなった。
『あの、……マリアさんって、ちょっと変じゃないですか?』
ちょっとどころか大いに変だ。頭のおかしい殺人鬼だ。
そう思ったが、それは口にしなかった。
「なにがあったんです?」
『前に奥様が、マリアさんの部屋から話し声が聞こえるっていったのを覚えてます?』
「ん、ああ、階段から落ちたときの話ですね」
『ええ。あたしは奥様の妄想だと思っていたんです。最近少なくなりましたけど、ときどきそういうことがあるんで……』
「それで?」
まだるっこしかった。要点はなんだ? 早くいえ!
『きのう、あたしも聞いたんです』
「なにを?」
『誰もいないはずの部屋で、ひとりでしゃべっていたんです』
来た。
なにが来たのか、今ひとつ定かではないが、なにか重要な情報であるのはまちがいない。だが、あえて冷静になった。走りすぎると、なにかを見落とす。
「それは独り言とかじゃなくて?」
『いえ、明らかに誰かとしゃべってました。でも相手の声は聞こえないんです』
「携帯電話で話してたんじゃないんですか?」
『最初はそう思ったんです。でも、それにしてはやけに声が大きいし、その……内容が』
「内容? どんなことをいってたんですか?」
『あの、……部分的にしか聞こえなかったんですが、誰でも殺す人殺しじゃないとか、命令にはぜったい逆らえないとか……、そんなようなことを。……そしてアリスと呼びかけたんです』
「そういったのか!」
『はい』
見ろ。俺の妄想などではなかった。つまり、マリアは人を殺している。
だが、マリアは自分の意思で殺していたんじゃないのか? 命令にはぜったいに逆らえないだと? 誰かが殺しの命令を? いや、……おかしい。そんなはずはない。
おまけにアリスとは?
もちろん、妹の
なのにアリスと呼びかけた? いったい誰に?
「それはアリスに呼びかけたんじゃなくて、アリスのことについて話していたのでは?」
『そんな感じじゃありませんでした。明らかに、話している相手に対し、アリスと呼びかけたような……』
彼女の声はかすかにふるえていた。
亡霊。アリスの亡霊に対して話しかけていた? そういいたいのだ。
もちろん、亡霊なんてふざけたものはいない。つまり、妄想だ。
マリアは死んだアリスの幻覚に操られている。
ふはははは。同類だ。マリアはそれこそ俺と同類じゃないか。
死んだ人間の亡霊……妄想、幻覚に操られている。まさにそっくりだ。
俺は歓喜に震えそうだったが、必死でそれを抑えた。とにかく今は情報収集が大事だ。
「それ以外になにかいってなかったですか!」
『あの……聞き間違いかもしれませんが、……三人殺したっていうようなことを』
三人殺した。まちがいない。そいつはマリアの家族を惨殺した三人の悪ガキどものことだ。
ふたり死に、ひとりは行方不明。そいつらをやったのがマリアだ。
『あの……、なんだかちょっと怖くなって、刑事さんのことを思い出して』
「いや、よく電話してくれました」
声がはずんでいるのが自分でもわかる。バックミラーをちらっと見ると、満面に笑みを浮かべた自分の顔が映っていた。
「ところでものは相談ですが」
『はい』
「今から彼女の部屋を調べさせてもらえませんかね? あなたも不安でしょう?」
しばらく沈黙があった。
「あなたは人殺しと同居してるかもしれないんですよ!」
「……でも、いいんでしょうか? あたしは家族じゃありませんし、あたしが許可したとして、もしなにかが見つかっても、それって証拠として採用されるんですか?」
テレビの推理ドラマの見過ぎなのか、彼女は案外、そういうことに気が回った。
「それはあなたが気にする必要はない」
『でも奥様はきっと反対します』
たしかにそうだ。俺は一瞬考える。
「あなた、奥様を外に連れ出すことはないんですか? あの奥様、一日中、家に閉じこもりっぱなし?」
『いえ、一日一度はあたしが車いすを押して、散歩に出ますが』
「それ何時? どのくらいの時間?」
『だいたい、お昼前くらいに一時間ほどですけど』
「出る前に電話くれませんか?」
ふたたび間があった。
『……わかりました。そうします』
「ありがとう。……あ、よかったらあなたのケータイ番号……あ、それはこの着信でわかるか、あとメールアドレスを聞いといてもいいかな?」
『はい』
彼女がいったアドレスを書き留めた。
「出るとき、鍵は開けといて」
『わかりました』
それで電話は切れたが、上々だ。時間は一時間ほどしか使えないが、中を調べられる。おまけにこれからいろいろ協力してくれるだろう。誰だって殺人者と同じ家には暮らしたくないのだ。スパイの真似だってなんだってするに決まってる。
カメラ、盗聴器、手袋、ひととおりの容易はしてある。あとはふたりが外に出るのを待つだけだ。
俺の動悸は激しくなった。
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