M3

 夕食後、自室に戻ったあたしは、ベッドに腰かけつつ、すこしほっとしていた。

 ナオミに聞いた話では、たしかに予想どおり黄金崎は聞き込みにやってきたが、どうということもなかったようだ。

 案の定、今朝何時に家を出たか聞かれたらしいが、ナオミは答えられなかった。自転車が昨夜からないことにもやはり気づいていなかった。とりあえず、これで問題ない。

 さらに黄金崎はバイクのことも聞いてきたとか。意外にあなどれないやつだ。木下を殺したあと、次の駅で降り、バイクで学校に行ったことを感づいているようだ。

 だが、それも問題ない。近くにアパートを別名義で借りていることは誰も知らないし、そこから足がつくことはないはず。

 さらに黄金崎はあたしの部屋を見せてくれないかとまでいったらしい。

 ずうずうしいやつだ。令状なんて持ってるはずもないくせに。

 だが油断ならない。どんな手を使ってでも令状を取りかねないし、それどころか、令状無視で忍びこみかねない。

 いや、そんな違法捜査で得た証拠は裁判で使えない。そこまで馬鹿じゃないだろう。

 もっともそんなことになったところで、この部屋の中にはいっさいの証拠は残していないから問題ない。なにしろ、留守の間、ナオミが中に入らないという保証などどこにもないのだから。

 びしっ、びしっ。

 空間が砕けるいやな音がした。室内に黒い霧が立ちこめ、それが渦を巻いて集中していく。あっというまに闇の空間のできあがりだ。

 また、アリスがきた。

『ねえ、マリア。ほんとにだいじょうぶなの、その刑事放っておいて?』

 アリスはいつものように、全身切りきざまれた体から、ぽたぽたと血を滴らせながら宙に浮いている。

「だいじょうぶよ。なにもできないわ、あんなやつ」

『そうかなぁ。あれでけっこう鋭いと思うけど。なにより執念深いって、あの男。どんな手を使ってでもマリアを追いつめる気だよ』

「どんな手を使ってでもって、……しょせん、あいつは刑事よ。あたしを狙ってるストーカーでも、あたしに恨みを持つ復讐者でもない」

『そんなことないよ。あいつを刑事だと考えちゃだめなんだって。頭のおかしい猟犬。そう思うくらいでちょうどいい』

 頭のおかしいのはあんたよ。……いや、あたしか。あたしこそが変なのだ。

 あたしはそれを言葉にはしなかったが、アリスには充分通じたようだ。にやりと酷薄な笑みを浮かべる。

 なぜだ。なぜ、あの男は執拗にあたしを追いつめる?

 そういえば、アリスはこの前、あの男はあたしをうらやましがっているといった。

 風のように自由に殺しに走るあたしがうらやましいと。だから、憎悪の対象になるとか、そんなようなことをいっていた。

 ありえるのか、そんなこと?

『認めなよ、マリア。あいつは危険。ひょっとしてマリアを逮捕したいんじゃなくて殺したいのかもしれないよ。あいつの目つきを見たでしょう。ぎらぎらしてる。それも正義感に燃えた感じじゃなくてさ』

 そう、強いていえば嫉妬と憎悪の入り交じった卑しい目つき。ただひたすら攻撃的で、人間性を忘れ去ったような目つき。

『やっちゃいなよ。すぱっとさ』

「……それはできない」

『どうして? 「お嬢様」の命令がないから?』

「そうよ。あたしは誰でも殺す人殺しじゃない。仕方なくやってるの。だって、あの人にはぜったいに逆らえないんだから」

『あははははは』

「なにが、……おかしいの?」

『だってマリアが自分のことを人殺しじゃないなんていうんだもの。マリアは頭のおかしい人殺し。そうでしょ?』

「だ、だけど、あたしは自分の意思でやってない。自分の意思でやったのは、あんたを殺した三人だけよ」

『ほんとにそうなの? ほんとにあいつら、木下とかを殺したいと思ったことはないの?』

 あのふたりを殺したいと思った?

 どう考えても思いあたらない。たしかにふたりとも不良で、いい感情は持っていない。

 だが、それは殺意とはちがう。教師なら誰だって思うはずだ。問題児は自分の受け持ちにはほしくない。いや、教師に限らず、一般人なら危ない感じの男には近づきたくない。その程度の感情だ。

 邪魔。怖い。うざい。近づきたくない。関わってくるな。

 誰だってその程度のことは思うだろう?

『ごまかしてる、ごまかしてる。ほんとは殺したかったくせに。「お嬢様」から命令がきたとき、嬉しかったくせに』

「ちがう。ちがうっ!」

『じゃあ、そういうことにしといてあげる。とりあえずね』

「なにがいいたいのよ、アリス。あんた、きょうはなんのために出てきたの?」

『冷たいなあ。警告だよ、警告。あの刑事には気をつけろってね』

「わかった。っていうか、わかってる。あいつが危険なのは充分承知よ」

『そうかなあ。認識が甘そうだったから、あえて確認したのに』

 認識が甘い? いや、たしかにそうかもしれない。

 あいつはなにをしでかすかわからない。アリスのいうように、捜査とはいいわけで、ほんとはあたしを殺したいのかもしれない。

 なんか本気でそんな気がしてきた。

『ようやくわかったようね。じゃあ、目的を果たしたようだから、あたしは消えるね』

 アリスは消える。煙のように。

 がたっ。

 ドアの外から音がした。

「誰?」

 小走りで階段を駆け下りる音、あたしがドアを開けたとき、すでに姿は見えなかった。

 ナオミ?

 それ以外には考えられなかった。母は脚が悪くて無理だ。それ以外にこの家にいるのは彼女だけだ。

 アリスとの会話を聞かれただろうか? いや、正確にはアリスの声は聞こえないはずだから、独り言だと思ったはず。

 まずいことを口走らなかっただろうか?

 必死でしゃべったことを思い出す。とりあえず、致命的なことはいっていないはず。そもそもドア越しだとよく聞こえないだろう。

 だが、不安は広がる。そもそもナオミはいったいなにをしに上がってきたのだろう?

 まさか、黄金崎に変なことを吹き込まれはしなかっただろうか?

 油断できない。用心しなくっちゃ。

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