M1

 木下雄一はここ数日おとなしくしている。夜遊びに繰り出したりするのはやめたらしい。もともとただの腰巾着で兄貴分に振りまわされていただけなのかもしれない。あるいはただの財布だったのだろうか? なにせ親はじつはかなり大きな会社の役員だ。それなりの小遣いをもらっていたことは容易に予想がつく。

 木下はかなりセキュリティが厳重なところに住んでいて、おまけに次は自分の番かもしれないということでかなり神経質になっているらしい。夜中に家に忍びこむことはかなりむずかしそうな気がした。

 さて、どうしようかな?

 あたしは一晩中考えた。襲う隙が見つからなかったのだ。

 学校内で襲うのはさすがに危険すぎる。教師、生徒が真っ先に疑われるし、誰に見られないとも限らない。となると通学中を狙うしかないが、最寄りの駅までの道は人通りの多い表通りだし、地下鉄を下りたあとも、学校まではやはり同様の理由で狙いづらい。

 そもそもこのいきがっているだけの小心者の不良は、殺されるようなことをしたのだろうか?

「お嬢様」は理由を教えてくれない。猪股たちのときはたずねるまでもなく、自分自身がやつらが死ぬべき理由を知っていたが、木下に関してはなにもわからない。前にアリスがいったように、赤井秀朗とかいうやつが率いる少年犯罪グループの一員だとは到底思えなかった。

 だが、やめようとか、「お嬢様」に理由を問いただそうとかいう気にはならなかった。

 悲しいかな、「お嬢様」の命令は絶対なのだ。それはあたしの秘密を知っているからとか、もっともらしい理由からじゃない。そう、理屈ではないのだ。体の芯が、心の奥底が、逆らってはいけないといっている。

 おそらくあの地下室で、「お嬢様」に骨の髄まで調教されてしまったということなのだろう。

 それをムキになって否定する気さえない。それが現実なのだ。自分の復讐を遂げる代償として、自由を「お嬢様」に売り渡したのだから。

 とにかくやるしかない。

 けっきょく、人ごみで決行することにした。

 というわけで、あたしは今、通勤通学の乗客でごった返す地下鉄の駅前にいる。服装はジーンズに革ジャン、革手袋、それに背中にはリュックとバイクにでも乗るような恰好だ。マスクで口と鼻を覆ったが、コロナの流行のおかげで目立たない。長い髪は後で結って革ジャンの中に入れ込み、キャップを被った。サングラスはかえって目立つので、変装用に黒縁の眼鏡。度は入っていない。。耳を隠すためにヘッドホンをした。どうせ監視カメラで映像を記録されるわけだが、案外耳の形で特定されてしまうかもしれないからだ。もちろん音源は入っていない。

 とにかく目指すは空気。第三者の目に入っても、数分後には忘れてしまう透明人間。

 今回はピアノ線は使わない。人ごみでやる以上、瞬間的にやって立ち去る必要があるからだ。

 用意した凶器は小型の千枚通し。鉛筆ほどの長さで針はさほど太くない。これで急所をひと突きにする。

 いつもの慣れたやり口ではないが、刺殺の訓練もさんざんやらされたので問題はないだろう。今回の木下は手強い相手ではない。気持ちも落ちついている。これからやるのはただの作業に過ぎない。

 木下が来た。

 まさか自分を狙っている殺し屋が、駅に潜んでいるとは思いもしないのか、顔に警戒心はない。前を通りすぎていったが、あたしの顔を見さえしなかった。

 改札口に入っていく。あたしはあとに続いた。

 ほんとうの通勤ラッシュはもうすこしあとだが、それでもかなりの人で駅の構内はあふれていた。一定の距離を保ちつつも、あたしは木下を見失わないようにあとをつける。

 木下は階段を下り、学校方向のホームに降りる。後ろをふり返りすらしなかった。

 焦らずにあとを追う。誰もあたしに関心を払わない。この時間帯の乗客たちは他人のことなどどうでもいいのだ。

 時刻表はあらかじめ調べておいた。あと一分もすればホームに入る。木下もそれに合わせて来ているのだろう。

 木下は乗車位置に合わせて立っている。あたしはその背後に回った。

 さいわい、木下の前には何人か並んでいたが、後には誰もいない。あたしの真ん前に木下の背中。ちらりと後ろを見ると誰もいない。しかも、すぐ側にはベンチ。

 理想的だった。

 地下鉄が来る。まわりの人間の誰もが、そっちに注意が行く。あたし以外は。

 あたしはポケットから千枚通しを取り出すと、その先端を背中から木下の心臓に深々と突き刺した。木下は一瞬びくりと動いたが、それだけだった。悲鳴すら発しない。

 車両は止まり、ドアが開いた。

 あたしは凶器を抜かず、そのまま木下の襟首を掴むと、斜め後ろに引き倒した。

 木下の体はそばにあったベンチにもたれかかる。あたしは見開いた木下の目を閉じると、もう片方の手でポケットから取りだした黒い逆さ十字をぽいと投げすてた。それは木下のベルトに鎖がひっか掛かった。その間、ほんの二秒ほど。

 一連の流れるような動作で、不審に思うものがいないらしく、誰も振り向かない。

 これから地下鉄に乗りこむのに、後なんか気にするやつはいない。乗客が降りると、空いた席を目指して中になだれこんでいく。

 さっきまで後で並んでたやつが、ベンチに座り込んだことなんか気づくはずがない。

 仮に気づいたところで、知ったことか、というのが正直なところだろう。

 あたしもその流れに乗り、車両に乗りこんだ。

 すぐにドアは閉まり、地下鉄は動き出す。

 窓からホームをのぞき込んだ。

 ベンチで眠りこけたように見える木下。しかしまわりの誰もが木下のそばに寄らない。異変に気づかないのだ。

 地下鉄が進み、もう木下の姿が見えなくなった。駅員が異変に気づくにはまだすこしくらい余裕があるだろう。

 本来ならデジカメで木下の死体の写真を撮って、「お嬢様」に送るべきなのだが、今回はその余裕がなかった。どうせすぐ報道されるし、問題はないだろう。

 あとは次の駅で降りるだけだ。そして止めてあるバイクで学校に向かう。着替えるのは学校の近くでおこなえばいい。

 もちろん、地下鉄は次の駅まで、緊急停車したりすることはなかった。

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