第2章 狂犬刑事
K1
あれは十年前のことだった。
当時、俺は巡査部長で所轄署の捜査一係所属だったが、凶悪な連続殺人事件の捜査に狩り出され、ろくに家に帰ることもできなかった。娘の
事件は幼い女の子ばかりが襲われた。性的な悪戯をされたとか、裸にされたとかそういうことはない。犯人にそういう趣味はないらしい。ただ殺す。それも残虐なやり方で。
もちろん、俺は許せなかった。犯人の動機はまったくわからなかったが、そんなことはどうでもいい。どうせ、一般人には理解できない理由なのだろうから。
ただ、とめたかった。幼い命が犠牲になるのはもうたくさんだ。たぶん、俺以外の刑事たちも、似たような思いで捜査に当たっていたはずだ。だからみんな足が棒になるまで聞き込みでかけずり回り、あるいは怪しいと目星をつけたやつを見張るため、夜通し張り込みをすることも苦痛ではなかった。
ある晩、聞き込みを終え、捜査本部に戻る途中、妻の
『家の回りに変な男がいるの』
「変な男?」
『うん。それも見たことがある顔』
「どこで?」
『たぶん公園だと思う。愛といっしょにいたんだけど』
「すぐ行く。戸締まりを確認してぜったいそいつを近づけるな」
いやな予感がした。
愛は充分ターゲットになりうる年齢の子だ。それまで、被害者の子を愛に重ね憤怒こそしていたが、愛が狙われる可能性は真剣に考えていなかった。なにしろ相手は無差別、狩りの場所は東京全土、範囲が広すぎるのだから。
電話を切ると、そのまま係長に掛けた。
『わかった、タク、すぐ行ってやれ。それまで近くの派出所の警官を回しておく』
「はい」
すぐさまタクシーを拾い、家に向かった。聞き込みをいっしょにしていた本庁の巡査部長橋本とともに。
犯人が危険と判断されていたので、拳銃は捜査員全員が携帯していた。
気が焦っていた。最悪の想像だけが頭に浮かぶ。
「だいじょうぶだ。ちゃんと戸締まりしてれば入って来れないさ。警官が来れば逃げる。襲われはしない」
橋本がそういってくれた。
たぶん、その通りだ。犯人は今まで強硬な手段は取らずにいる。女の子を人知れず、こっそりとどこかで始末したり、留守宅に忍びこんでの犯行だ。強盗まがいのことはしていない。
家が近づくと、ケータイで連絡を入れる。
出なかった。
なぜだ? なぜ出ない。
出ろ。出ろ。出ろ。出ろ。出ろ。
不安はマックスになる。いや、そんなはずはない。たまたま出れないだけなんだ。
本部にふたたび掛ける。様子を見に行った派出所の制服警官から報告が来ているかもしれない。
だが、そんなものは来ていなかった。
どういうことだ? 時間的に派出所から家に行っていないはずはない。
ま、まさか……。
いや、犯人は今まで、警官をふくめた大人に手を出していない。子供しか襲えない腰抜け野郎のはずなのだ。
「落ちつけ」
橋本の叱咤が聞こえる。耳を素通りした。
ようやくタクシーが自宅前に着いた。料金は橋本に任せ、飛び出す。
なぜか前の道路に小さな人だかりができていた。
俺はそれをかき分ける。制服警官が倒れていた。首から血を流して。
馬鹿な。
あたりを見まわす。怪しそうなやつはいない。
逃げたか? それとも、まさか……。
俺は自宅の玄関に走った。ドアノブをつかむ。
開いていた。
くそ。くそ。くそ。
鼓動が鳴り響く。全身から汗が噴き出した。
拳銃を手にした。
「先走るな!」
橋本がついてくる。やはり拳銃を抜いていた。
制服警官は喉を引き裂かれていた。犯人の武器はナイフか?
ひょっとして銃も持ってるのか?
くそ。今までは大人を殺し、民家に立て籠もるなんてしたことなかったくせに、なんで俺の娘を狙うときだけこんなことを……。
暴走しやがって。暴走……。
これ以上、好き勝ってやられてたまるかっ!
怒りと恐怖と不安で、目の前がかすむ。歪む。
息が上がった。はっはっと、まるで走ったあとの犬のように短く浅い呼吸をくり返す。
吐きたくなった。胃も腸も心臓までをも口からぶちまけたい気分だ。
熱い。体が燃えるようだ。全身がぴりぴりする。俺は火事現場にでもいるのか?
気のせいか、目の前が赤く染まっているようにすら感じる。だが、それはぜんぶ錯覚だ。異常な神経がそうさせている。
ここは犯人が潜んでいる以外は、歩き慣れた自分の家でしかない。
居間のドアを開けると、銃口を向け、それから体を滑り込ませた。
誰もいない。犯人も、妻も娘も。
キッチンはここから見える。俺は走った。死角をのぞき込むために。
袖壁の陰も、家具の後ろも見たが誰もいない。
すかさず、ふたたび廊下に飛び出す。
次だ、次。
俺の書斎兼物入れとなっている部屋を開け、銃を向ける。
いない。乱雑なその部屋には誰もいない。
寝室か? いるとすれば寝室か?
三人家族の俺の家は広くはない。二階はなく、あとはトイレとバスルーム、それに寝室だけだ。
妻を大声で呼ぼうかと思ったが、やめた。犯人が近くにいた場合、下手に返事をしようとして危害を加えられるということもありうる。
それより、むしろ奇襲だ。
必死で弾む息を抑え、足音を殺した。
ドアノブに手を掛けると、ゆっくりと開ける。
みょうに重かった。しかしその理由はすぐにわかった。妻の留美子がドアに寄りかかっていたからだ。
俺がドアを手前に引くと、ばさりと妻の体が廊下に倒れた。
「うおっ?」
思わず声が出た。留美子の衣服はずたずたにされ、全身が血で真っ赤になっている。その顔には恐怖と絶望の表情が浮かび、唇がかすかに動いた。
だが俺は妻の声を聞き取ることができなかった。
非情なようだが、俺の意識は倒れた妻ではなく、部屋の中に向かう。
愛は? 愛はどこだ!
目の前をころころとなにかが転がっていく。
バレーボールくらいの大きさの、なにか丸くて黒いもの。いや、正確には真ん丸ではなかったし、黒いだけでもない。
それがなんであるのか、一瞬わかった気がしたが、心がそれを否定した。
馬鹿な。ば、馬鹿なっ!
しかしそれが壁にぶつかり、はね返ってくると、ちょうど俺の目の前で止まった。それも絶妙な角度で。
床から愛の首が生えていた。
な、なんだ……これは?
もちろん、冷静に考えれば、今目の前を転がったのは愛の生首であり、それが俺のほうを向いて止まったのだ。
だが、だが、そんなことを認めてたまるか。
たとえ愛が悲しそうな顔で見つめていようと、これがそんなものであるわけがない。
しかし体は動いた。奥のほうを見るため、首をふった。真相を確認するために。
ベッドの上にふたつの人形が踊っていた。
ひとつは首のない幼い女の子。首から血が噴き出しているが、これが愛であるはずがない。
もうひとつは、首のない女の子の人形を後で支えている、みょうに手足の長いのっぽの人形だ。そいつは血まみれのナイフを口にくわえていたが、それを吐き出し、みょうな歌を口ずさんだ。トローンとした常軌を逸した目つきで。
「うふふふ。楽しいな。楽しいなったら楽しいな。女の子の生首がこ~ろころ」
踊る人形。歌う人形。もちろん、そんなことは嘘っぱちだ。
もう自分をごまかすのはやめよう。
そこにいるのは、首のない愛の遺体と、それをもてあそぶ殺人鬼。頭のおかしい男だ。
俺の右手は勝手に動いていた。
そいつに拳銃を向け、引き金を引く。なんの迷いもなかった。
しかし冷静でなかったのは明白だ。もともと射撃の腕はたいしたことないが、弾はかすりもしなかった。
殺人鬼が愛の遺体を投げすて、窓に向かう。
逃がすか、この野郎!
今度は当たる気がした。しかし引き金を引こうとしたとき、邪魔が入った。橋本が俺の腕をはね上げたのだ。
「やめろ。逃げる丸腰の相手を撃つ気か?」
やかましい。
俺は橋本を殴った。
「邪魔をするなぁああああ!」
だが橋本もひるまなかった。逆に殴り返される。俺は床に転がった。
「俺が追う。おまえは奥さんについてろ。救急車を呼べ」
そういって、窓から飛び出す。
俺はようやく妻がまだ生きていることを思い出した。
ケータイを取り出すと救急車を呼ぶ。
留美子はかすかに口を動かしている。なにかを伝えたいのだ。
「なんだ。なにがいいたい?」
耳を口もとに近づける。留美子は俺の左の手首を掴んだ。
「なんだ?」
めきっ。
異様な音がした。それがなんであるか一瞬わからなかった。
「なんで……追わないの? ……この、腰抜け……、役立たず」
めききききっ。
それが自分の左手首が砕ける音だと気づいたとき、俺は恐怖で絶叫していた。
*
ここに来る度、あのことを思い出す。
目の前にはベッドに横たわる妻、留美子。体には電極やらチューブやらよくわからないものがいくつもつながっている。
あの日以来、意識が戻らない。ただ生きている。
美しかった面影はどこにもなく、ただやせ衰え、その顔からは怨念すら感じてしまう。
ほんとうはそばで手を握り、優しい声をかけてやりたい。
だができなかった。今、一メートルは離れたところに立っているが、それ以上近づくことができない。
怖いのだ。あのときの妻の顔が、声が、そして左手首を握りつぶした怒りが。
実際、かつて何度も妻の体にさわろうとした。しかし、この位置から一歩も近づくことができない。
きょうも試してみた。やはり、無駄だった。
俺は妻に背を向けると、病室をあとにした。
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