挿話 サリーの記憶

「サリー、あなた家族に性的虐待を受けたことがあるんじゃないの?」

「え?」

 いったいなにを言い出すんだろう、この人は?

 サリーは目の前にいる女性カウンセラーの顔をまじまじと見返した。

「ないの?」

「ええ、そんな経験はまったくありません。両親からは愛されて育ってますから」

 ちょっと冗談っぽく言ったが、カウンセラーはにこりともしなかった。

「だってサリー、あなたにはありとあらゆる兆候が出ている。サバイバーのね」

「サバイバー?」

「外傷体験を受けながら生き抜いた人。この場合は精神的な外傷ね」

「そんなこと言われても、受けていないものは受けていないんです。家族からの虐待なんてあたしには無関係です」

 ここに来たのは、父親から性的虐待を受けたせいではない。もしそうなら、ここじゃなく、警察に行っている。

 そもそも今サリーは学生で、アパートでルームメイトと暮らしている。家族とは離れているから、家族との人間関係がストレスになることはほとんどないといっていい。

 サリーは摂食障害だ。食べずにはいられない。そして吐く。その繰り返しだ。

 この異常行動のループから、サリーは一刻もはやく逃げ出したかった。だから友達の紹介でここに来ている。虐待による心の傷なんて関係ない。

「いいえ、間違いないわ。あなたは必ず身近な人間に性的虐待を受けている。ただその事実を受け止められないでいる。その暗い闇を吐き出そうとして今の症状があるの」

「なにを言ってるのか、わかりません」

「あなたが虐待されたという記憶は抑圧されている。だから思い出せないの。それを思い出せば、過去をはき出そうとするあなたの欲求は止まる。それで摂食障害も治るはずよ」

 抑圧された記憶?

 そんなものはない。いくらなんでも、そんなことを過去にされていたら、わすれるはずない。

「信じられません」

「いい? あなたのようなケースはけっしてめずらしいことじゃないの。残念なことに、ここアメリカでは性的虐待を受けたことのある少女の割合はかなりのものになるわ。統計だってある。そして最近わかったんだけど、小さいころ性的虐待を受けた子は、案外その事実を覚えていないのよ。そんな事実を受け入れられないから、なかったことにするの。無意識にね。記憶は抑圧され、取り出すことができなくなる。つまり、思い出せなくなるってことね」

「だって、ほんとにまったくそんな記憶はないんですよ」

「そういうものなの」

「嘘です」

「この事実を受け入れないと、あなたは治らないわ」

 ここに来たのは間違いだった。いったいなんなんだ、このカウンセラーは。

 サリーは席を立とうとする。

「サリー。あなたは摂食障害を治したいんでしょう? 今まではべつのカウンセラーのところにも行った。だけどその人たちにはなにもできなかった。ちがう?」

 それは事実だった。このカウンセラーは今まで何度もそういう人たちを立ち直らせてきたと聞いたから来たのだ。

「あなたを助けられるのは、わたししかいないわ。お願いだから、わたしを信じて」

 サリーは浮かしかけた腰を下ろす。

「だけど、そんな重大なことを覚えていないなんてこと、ほんとにあるんですか?」

「あるのよ、それが。今は信じられないかもしれないけどね。まあ、わたしが今、受け持っているだけでも数人いるし、わたしの仲間のカウンセラーに話を聞いても、同様のことを言う」

 だから珍しいことじゃないってこと?

「記憶とはそういうもの。心を守るために、重大で深刻なことこそ、度が過ぎればシャットアウトされる。人間の防衛本能に基づく行動よ」

「だけど、それがほんとうなら、無理に思い出すのはよくないんじゃ?」

「それは一時的な措置に過ぎないわ。たしかに記憶が抑圧され、思い出せなくなったことで、一時的は精神は安定する。だけど、完全に忘れてしまうわけじゃないから、無意識に答えを探ろうとするのよ。あなたの心の中の探偵は、無意識に脳の中で原因を探る。捜査し続けるのよ。そしていずれ気づく。ひょっとして過去に性的虐待を受け、その記憶を封印してるんじゃないかって」

「だから、あたしはそんなこと、気づいてなんて……」

「表層意識ではね。わたしが言っているのは、あなたの無意識。意識せずに真相を探ろうとする脳内探偵の話よ」

「その無意識が、真相に気づいたと?」

「そう。だから、それをはき出そうとする。それが記憶ではなく、食べたものにすり替わっているの。だから食べては吐くという行為を繰り返す。だけどあなたにはその原因がわからない」

「あなたの言いたいことはなんとなく理解できた。……少なくとも理屈は。だけど、まだ信じられない」

「サリー、あなたは今興奮している。だから、余計にそうなの。落ち着いてみて。まず深呼吸をしてみましょう」

 あたしは言われるがままにした。それでたしかにすこしは落ち着いた。

「信じられないのは、そういう記憶が断片的にすらないから。とりあえず、ためしてみたらどう? なにかきっかけさえつかめれば、一気に記憶が戻る可能性がある。そうすれば、信じるとか信じないとかいう問題じゃなくなるわ。だって、思い出すんだから」

「試す?」

「そう。ためしてみるのよ。もしほんとうにそんな事実がないのなら、いくら思い出そうとしても、思い出せるわけがないもの。もしそうならそうで、次の段階に進める。べつの原因を探すっていうね」

 なるほど、たしかにそうだ。体験していないことを思い出そうとしても思い出せるわけがない。そうなれば、このカウンセラーも諦めて、真の原因を探してくれるだろう。

 サリーにはもうあとがないのだ。今まで誰もサリーの心の治療に成功しなかったのだから。

「でも、具体的になにをすればいいんですか?」

「そうね。枕元にペンとノートを用意して。きょうから眠ってしまう前に、ベッドの中で瞑想して。べつに難しく考える必要はない。ゆっくり深呼吸して心を落ち着かせればいい。さっきみたいにね」

「それで?」

「イメージして。子供の頃に戻るの。過去の自分の心の中を旅する感じで。きっと、そのうち、今考えてもいなかったものに出会えるに違いないわ」

「それは?」

「今はなんとも言えない。だけど、イメージできたら、それをノートに書き留めるのよ。それを続けて」

 とりあえず、彼女の言うことは、なんの害も危険もなさそうなことだった。面倒と言えば面倒だが、摂食障害を治したいという気持ちのほうがはるかに強かった。

「わかりました。とりあえずやってみます。なにか予期しなかったものがイメージできたら……」

「いつでも、遠慮なく電話して。夜中でもいいから」

 カウンセラーは優しくほほ笑んだ。

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