M4

 あたしは憂鬱だった。

 学校から帰ってくると、母の病状が悪化していた。看護師のナオミによれば、ひさしぶりにわけのわからないことをいいだしたそうだ。

 あの黄金崎が聞き込みに来たためだ。要はあたしのアリバイ調査ってことだろう。

 もっともふたりはあたしが夜中に部屋を出た様子はないと証言したらしい。

 ナオミはべつにかばったつもりはないらしく、気づいていないのだ。昨夜、あたしは二階から抜けだしている。バルコニーから雨どいを伝えば、かんたんに庭に下りられる。逆もまた容易だ。

 だが、問題は疑われていることだ。あの刑事はしつこい。

 夕食後、母はナオミに任せて自室に上がった。ベッドに寝ころびながら不安にさいなまれている。

 そのうち、精神的に疲れ、まどろみはじめた。


   *


 あれはどこかの地下室だった。

 それがどこなのか、あたしにもわからない。意識を失った状態で連れこまれ、ずっと閉じこめられていたからだ。

 もっとも地下室だとはっきりいわれたわけでもない。ただ、窓がひとつもないし、壁も床も天井もコンクリートの打ちっ放しで、全体的にじめじめしている。塗装も壁紙もカーペットもない部屋では、かすかにコンクリートの匂いがする。それがなんとなく不快だった。

 ここにはベッドとトイレ、バスルームはあるが、それ以外は空間が広がっているだけだった。広さにすれば、十数畳くらいはあるのだろうか。要するに、動き回るのに困らない広さということだ。

 もういつからここにいるのかすら、定かではない。思い出せないのだ。ほんの二、三週間のような気もするし、もう一年にもなるような気がする。過酷なトレーニングと、家族が惨殺されて以来感じる精神的な痛みのせいで、よくわからなくなっていた。記憶が曖昧なのだ。あるいは断続的な記憶障害なのかもしれない。

 ただたしかなのは、ここにいる間、「お嬢様」の命令は絶対だということだ。

 食事は中年の女によって運ばれた。もっとも顔はマスクとフードのようなもので常に隠していたので、ほんとうに中年か、あるいは女かも定かではない。なにせひと言もしゃべらない。ただ、全体的な感じとしては、中年女と思われるので、あたしは「おばさん」と呼んでいた。

「おばさん」は決まった時間に食事を届けに来た。粗末なものではない。栄養も充分に考えられ、味も一流ホテル並とはいわないまでも、なかなかのものだった。いわゆる囚人の食事ではない。彼女はふつうにドアを開け、入ってきた。あたしがその気になれば、「おばさん」をはり倒して逃げ出すことだってできた。しかし、一度たりともそんなことはしていない。

 そもそもここにはあたしが望んできたのだ。復讐のために必要な知識と技を身につけるために。

「おばさん」以外でここに足を踏み入れるのは、もちろん「お嬢様」だ。

「お嬢様」はあたしをここで鍛えまくった。プロアスリート並みのハードなトレーニングを課し、格闘技や殺人術のビデオを見せまくった。またこの部屋にはその手の本がたくさんあり、「お嬢様」がいないときはそれを読むことを強要されもした。

 さらに「お嬢様」が被害者役になって、殺しのシミュレーション。ピアノ線の他、ナイフや棍棒なども使う。とはいえ、ナイフはダミーだし、ピアノ線の代わりに細いロープ、「お嬢様」は首や急所には防具をつけている。もちろん、「お嬢様」はかんたんにはやられない。容赦なく反撃してくる。あたしは防具をつけていない分、生傷は絶えなかった。

 そんな生活をしていると、だんだん人を殺すことしか考えられなくなってくる。どうやれば効率よく殺せるか? いかにして反撃を喰らわずやれるか? そしてそれを実戦で試す。そんなことのくり返し。

 もともと適正があったのか、あたしはまたたく間に殺人術の達人になっていった。そしてサディスティックな感情が芽生える。相手の首を絞めると、自分自身の子宮もきゅうっと閉まるような錯覚がした。

 だが「お嬢様」はいう。

「そういう余計な感情は捨てなさい。殺しに快楽を求めては隙だらけになる。殺しに動揺してはいけないけど、快楽を求めてもだめ。息でもするかのように殺しなさい」

 どうやら「お嬢様」はあたしを純粋な殺人機械に育てたいらしい。

「快楽殺人者はただの人殺し。あなたは殺し屋になるのよ」

 つまり「お嬢様」の道具になれということだ。余計な感情を抱いて、失敗しては困るといいたいらしい。

 なぜか反発は起きなかった。どうしても「お嬢様」には逆らえない。どうしてだかわからないけど、そういう気にならない。

 すでに、自分が「お嬢様」よりはるかに強くなり、彼女を殺してここから逃げ出すことが簡単になったというのに。

 だが、「お嬢様」のいう境地にはなかなか達しない。それでも無理矢理、サディスティックな感情を抑える努力をした。

 ひと通りのことをマスターすると、その地下室からは解放され、日常に戻った。つまり普通の大学生活だ。

 だが、それでも定期的にこの地下室には連れ込まれた。

 目隠しをされ、お嬢様の車に乗せられてくるので、そこがどこかはいまでもわからないけど。

 もちろん、定期的に殺しのトレーニングを続けさせるためだ。

「お嬢様」はなにがなんでもあたしを一流の殺し屋に仕立て上げたかったらしい。そんな生活が三年も続いただろうか?

 そしてついに最初の仕事。

 ターゲットはあの猪股だった。あたしの家に押し入り、父やアリスを殺し、一家を壊滅させた連中のひとり。

「お嬢様」の命令と、あたしの希望が重なった仕事。

 猪股はアパートでひとり暮らしをしていた。高級マンションとはちがい、管理人も常駐せず、セキュリティという概念すらなさそうなアパート。しかも一階だった。

 忍びこむのは簡単。その気になればピッキングで解錠もできる。そういうことも仕込まれた。だが、敵が中にいるとき、わざわざ表からはいるのは馬鹿げている。敵に身構えるチャンスを与えてしまう。

 まず、真夜中、猪股を外に呼び出す。その役は「お嬢様」がやってくれた。なんといったのかは知らないが、とにかく電話を掛けていったん外に出す。その間に、あたしが忍びこむわけだ。

 ピッキングをしてもよかったが、猪股は不用心にも鍵を掛けなかった。電気もつけっぱなし。すぐに戻ってくるつもりだったんだろう。

 実際、猪股はすぐに戻ってきた。

 あたしは物陰に隠れ、息を殺す。

 猪股はそんなことを予想だにしていないらしく、無防備に奥のベッドに向かう。なにやら、ガセだの無駄だったのと、独り言をつぶやきながら。

 あたしは後ろからピアノ線を首に巻き付けた。そのまま引き絞り、後に倒す。

 こいつが、こいつが、あたしの一家をばらばらにした。

 そう思うと力が入る。

 猪股は暴れた。手足をばたばたし、身を捩り、必死で逃れようとする。

 面倒なので、腹ばいに床に押さえつけようとしたが、うまくいかず、あお向けになった猪股の顔を上から見下ろす形になった。

 電気はついている。その表情ははっきりとわかった。

「お、おまえ……」

 猪股の目が見開く。目の前の顔が信じられないのだろう。

 とうぜんあたしの顔は知っている。自分が起こした事件の遺族であり、それ以前に同じ学校だった。

 猪股の口から、それ以上の言葉は漏れなかったが、おそらくこういいたかったのだろう。

「なんで、おまえが?」

 猪股の顔には、たんに苦痛と恐怖以外に、驚愕の表情がミックスされていた。

 びくん、びくんと猪股の体が痙攣する。

 それでも首を絞める力を緩めない。きりきりと引き絞る。

 体が熱い。いかに「お嬢様」に殺すときは無心になれといわれても無理だ。

 シミュレーションのときはなんとか押さえることができたが、実際の殺しは別だ。しかも相手は家族の仇。どうしたってこうなる。

 得体の知れない歓喜が体中を駆けめぐる。

 ついに猪股は動かなくなった。

 口からは舌がだらしなくはみ出し、目からはもう恐れも苦痛も感じられない。ただ、どろんとした魚の腐ったような目。

 あたしはようやく猪股からピアノ線を外し、ポケットにしまう。

 手袋をしているから指紋は問題ない。念のため、落としたものがないかあたりを見まわすが、髪の毛一本落ちていない。

 復讐の証、黒い逆さ十字を死体の上に投げ捨てた。

 玄関ドアの前に立ち、外に人の気配がないことを確認すると、あたしは現場を去った。

 幸い出ていく姿は誰にも見られなかったはず。

 あとは「お嬢様」がアリバイを用意していてくれる。問題ない。

 とくに不安も感じず、そのまま夜の闇に消えた。


   *


 夢?

 いつの間にか眠っていたらしい。

 猪股を殺したときのことは、今でも詳細に覚えている。何度も夢に見る。なにしろ、最初の殺し……いや、殺すつもりで殺した最初の殺しだ。

 あたしにとって、殺しは不快なことではない。とはいえ、善良な人間を殺すのは気が進まない。だが、「お嬢様」が持ってくる仕事は、悪人だけ。それも未成年ゆえ、重い判決を受けることのない悪党だけだ。だから、本来は仕事を受けることに問題はないはず。

 しかし、今はすこし憂鬱だった。

 復讐を終えれば、アリスは消えるかと思っていた。しかし、現実にはアリスはつきまとう。「お嬢様」の仕事を受けろと、そそのかす。

 いったいアリスは、そして「お嬢様」は自分にいったいなにをやらせようとしているのか?

 ふと、机の上を見ると、一通の封筒が置かれてあった。

 指令書。

 いつも思うが、「お嬢様」はどうやってこれを届けるのだろう? あとから聞いても、母やナオミはそんなものを知らないし、怪しいやつが忍びこんだはずがないともいう。

 あたしはベッドから降り、封を切った。

 中に入っているのは、黒い逆さ十字と手紙。


『次のターゲットは木下雄一きのしたゆういち


 木下雄一? また、学校の生徒だ。不良にはちがいないが、さほど凶悪ではないし、せいぜい小悪党といったところ。同姓同名の別人でない証拠に、木下の写真が同封してある。

 こんなやつを殺す必要があるんだろうか?

 それともこいつも、赤井とかいうやつ率いる犯罪グループの一員なんだろうか?

 わからなかった、あたしにとって「お嬢様」の指令は絶対であり、逆らうことはできない。

 ライターを取り出すと、指令書と封筒を灰皿の上に乗せ、火をつけた。

 またたく間に灰になっていく。

 燃え尽きると、灰をくずし、窓から撒いた。風に乗って飛んでいく。

 それを見とどけると、ふと思った。

 今の指令書はほんとうに実在したんだろうか? ひょっとしてアリス同様、幻覚なのでは?

 あたしは首をふった。

 馬鹿馬鹿しい。たった今、手に取ったばかりじゃないか。しかも火をつけ、灰をくずした。あれが幻覚?

 ありえない。さわることのできないアリスとはちがう。

 そもそも指令書が幻覚ならば、「お嬢様」すら幻になってしまう。そんなことは考えられない。

 もしそんなことを認めてしまえば、アイデンティティすら崩壊してしまう。

 あたしはわけのわからない幻覚に命令されて人を殺す、頭のおかしい殺人鬼なんかじゃない。

 ぜったいにちがうと、あたしは何度も独りごちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る