K3
俺は白銀を引き連れ、マリアの自宅前まで来ていた。二階建てで築五年ほどのはずだ。あの事件の賠償金で建てたのだろうから。
「主任。ここで、あの事件があったんですか?」
「引っ越してきたんだよ。おめえなら家族が惨殺された家にいつまでも住むか? さいわいあの事件のおかげで、金は入ってきたらしいからな」
「住むわけないじゃないですか! 私だったら、もらった金でもっといい家買いますよ。もちろん、セキュリティも万全のところで」
まあ、それが普通の感覚だ。
俺は想像してみた。父親と妹が血まみれになって死んだ家に、ちょっと精神の病んだ母親とふたりで暮らす。一ヶ月もすれば、自分自身があっち側の住人になるのは目に見えている。そうでなくても、事件のあった家はちょっと古い、幽霊でも出そうな雰囲気の家だったのだから。
それに比べればここは真っ白な壁、開放的な庭と、モダンで明るい感じの家だ。事件を忘れようと極力そういう家にしたんだろう。マリアもそういう意味では普通だ。
……もっともそういう俺自身は、いまだにあの家に住み続けているがな。
それを考えすぎると、また幻覚に襲われそうだったので、無理に頭から追いだし、目の前の現実に目を戻す。
俺は殺人現場になった家には入ったが、ここには玄関までしか入ってことがない。悪ガキ犯罪者どもが殺された事件の際、マリアのアリバイを聞きにきたときだ。アリバイが立証され、家宅捜査令状も取れず、中に入る理由がなかった。
もちろん、きょうだって令状なんていうものはないが、なんとか理由をつけて押し入りたかった。許可さえもらえば問題ない。俺はどうやって、あの母親をいいくるめようかと頭をひねる。この場合、母親の精神が病んでいることは吉と出るのかそうでないのか、よくわからなかった。
確か、彼女の症状は鬱病と統合失調症。統合失調症とは要は幻覚や妄想に囚われたりするやつだ。
もっともこの症状に関しては、人のことをとやかくいえない。俺自身にもその病名が当てはまるのかどうかは知らないが、まちがいなく幻覚はときどき見る。妄想には取り憑かれていないはずだが。
「どうかしたんですか? 主任」
「いや、なんでもない」
俺は玄関ドアまで行くと、呼び鈴を押した。
しばらくすると、「は~い」という明るい返事とともにドアは開いたが、そこには若い女が立っていた。
ショートカットでジーンズにシャツと活動的な身なり。眼鏡を掛けてるせいか、みょうに愛嬌もある。明るそうでけっこう若い男には人気の出そうな女だ。年は二十二、三といったところだろう。
「なにか?」
愛らしい笑顔を向ける。
「警視庁捜査一課のものですが」
身分証を見せつつ、そういった。彼女は興味津々といった顔で、それを見る。
「へえ。つまり、東京一帯の殺人事件を担当する刑事さんね?」
「あなたは?」
「ああ、あたしはここで奥様のお世話をしている星野というものです」
予期しない相手がいたわけだが、考えてみればとうぜんかもしれない。マリアの母親の精神がどの程度病んでいるのかはよく知らないが、入院していない以上、たいしたことはないと思っていた。しかし、昼間、マリアが外に出るのにひとりっきりにするには心もとないのだろう。
「看護師かなにかかな? それとも介護の専門?」
「看護師のほうです。もっともこんな格好してますが、病院じゃないんで」
しゃきしゃきした口調でいう。
「ひょっとして住み込み?」
「はい。もっとも土日は自宅に戻りますけど」
事件があったのは昨夜。平日だ。つまり彼女はいた。
なにか、引っかかった。俺はマリアが家には精神を病んだ母親しかいないことをいいことに、夜中に家を抜けだしていたものと思っていた。しかし、こんなしっかりしてそうな娘がいれば、やりにくくないか?
「じゃあ、昨夜もここに泊まった?」
「はい」
星野は無邪気に答える。
「ちょっと変なことを聞くようだけど、マリアさんはきのうの夜、家にいました?」
「いましたけど、なにか?」
「いや、聴き方が悪かったな。こっそり夜中に家を抜けだしたりしませんでした?」
「はあ?」
いったいこの刑事はなにをいいだすんだろうといった顔をした。
「そんなことはないと思いますよ。あたしの部屋はすぐそこですし」
彼女が指さしたのは、玄関の一番近くにある部屋だった。
「一時くらいまでは起きてましたから、もし、マリアさんがそれ以前に家を出たら気づいたと思います」
「マリアさんの部屋はどこ?」
「二階です。二階はマリアさんだけです」
「奥さんは?」
「あたしの隣。あそこです」
どうやら作りとしては、一番手前が彼女の部屋で、つぎが母親の部屋、トイレとバスルームを挟んで二階に上がる階段。廊下を挟んで反対側はリビングとキッチンのようだ。
「マリアさんになにかあったんですか?」
星野はちょっと心配そうな顔になった。
ほんとうのことをいっても警戒されるだけだ。口から出任せをいう。
「いや、ある人物が、きのうの夜、ある場所でマリアさんに会ってるかどうかを知りたいんですよ」
「あら、その方のアリバイ調査ですか? マリアさんに直接聞けばよろしいのに」
「いや、学校に押しかけるのも迷惑でしょうしね。それより、家の人に聞いたほうが、マリアさんが家にいたかどうか、客観的にわかるし」
「そうですか。……でも、あたしの知る限り、家にいたと思いますけど」
「できれば、奥さんにも話を聞きたいんだけどな」
「ちょっと待ってください。聞いてきます」
星野は背を向けると、ぱたぱたと母親の部屋に走っていった。
中に入って、一分もすると戻ってくる。
「お会いになるそうです。どうぞ中にお入り下さい」
あっさり入れてもらえるとは思っていなかった。入れてくれるというのだ、遠慮することはない。
「じゃあ、失礼します」
俺は靴を脱ぐと、上がった。白銀も遠慮がちに後に続く。
「ちょ、ちょっと待ってください。その……たしか、奥様は心の病気とか。だいじょうぶなんですか?」
白銀が余計な口をはさむ。
「だいじょうぶです。鬱のほうはほとんど心配いりませんし、統合失調症のほうももともと軽症で、最近はお薬のせいでだいぶいいみたいです。最近じゃ、変なこともめったに口走りません」
彼女はにっこりと笑った。
「でも……」
白銀はちらっと俺を盗み見る。まるで俺に合わせたら最後、病状が悪化するに決まってと言わんばかりに。
俺としては、年老いた病人を追いつめる気などさらさらない。標的はあくまでもマリアなのだ。まあ、不良学生にも優しくはなかったが、かといって誰にでも牙をむく、野獣だと部下に思われるのは心外だ。
白銀をにらみつけると、ぷいとそっぽを向いた。相変わらず生意気なやつだ。
「奥様、じゃあ、刑事さんを入れますね」
彼女がノックし、ドア越しにそういうと、まず自分が中に入り、俺たちを手招きした。
普段、看護師が整理整頓しているせいか、中は小綺麗にまとまっていた。全体的に白っぽい壁や天井はなんとなく病院を連想させたが、大型のテレビがあったり、文庫本や雑誌が並ぶ本棚や、クローゼットがあるさまは明らかに入院病棟とはちがう。ただ、真っ白なシーツで覆われた大きめのベッドは病院ぽかった。
マリアの母親、……たしか名前は冬美といったはずだが、彼女はベッドに寝ているわけではなく、そばで車いすに腰かけていた。パジャマ姿で、脚はやせ衰えている。まだ六十歳にまでなっていないはずだが、短めの髪の毛は真っ白で顔には皺も多い。実年齢よりも老けて見える。ただしその顔つきは意外におだやかで、すくなくとも狂気は感じられなかった。
以前、医者に聞いた話では、冬美は精神を病んでいるとはいっても、暴力的になるとか、自傷癖があるとか、そういうことはないらしい。それに今看護師がいったのを信じるとすれば、症状はかなり安定しているようだ。
それにしても、かつては自分が精神科医だったそうだが、それが今は患者になっているというのは皮肉だ。
「どうも。警視庁からきました」
俺は頭を下げ、名刺を渡した。
「どうも。黒井冬美です」
冬美はにっこりと笑う。邪気が感じられない。鬱気味とは聞いていたが、そんな感じもしない。あの悪夢もそろそろ忘れ、全快に向かっているのかもしれない。
「ひょっとして、脚がお悪いんですか?」
「ええ、まあ、たいしたことはないの」
俺はちらっと星野を見る。
「数ヶ月前に階段から落ちて骨折したんです。お年ですからなかなか治らなくて」
「まあ、ひどいわねえ」
冬美はころころ笑う。みょうにテンションが高い。ひょっとして抗鬱剤の飲み過ぎか?
「上に行くことあるんですか?」
「たまにマリアに会いにね」
「この部屋に呼べばいいのに」
「来たがらないのよ、あの子。ねえ、ナオミちゃん」
看護師のフルネームは星野ナオミというらしい。
「だから、押しかけるの。もっとも、この脚のせいで今は無理だけどね」
「ひょっとして、あまり顔をあわせない?」
「まあ、食事のときくらいね。マリアはわたしを見たくないのよ。どうしてかね」
なんとなくわかる気もする。マリアは冬美を見ると、事件を思い出すのではないか? 今はそうでもないのかもしれないが、おそらく事件直後、精神を病みはじめたころは、事件のことを語ったのだろう。それこそ狂気に満ちた顔で。
逃げ出したかったにちがいない。ほんとうは自宅介護ではなく、病院に閉じこめたかったにちがいない。おそらく母親が徹底的に拒んだのだ。
「それでなにをお聞きになりたいの?」
俺は考えた。
ここであまり冬美を怒らせたり、過去を思い出させて取り乱されたりするのは得策ではない。ナオミから出入り禁止をくらいそうだし、そもそも病状を悪化させたりしては面倒だ。そんなことをしても得なことはなにひとつない。
それより、このふたりにはなにかととりいっておいたほうがいい。標的はマリアただひとりなのだ。
だからさっきの作り話で押し通すことにする。
「じつはある事件の容疑者が、昨夜、マリアさんと会っていると証言してましてね。マリアさんはそんなことはないといってるんですが、その男は、そんなはずはない。夜中に家を抜けだしてるはずだ。嘘だと思うなら家の人間に聞いてみろというんですよ。それで、念のためにね」
「あら、マリアはきのうはずっと家にいましたよ」
「でも、二階に上がったあと、会っていないでしょう? こっそり抜けだすことも可能じゃないですか?」
「あら、それでも階段を下りてくれば気配でわかるわよ。もっとも十二時には寝たから、それ以降はどうか知らないけど」
犯行推定時刻はもっと遅い。明け方近くだ。
たしかに廊下や階段を歩けば、音もする。このふたりに気づかれずに外に出るのは意外にむずかしいかもしれない。
しかし、二階の部屋から直接外に出ればどうか。バルコニーから簡単な縄ばしごひとつでできる。冬美は、かつてはたまに二階に押しかけたようだが、今は車いすだ。階段は上れない。ナオミはどうか?
「そうですか。ところで、看護師さんは、夜、マリアさんに会いに二階にいくことはあります?」
「基本的にはありません。もし、奥様になにかあればべつですが」
ここ最近は病状は安定しているようだ。ナオミが二階に上がる危険はほとんどないだろう。
「刑事さん。ずいぶんマリアが外に抜けだしたことにしたいようね。ほんとうはマリアになにがあったの?」
冬美の顔つきがわずかに変わった。
「ほんとうはマリアがなにかをしたか、疑ってるんでしょう? いったい、あの子はなにをしたの?」
「い、いや……」
「誰かを殺したの?」
その目には恐怖が浮かんでいる。自分の娘が誰かを殺していることを、確信しているようにも感じられた。
「誰を……、誰を殺したの?」
「奥様。奥様。しっかりしてください」
ナオミが駆けよった。
「だってあの子自分の部屋で、ときどき夜中に誰かと話してるのよ。誰かを殺すとかどうとか。聞こえたのよ。だから、上に行ったのよ、足を滑らせて落ちたけど」
「奥様。薬を。薬を飲んでください」
彼女が薬と水を渡す。
「もう帰ってください。きょうはもうだめです」
ナオミの叫びは、俺に向けられたものだった。
「いや、しかし、今の話は……」
「幻聴です。そんなことあるわけないじゃないですかっ! 夜中に誰かが家に忍びこむなんてありえません。帰ってください」
この様子ではこれ以上話は聞けそうにないし、あまりねばっても次から上げてもらえなくなる。
「帰るぞ」
白銀にそういうと、俺は玄関に向かった。
「やっぱり主任と合わせるべきじゃなかったですよ」
白銀がやれやれとばかりに首を振る。俺のせいで病気を悪化させたと言わんばかりだ。
だがそんなことより、冬美の言葉が気になる。幻聴。ほんとにそうなのか?
むしろ、ほんとうに頭がおかしいのは、冬美ではなく、マリアのほうなのでは? マリアが幻覚に話しかけているのを、冬美は聞いたのでは?
俺は想像する。
夜中、自分の部屋で幻覚に話しかけていると、冬美が現れた。驚いたマリアは、冬美を階段から突き落とす。
ありえそうなことだった。
同時にこうも考える。
マリアは、俺と同類。同類なんじゃないのか? つまり幻覚が見える人間。幻覚に追いつめられ、操られる人間。
俺は笑い出したくなった。
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