M3

 あたしは黄金崎とわかれたあと、教室に入った。時間がかなりすぎていたこともあって、ざわついていたが、静まる。

「なんだよ、先生、遅刻して。しかも顔真っ青だぜ」

 近くにいた男子生徒がいう。べつの男子が続けた。

「ひょっとして生理?」

「さいって~ね、あんた。デリカシーってもんがないの?」

 近くの女子生徒がなじった。

 普段ならここで、軽いジョークでもいってやり過ごすところだが、今のあたしにそんな余裕はなかった。

「授業をはじめます」

 あたしの受け持ちは数学。黒板に三次関数のグラフを書いていく。

「三次不等式を解くには、まずこの関数がX軸と交わる点を出す必要があります。それにはまず……」

 びしっ、びしっ!

 公式を板書していると、異音が耳に響いた。

 まさか?

 今までこんなことはなかった。この現象は夜、それも自室でひとりでいるときしか起こったことがなかったのに。

 しかし気のせいでもなんでもなく、教室内に黒い霧のようなものが立ちこめたかと思うと、それは渦を巻いて一カ所に集まった。

 その黒い闇の中に、アリスが浮かぶ。もちろん、いつものように血を滴らせている。

「な、なんで?」

 思わず声に出し、口元を抑える。

 アリスは幻覚である。その程度の自覚はある。だから、生徒たちには見えない。声も聞こえない。

 だから、アリスに向かって、声を出し、話しかけるわけにはいかないのだ。

『なんでじゃないでしょ? 今、マリアはすごいピンチなんだよ。授業なんてやってる場合じゃないよ』

 そ、そんなこといったって……。

『あの黄金崎っていう刑事、あいつは危険だよ。まともな刑事だなんて思わないほうがいい。だって、あいつおかしいから』

 おかしい? おかしいのはあんたでしょ? そして、あたしも……。

『いい? 刑事だからまともだなんて思っちゃだめだよ。マリアだって、教師のくせに人殺しじゃない。おまけにこうやってあたしと話してるし』

 つまり、あの男も精神を病んでる? そうは思えないけど……。

『マリアだって一見まともそうだよ。でもほんとうは自分の学校の生徒の家に忍びこんで、帰ってきた生徒を絞め殺す殺し屋。そうじゃない?』

 うるさい。うるさい。うるさい。誰のためにそんなことをやってると……。

『ふふ。べつにいいじゃない。あたしはマリアのやることを批判なんかしたことないから。だってあたしの望みと「お嬢様」の指令は一致するし』

 な、なにしに来たのよ、アリス。ここはあなたが来るべきところじゃない。消えて。今すぐ。

『つれないなあ。警告しに来たんじゃないの。あの刑事が危険だって』

 危険? あたしを疑っているのは知ってるけど。……そうじゃない? ま、まさか、あいつも人殺し?

『ううん。人は殺してないよ。でもマリアを捕まえるためならなんだってやるよ。刑事だから手順を守るとか、法律に縛られてるとか思っちゃだめだからね』

 意味がわからなかった。なぜ、そんなことをする。あたしがあの男になにをしたっていうの?

『ふふふ。うらやましいのよ。自由に悪党を殺しまくるマリアが。そして憎いのよ。頭のおかしい人殺しであるマリアが』

 なにをいってんだか、わからないって。

『あいつはある事件の被害者でもあるの。妻と子供を襲われたわけ。犯人は精神異常者。そいつ無罪になっちゃった。責任能力がないとみなされたのね。ほんとはそいつを殺したいの。殺したくてたまらないの。そいつだけじゃなくて、頭がおかしいせいで刑事責任を問われないやつらを皆殺しにしたいの。でも、できない。刑事だから。いろんなしがらみに縛られてる。それこそがんじがらめにね。だからこそマリアがうらやましいのよ。だって、そんなことに囚われずに殺しまくってる。自分だけの正義感のために』

 ちがう。……ちがう、ちがう、ちがう。

 そんなんじゃない。たしかに最初は復讐だった。だけど、この前なんてべつに殺したかったから殺したわけじゃない。べつに野放しになってる未成年犯罪者を自分の手で殺してやるなんていう正義感はない。指令のせいだ。あたしは「お嬢様」の指令には逆らえない。ぜったい。

 自由? もし、黄金崎がアリスのいう通りの気持ちで動いているとしたら、勘違いもはなはだしい。あたしはアリスの亡霊に縛られ、指令に沿って人を殺す機械だ。あたしこそ、いろいろなしがらみに縛られている。それこそ身動きひとつできないくらいに。

『同時にあいつは頭のおかしい殺人鬼であるマリアを憎悪してる』

 どうして、あいつにあたしがおかしいことがわかるのよ?

『勘? よくわからないけど、あいつにはそういうことをかぎ分ける能力があるんだよ。野生動物みたいに。……むしろ、犬かな? 猟犬。もっとも飼い主はいないけど。……ふふ。自分の意思で相手を刈る猟犬。いや、狂犬かな?』

 そいつに目をつけられた? 冗談じゃない。

 そもそもそれはほんとうのことなのか? どうしてアリスが知っている?

『知ってるよ。あたしはマリアの知らないことだって知ってる』

 そんなはず……ない。

 ありえない。だってアリスは幻覚だ。つまり妄想にすぎない。

『だから妄想なんかじゃないって。知ってるの』

 もう、わけがわからない。

『あいつを殺ったら?』

 いやよ。あたしは自分の意思で人殺しなんかしない。

『あ、人のせいにしてる。でもほんとはちがうでしょ? だって、自分の殺したいやつだけ、「お嬢様」は殺させてくれる。きのうだって、ほんとはマリアは殺したかったんでしょ? だってあいつはあたしを殺した連中と同じ匂いがする。そんなやつが身近にいるだけで、我慢できなかったんでしょ?』

 ち、ちがう。

『ちがわないよ。マリアはほんとは自分が殺したいやつだけ殺してる。でもそれをあたしや「お嬢様」のせいにしてるだけだよ』

 馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。……そんなことあるわけない。

 それじゃあ、あたしはただの殺人鬼じゃないか。

『ほんとは感じてるんでしょ? 昨夜、首を絞めたとき、濡れたでしょ? 相手がびくんびくんと痙攣したとき、イったでしょ? ちゃ~んと知ってるんだから』

 そんなわけない。なに適当なこといってんのよ。そんなことあるわけない。

『きゃはははは。嘘ばっかり。ぜんぶばればれだよぉお』

 うるさい。うるさい。うるさい。

『なによ。あたしは警告してあげてるのよ』

 だまれ。嘘つき。嘘つき。嘘つき。

『ひっど~い。あたしが今までマリアに一度でも嘘をついたことあった?』

 嘘をついたこと? ……そういえば、ないかも。

 もちろん、死んだ本物のアリスはべつだ。悪質なものはなくても、小さい嘘くらい何度もついただろう。

 だけど、この亡霊は、あたしの覚えてる限り、ほんとうのことしかいわない。

 ……いや、ちがう。だまされるな。幻覚のくせに、亡霊のふりをしていることが嘘だ。存在そのものが嘘だ。

 こいつは嘘つきだ。

『勘違いしないでマリア。あたしはべつに自分が亡霊だなんていったことは一度もないよ。マリアだってわかってる。わかってあたしと話してる。だから、あたしは嘘つきじゃない』

 そうか? そうかもしれない。

 だけどそんなことはどうでもよかった。これ以上アリスと話していると、ほんとうに気が狂いそうだ。

「わかった。黄金崎には充分注意する。警告ありがとう。だから、消えて。お願い。頼むから消えてっ!」

『しょうがないなあ。ちょっと態度が気に入らないけど、消えてあげるよ』

 アリスは血まみれの顔に酷薄な笑みを浮かべると、すうっと消えた。同時にまわりを覆っていた闇も消え失せる。

 あたしの視界に、ようやく生徒たちの姿が映った。

 みな、なにか恐ろしいもので見たかのように、目を見ひらき、凍りついている。

 彼らにもアリスが見えた?

 いや、それはありえない。そうか。あたしだ。あたしの異様さに脅えているのだ。

「ひょっとして、……あたし、独り言いってた?」

 口に出したつもりはないが、夢中でそんなこと忘れていたのかも。

 手前の女生徒が恐る恐るといった様子で口を開く。

「あの、……ちがうとか、嘘つきとか。だまれとか、……なんか、そんなこといってましたけど。あとよく聞こえなかったけど、ぶつぶつとなにか」

 少なからずショックだった。

 幸い、致命的な失言はしなかったとしても、おそらく真っ青な顔で、過激な独り言をいっているのを聞かれた。

「ご、ごめん。先生ちょっと疲れてるみたい。自習してて」

 それだけいうと、あたしは教室から出た。まさに逃げるように。

 そのとたん、生徒たちのざわめきが聞こえる。

「なに、いまの?」

「マリア先生、いっちゃったのかよ?」

「ショックぅ」

 落ちつけ。落ちつけ。

 あたしは、胸をばくばくさせつつ、小走りで教室から離れた。

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