第1章 殺し屋女教師

M1

 真っ暗な部屋の中、あたしはドアのすぐ脇の壁にもたれ、まるで家具のひとつかのように息をひそめていた。

 長い髪は後ろでまとめ、その上から黒いスイミングキャップを被っている。髪の毛をたとえ一本といえど落としたくないからだ。手には黒い皮手袋。これはもちろん指紋を残さないため。服装はスリムのジーンズに革ジャン。顔以外に肌の露出している部分はなかった。

 時刻は午前三時。そしてここはあたしが高校で教えている生徒の部屋だった。無人のその部屋をさっき小型の懐中電灯で確認した限り、壁にはいかがわしいヌードポスターや過激なロックバンドのポスターがべたべたと貼られ、床には脱ぎ散らかした服や弁当の空き箱、ビールやウイスキー、日本酒の空き瓶などが散乱していた。おかげですこし匂いを放っている。ひとり暮らしではないのだが、母親すら入れない悪党の巣なのだ。

 そんなところ、それも真夜中になぜ、教師であるあたしがいるのか?

 生活指導のため? もちろんそんなわけはない。そもそもすでに寝ている家族はあたしがここにいることを知らない。窓から侵入したからだ。

 玄関ドアが開く音がした。ぎしぎしと階段が軋む。二階に上がってきた足音はこっちに近づいてくる。足音からして連れはいない。

 もっともそれはすでにわかっていたことだ。なぜなら、つい先ほどまで仲間と飲み歩いていた標的にしてこの部屋の主をつけ回し、ひとりになって帰るのを確認したあと、先回りしてここに忍びこんだのだから。

 あたしはポケットから得物を取りだした。腰ベルトくらいの長さのの高強度ピアノ線。両端には親指が通るほどのリングがくっついている。左の親指をそのひとつに通した。

 ドアが開いた。夜中だが遠慮の欠片もなく、ばんと大きな音を立てて。

 長身でがっちりした体躯の男が一歩中に入る。

 だぼだぼの服。ずり下げたジーンズ。そり込みの入った坊主頭。暗くてよく見えないがそういう姿をしているはずだ。もっとも暗闇に慣れた目には、そのシルエットははっきりと写る。

 壁に付いた電気のスイッチを入れようと手を伸ばす。

 あたしはすかさずその手をつかむと、手前に引いた。

「な?」

 なにが起こったかわからなかったのだろう。標的は間抜けな声を出すと、あっけなく腹ばいで床に転んだ。

 そのさい、あたしがひゅんとピアノ線を首に巻き付けたことは気づかれなかったろう。それほど、一連の流れはスムーズだった。

 倒れた教え子の背中に乗る。右の親指を、巻き付けたピアノ線の先端リングに入れると、締めた。

「ぐおっ?」

 必死で暴れる。それこそ暴れ牛が乗り手を振り落とそうとでもするかのように。

 実際、首を絞めていなければ、暴れまくる巨体を押さえ込むことはできないだろう。

 だから手をゆるめない。膝で上から延髄のあたりを押さえつけながら、めきめきと渾身の力をふりしぼって締め続ける。

「うごっ、うごっ」

 喉を絞めつけ、叫び声すら上げさせない。

 相手も必死だ。両手を床に付け、立ちあがろうとするよりもまず、指を首とピアノ線の間に入れ、そのすき間を押し広げようとした。だが、もちろんそんなことは不可能なほど、食い込んでいる。結果として自分の喉を掻きむしった。

 その行為が無駄だと思い知ったらしく、つぎにはあたしの顔をつかもうと、あがく。

 無駄。そんなことはさせない。

 今度は体をねじって反転させようとする。それもさせない。

 しかしもがいたせいで一瞬体が横になる。

「マ、マリア?」

 窓から入り込む月明かりで、顔を見られたか。だが問題ない。もうすぐこいつは死ぬ。

 数秒の間、必死であたしの体をはね飛ばそうともがいたようだが、糸が切れたように動かなくなった。念のため、その後も頭の中で十を数えた。死んだふりしていないとも限らない。

 体が反応しなくなったのを確認し、あたしは巻き付けていたピアノ線を外した。

 部屋にあったティッシュで、かすかにピアノ線についた血をぬぐい取ると、凶器をポケットにしまう。ティッシュは丸めてそのへんに投げすてた。

 多少、物音と振動がしたはずだが、下の階から家族が上がってくる様子はない。酔っぱらって帰ってきたときは、いつもこんなものなのだろう。

 死ぬ間際、なにを思っただろう?

 いったい誰が自分を襲ったか? 心当たりはいろいろあるだろうが、まさか待ち伏せて殺そうと思うやつがいるとは思ってもいなかったはずだ。ましてや、それが自分の学校の教師だなんて考えるはずもない。だがそれこそが最後に見た相手の顔なのだ。

 もちろんあたしがなんのためにそんなことをしたのか、まったくわからないで死んだろう。そのことに対し、同情などは一切しない。

 あたしはポケットからロザリオを取りだした。ただし、鎖を付け替え、上下を逆にしたもの。さらには黒いスプレーで着色している。

 つまり、黒い逆十字だ。

 それをぽいと死体の背中に放った。

 さらにはスマホを取り出すと、その姿を撮影する。きちんと撮れていることを確認すると、ようやくベランダに向かった。

 外壁沿いに下に向かう雨どいに手と足をかけると、するすると身軽に下りていく。念のため、庭からあたりの住宅の様子をうかがうが、電気のついている家はなかった。

 あたしは塀を乗りこえ、小走りに現場を離れた。誰もあとをつけていないことを確認すると、スイミングキャップを外す。

 バイクを止めてある路地裏にはいると、今撮った写真を送信した。

 送り先は「お嬢様」。差出人は「黒いマリア」。

 それが終わると、カメラのデジタルデータを消去する。

 そのままバイクに乗ると、殺しの現場をあとにした。


   *


 あたしは母親を起こさないようにこっそりと自宅の玄関をくぐると、足音を立てないようにして自分の部屋に入った。

 服を脱ぎすて、Tシャツとショーツだけになると、ベッドで大の字になる。くたくただった。

 そのまま泥のように眠りたいところだったが、異変が起こる。

 びしっ、びしっ!

 なにかがひび割れ砕けるような音が室内に響いた。

 電気を点けているのに、室内に闇が浸食してくる。全体に真っ暗になるわけではなく、墨汁のような色をした霧が渦を巻きながら集まっていくような感じだ。

 またか。

 正直うんざりした。

 頭上にできた闇の空間の中に、ひとりの少女が浮かぶ。

 白いワンピースを着、ちょっとカールの掛かった肩までの髪、まだ十三歳のあどけない顔。そのワンピースはずたずたに切り裂かれ、あちこちが真っ赤に染まっている。それどころか手足から血がぽたぽたとあたしの体にしたたり落ちてくる。人形のように端正な顔は青白く、そのくせ愛らしい瞳からは血の涙を流していた。

『マリア、マリア』

 その血まみれの人形のような少女、……あたしの死んだ妹は語りかける。

「アリス」

 あたしは頭上の亡霊に呼びかけた。

『殺ったの? あいつを殺ったの?』

「殺ったわ」

『どうだった? 気持ちよかった?』

「べつに……。ただの作業よ」

『嘘。ほんとうは気持ちよかったくせに。あれを喉に食い込ませたんでしょう? ぎゅううっと。あいつは暴れたんでしょう? どたばたどたばた。気持ちよくないわけがないよ。どうして嘘をつくの、マリア?』

 アリスは唇の端をきゅううっと上げる。

「ちがう。ちがう。ちがう。もう、あんたを襲ったやつらはみんな死んだ。きょうのやつは直接関係ない。やったのは『お嬢様』の命令だからよ」

『だって、悪党なんだよ。ただ十代だからってだけの理由で、捕まったとしてもたいした罪にならない悪党。あいつらといっしょ。絶対に許せない。マリアは生き残ったんだから、あたしにかわって殺す義務があるの』

 うんざりした。

 たしかにあたしの家族を襲ったやつらを殺したときは、歓喜に震えた。

 そう。あたしは過去、悲惨な事件に巻きこまれた。

 猪股光一いのまたこういち羽田剛はねだつよし、ルーシー・ミラー。地元の生徒と外国人学生の極悪三人組。

 いずれも未成年のくせに、どうしようもないクズで、ロリコンで女をいたぶることしか考えていない畜生。ルーシーにいたってはバイセクシャルのサディスト。そのくせIQ150にして五カ国語をあやつる才女でもある。

 やつらがあたしの家に押しかけてやったこと。

 まだ十三歳だった妹のアリスを強姦の末、殺害。

 父は惨殺され。母を強姦。そのせいで母は精神に異常を来した。

 だがあいつらはたいした罪には問われなかった。彼らは死刑にも無期懲役にもならなかったのだ。なんだかんだいって、まだ十五歳になったばかりということが厳罰のネックになった。また殺人が計画的でなく、いきあたりばったりというより稚拙とみなされた。帰ってきた父に強姦現場を見られ、パニックになったあげくの発作的殺人と思われたことも大きいらしい。しかもそのうち主犯格はルーシー・ミラーで、捕まったのは手下同然の男ふたりだけだ。けっきょく、見せかけだけの反省もあって、四年に満たない懲役ですんでしまったのだ。

 そんな惨劇があったのに、どうしてあたしは生きているのか? あたしはたまたま友達の家に行っていて、いなかったのだ。運がよかったとしかいいようがない。

 もっとも、あのとき殺されていたほうがましだったような気もする。

 それ以後のあたしの人生は地獄だ。

 大企業の社員だった父が死に、大学病院で精神科医として働いていた母が精神を病み、仕事を続けるのが無理になったが、金には困らなかった。預金だけでも相当あったし、父親の生命保険が入った。さらに加害者のひとり、ルーシーの家が大金持ちで、膨大な賠償金も入った。

 だが、母親だけでなく、あたし自身も精神を病んだ。

 死んだアリスの幻覚に取り憑かれたのだ。

 アリスが夜な夜な現れては、あたしに復讐を依頼する。血まみれの恰好のままで。

 だけど、あたしには人殺しなんかできない。……できないはずだった。

 最初の殺しはあくまでも弾みだった。復讐でも、計画的でもない。だから途方に暮れてしまった。

 そんなあたしの前に現れたのが「お嬢様」だった。

 その正体は誰も知らない。ただ、彼女はあたしがなすべきことを知っていた。

 あたしの最初の殺しを隠蔽し、その秘密を守ると約束するだけでなく、殺しの技をたたき込み、どうすればいいのかを教えた。その代償として、「お嬢様」の殺し屋になることを誓わされ。

 まるでマンガだ。冗談としか思えない。あたしもときどき「お嬢様」とはアリスと同様に、あたしが作り出した幻影ではないかと疑った。

 だがいるのだ。嘘のようだが現実なのだから仕方がない。

 その証拠に、また指令書が来た。黒い逆さ十字とともに。

 最初のほうの殺しは、「お嬢様」の指令と、自分の復讐が一致したから問題ない。だが、「お嬢様」は未成年凶悪犯罪者全般をターゲットとして指定した。

「お嬢様」が今とくに狙っているのは、自分がどうしようもない悪事をはたらくだけでなく、十代の仲間を犯罪に駆り立てている悪魔のようなやつらしい。なんでも父親が有名な弁護士で、なにをやろうとことごとく無罪に仕立て上げるらしい。

 名前を赤井秀郎あかいひでろうという。

 きょう殺したのはその手下だ。

 そのことはアリスが教えてくれた。なぜかアリスはときどき、「お嬢様」の意図を教えてくれる。信じたくないけど、アリスのいうことはたいてい当たるのだ。

『殺すんでしょう? 赤井秀郎を』

 アリスがほほ笑んだ。

 ほんとはそんなやつどうでもよかった。あの三人を殺した時点で、復讐は終わったつもりだった。

 だが、アリスは許さないらしい。そして「お嬢様」は指令書を送り続けるだろう。

『殺して、殺して、殺して、殺して……』

「黙って。指令書がきたら、……やるから」

 そうはいったが、指令書はきっとくる。来るに決まっている。なぜか、「お嬢様」はアリスの声が聞こえるかのように、その希望に添って指令書を渡すのだ。

『そうだね。どうせ、指令書は来る。必ずね』

「だったら、もういいでしょう? 消えて。きょうは消えて」

『もう。どうしてマリアはそんなに冷たいの?』

 もう自由にして。そういいたい。だけどいえない。

 きっと心の中のどこかに、自分だけが助かった負い目があるのだ。

「もう、許して。きょうは……つかれたわ。眠りたい」

『しょうがないなあ。じゃあ、きょうはもう消えてあげる。だけど、忘れないでよね。赤井秀郎を』

 赤井秀郎。知るかそんなやつ。すくなくとも指令書が来るまでは関係ない。

 もっともそんな素振りは微塵も見せなかった。

『じゃあね。マリア、お休み』

 アリスは消えた。それこそ煙のように。

 上からしたたり落ち、あたしの体とベッドを汚した真っ赤な血も同時に消え失せている。

 幻覚だったのだからあたりまえだ。

 つかの間の安息が訪れ、あたしは眠りに落ちた。

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