第三集 二人の陛下

 その日、皇帝・趙匡胤ちょうきょういん房州ぼうしゅうを訪れていた。その城市まちにも小さな宮殿がある。

 その主は、今年十一歳になる小柄な少年だ。細身の体、色白の肌、艶やかで長い黒髪、そして大きな瞳を持った、お世辞抜きに絶世の美少年と言える。


 彼の名は柴宗訓さいそうくん。趙匡胤を初代とする宋王朝の前の王朝、すなわち後周こうしゅうの最後の皇帝である。


 かつての世界帝国であったとう王朝が滅びて以来、後世に五代十国時代と呼ばれる分裂時代へと突入した。約半世紀の間に中央政権がおよそ五回も国号を変えるほど目まぐるしい政変が起こり、その間に辺境の有力者たちが独立国をおよそ十国ほど建てて割拠した事からそう呼ばれる。

 そんな時代の中央政権、つまり五代王朝の最後を飾ったのが後周であり、天下統一を目指した英雄・柴栄さいえいが率いた国である。

 その今は亡き柴栄こそが、柴宗訓の父であり、趙匡胤が心酔した主君であったわけだ。


 柴栄は天下統一を成さぬまま、三十九歳という若さで世を去り、皇太子であった柴宗訓は当時まだ七歳。周囲に敵国がひしめいている中で、あまりにも頼りなかった。

 そんな中で家臣たちが目を付けたのが、亡き柴栄への忠義に厚く、また軍部を統率できる有能な将軍であった趙匡胤だったわけである。


 いつもの如く酒に酔い潰れていた隙に黄袍おうほうを着せられた趙匡胤は、二日酔いの頭で目が覚めた所で「皇帝になってくれなければ我ら全員ここで自決します!」と配下に迫られ、仕方なしに七歳の幼子から禅譲ぜんじょう(帝位を譲る事)を受ける事になったわけである。


 過去の歴史の中で、退位した皇帝はほとんど非業の死を遂げる中、柴宗訓は新たに建てられた宋王朝において鄭王ていおうに封じられ、それまでと変わらぬ暮らしを送る事が出来ていた。

 彼自身、まだ十一歳という少年でありながらも聡明で慎み深い。あのまま自分が帝位にあれば、父・柴栄を恨む敵国によって滅ぼされていたであろうと思っており、趙匡胤に国を託せた事は良い事であったと信じている。

 そんな恩人を、陛下と仰ぐ事に何も思う所などない。


 一方で趙匡胤は、亡き柴栄への忠義は今でも強く、その忘れ形見である柴宗訓もまた、彼にとって今でも陛下である。

 そして柴宗訓の領地である房州の長に、自身の恩師である辛文悦しんぶんえつを任命し、先帝を害するつもりはないという意思を天下に示してもいた。



 九百年以上も昔、前漢ぜんかん簒奪さんだつした王莽おうもうが作り出した「禅譲」という様式は、皇帝が有力な家臣に対して「天下国家の為に、そなたが代わって皇帝になってくれ」と懇願し、それを受けた家臣は「非才の自分には陛下の代わりなど務まりませぬ」と丁重に辞退する。そのやりとりを三回繰り返した後「そこまで仰られるならば……」と、渋々ながら帝位を譲り受けるという物である。

 中華の歴史において、実質的に簒奪に近い状態でしか行われない以上、その大部分は鼻で笑うような茶番劇である。


 だがこの二人、すなわち柴宗訓と趙匡胤の二人の間で行われたこの禅譲の儀式に限っては、ほとんど両者の本心であり、それは長い中国史の中でも唯一の事とさえ言えた。

 そんな相思相愛とも呼べる不思議な関係性の二人は、顔を合わせれば互いに拱手をして陛下と呼び合うやりとりを毎度のように繰り返していた。


「暮らしに不自由はありませぬか、?」

「いいえ、のお陰で何不自由なく」


 恰幅の良い巨漢の中年と小柄な美少年が、笑顔を浮かべながら互いに頭を下げて譲り合っている光景は、ともすれば滑稽ですらある。




 趙匡胤が今日ここに来たのは、房州の警備状況の視察が主であった。前王朝の柴栄による統一事業がその死によって中断していたが、宋の建国から四年目のこの年になって再び統一に向けて動き始めていた。

 手始めに最も国力の弱い荊南けいなんを戦わずして降伏させたのがつい先日の事である。


 だがそれによって宋の動きを察知した後蜀こうしょくが、前王朝の頃から中央政権に敵対し続けている北漢ほくかんと手を結んだという情報が趙匡胤の耳に入っていた。

 特に北漢は、前王朝・後周によって滅ぼされた後漢こうかんの残党とも言える国であり、当初皇太子であった柴宗訓の兄は北漢の手の者によって殺害されていた経緯があった。

 例え退位したといえど、その命が狙われぬという保証はどこにもなかったのである。


 ここ房州は、その昔に荊州けいしゅうと呼ばれた地の北部にあたる。つまり先日降伏した荊南に非常に近い場所にあり、それゆえに柴宗訓の身を案じた趙匡胤は、警備状況の視察を兼ねて様子を見に来たわけである。


 視察をつつがなく終えた趙匡胤であったが、漠然とした不安は拭えずにいた。






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