第二集 石頭ゆえに

 翌朝の宮城では、皇帝陛下の姿が見えないという事で軽く騒ぎになっていた。五十歳を過ぎている宰相の范質はんしつは、「またか」とばかりにその白髪頭を抱えていた。


 城門が開かれて間もなく、当の皇帝である趙匡胤ちょうきょういんが、さも散歩でもしてきたかのように黄袍おうほうに着替え終えて城門の外から姿を現す。しかし夜遊びをして朝帰りした事もお見通しで待っていた范質が不機嫌な表情で説教を始める。

 趙匡胤は悪びれる事もなく、いつもの小言に苦笑した。


 范質は宋王朝が建国されて間もなく『宋刑統そうけいとう』という宋の法律を定めた人物であり、公爵として魯国ろこくに封じられている事から魯公ろこうとも呼ばれている。

 清廉潔白な人物であるが、法律のほとんどを制定した人物である事からも規則や儀礼には厳しく、趙匡胤からすれば融通の利かない爺様といった印象である。

 また范質は前王朝の頃からの宰相であり、趙匡胤が禁軍長官であった頃からの付き合いで、そうした意味でも頭が上がらないのである。


「今はもうと呼ばれる立場であると、少しは考えてくだされ」

「そうは言うがな魯公、庶民の暮らしを実際の目で見るってぇのも大事な事だぞ」

「そういう事でしたら、正式な視察の手続きを経てですね」

「それじゃあ民の本音ってモンが見えねぇだろうよ。ほら、東漢とうかん光武帝こうぶていだって、よく夜遊びして閉め出されたって言うじゃねぇか。問題ねぇって」

「問題だったから史書に記されているのです」


 趙匡胤がどう反論しようと、表情ひとつ変える事なく范質の説教が続き、そんな二人は歩きながら城門をくぐる。


 ゴッ!!――――。


 突然鳴り響いた音に、范質が何事かと振り向くと、今まで全く変わらなかった彼の表情が青ざめる。

 地面に趙匡胤がうつ伏せに倒れており、その頭の横には人の頭ほどもある大きな煉瓦レンガが落ちていた。

 城門の補修をしていた職人が手を滑らせ、落ちてきた煉瓦が趙匡胤の頭部を直撃したのである。


 竹梯子から滑るように降りてきた職人たちも、倒れているのが黄袍を着た人物、すなわち皇帝であると分かると、事態の深刻さに愕然とした。

 周囲の職人が慌てて医者を呼べと叫ぶ中、恐らくは落としてしまった張本人である若い職人が、叩頭こうとう(土下座)をして謝罪の言葉を叫んだ。

 その様子に、范質が怒鳴りつける。


「謝って済む問題ではないわ! 事によっては一族郎党も連座して処罰する事になるぞ!」


 そんな范質の剣幕に、叩頭をしたまま涙を流して震えている若い職人。


「まぁ待て、物騒な事を言うもんじゃねぇぞ」


 そう言ったのは、まさに煉瓦の直撃を受けた趙匡胤であった。むくりと起き上がると笑みを浮かべて見せた。

 皇帝の意識がある事にひとまず安堵した范質であったが、咳払いをして続ける。


「しかし天子に危害を加えたとなれば処罰は免れませぬ」

「危害があったならそうだろうが、ほれ、怪我などしておらぬわ」


 そう言って冠を取った趙匡胤は、頭頂部をペシペシと叩いてみせた。流血どころか、傷もこぶもない。

 立ち上がって服のほこりを払った趙匡胤は、未だに叩頭をしたまま涙を流して震えている若い職人の背中を優しく叩いた。


「ほれ、顔を上げろ。俺が怪我をしていない以上、何も問題はない。そうだな魯公?」


 その言葉に溜息をつき、無言を以って応える范質。

 立ち上がった若い職人は未だに涙を流していたが、それは恐怖による涙から嬉し涙に代わっていた。何度も謝罪と感謝を述べる若い職人に、趙匡胤は安心させるように笑顔で送り出した。


「次からは気を付けろよ。俺でなかったら死んでたぞ」


 冗談めかしてそう言った趙匡胤は、太鼓腹を叩きながら呵々大笑するのであった。






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