皇帝デブゴン ~怒りの太祖拳~

水城洋臣

第一集 酒楼の夜酒

 北宋ほくそう建隆けんりゅう四年(西暦九六三年)、春。


 未だに天下は定まっておらず、後世に五代十国時代と呼ばれる戦乱が続いているが、都である開封かいほうの繁華街は民で賑わっており、夜になっても大路に立ち並ぶ店の灯りは消えずにいた。


 そんな開封の繁華街にある酒楼さかばで、例に漏れず酒に酔った男たちが騒いでいる。

 中でも一際目を引く巨漢がいた。歳は三十代も後半に差し掛かっているが、筋骨隆々の腕、見事な太鼓腹、蓄えた顎鬚あごひげは、実際の年齢よりも更に上に見せている。

 空になった酒瓶がいくつも並んでいる卓には彼ひとりが座り、一人酒を楽しんでいる酒豪と見えたが、周囲の卓の会話に聞き耳を立てながら微笑んでいる。


「今の国号ってなんだっけか?」

「確か宋、だったろ?」

とう朝が滅んでからこっち、何度国号が変わったっけ?」

「唐、りょう、唐……、しんかんしゅう……、んで今の宋だったか」

「間が抜けてるよ、晋の後にりょうがあったろ」

「あぁ、契丹きったん族の。三か月かそこらで帰っちまった奴な」

「この五十年かそこらで、そんだけ国号が変わったんだ。どうせまたすぐ変わっちまうだろ」


 一人酒の巨漢が思わず吹き出す。


「違ぇねぇ。そうかもな!」


 そんな巨漢の男の様子に、白髪交じりの老闆ろうばん(店主)が溜息交じりに小声で話しかけた。


「何言ってんだか。お前さんの国だろうが……」


 そう、この巨漢の男こそ、この宋王朝の初代皇帝である趙匡胤ちょうきょういんだ。現職の皇帝陛下なのである。

 元々は前王朝である周(後周こうしゅう)に仕えていた禁軍きんぐん(近衛)の長官だったのであるが、周囲に担がれる形で皇帝となったのが四年前の事である。


 とは言え元来は気さくな庶民派の軍人であり、皇帝となった後も、こうしてお忍びで宮城を抜け出しては一人酒を楽しんでいた。

 都の民衆は皇帝陛下の顔など知らない事もあって、黄袍おうほう(皇帝の着る衣服)さえ着ていなければ、まずバレる事もない。まさか皇帝陛下が独りで夜遊びしている等とは思わないからである。


 しかし若い軍人時代から定期的に通っている店である為、老闆や一部の常連客だけが彼の素性を知っていた。

 「陛下」などと呼ばず昔通りに付き合ってくれという趙匡胤自身の意向もあって、老闆もそれなりの対応をしているが、今度のような危うい発言をする度に肝を冷やしていたのである。

 趙匡胤はもう何本目かの酒瓶を空にすると、笑みを浮かべた赤ら顔で答える。


「盛者必衰って奴よ。人はいつか死ぬ。国もいつか滅びる。それが早いか遅いかってだけでな」


 老闆が再び溜息をつき、趙匡胤に対して何か言おうとした所で、店内に陶器の割れる音が響き渡る。どうやら卓を誰かが引き倒し、酒瓶や杯が床に散らばったらしい。


「テメェ、俺の女に手を出しやがったろ!」

「お前の女だぁ? あいつはそう思っちゃいねぇよ」


 いつの世でも見かける痴情のもつれ、女の取り合いから始まる若い男の喧嘩である。今にも殴り合いが始まろうとしていた所で、二人の若者の間に割って入った者がいた。

 趙匡胤その人である。


「まぁ待て、若いの。ここじゃ店の迷惑になる。喧嘩は表で。母ちゃんに教わらなかったのか?」


 微笑んだまま穏やかに諭した趙匡胤。彼の体格を目にして一瞬怯んだ二人の若者であったが、それでも熱は治まらない。


「おいオッサン、他人の話に首ツッコむんじゃねぇぞコラ!」

「邪魔すんならテメェから潰すぞ!」


 そうした若者の反応にも趙匡胤は笑顔を崩さず、黙って二人の肩に手を置いた。


「じゃあ、か……?」


 趙匡胤が静かに低く呟くと、一気に血の気が引いたかのように青い顔で黙り込んだ二人の若者は、同時に黙って首を振った。


「それじゃ勘定払って、さっさとウチ帰って寝ろ」


 趙匡胤がそう言って肩から手を離すと、二人の若者は痛みを耐えるように肩を押さえながら、老闆に手持ちの銅銭を渡すと逃げるように店から出て行った。

 そんな様子を満足げに眺める趙匡胤。


「喧嘩はしない、させない。これが俺の流儀よ」






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