第2話 雨上がりの空にコーヒーを添えて(作:小欅 サムエ)
梅雨入り前の五月下旬。初夏の日差しを浴びて、『喫茶・時間旅行』のレトロな緑と白のストライプ模様をしたオーニングは、
しかしながら店内の様子はというと、初夏の陽気とは全く逆で、晩秋を思わせる陰鬱いんうつさで満ち溢れていた。
いや、
マスターを除き、店内にいる人間はたった三名。昼すぎという、喫茶店としては書き入れ時とも言える時間帯で、この客数というのはあまりにも寂しい。これでは、たとえ
加えて、この三名のうち左奥のボックス席に陣取り、コソコソとトランプを楽しんでいる二名は、実のところ客ではない。
手前、ビール腹を揺らす壮年の男は、ここ
二人は、暇を見つけてはたびたび『喫茶・時間旅行』に訪れ、現在のように奥の座席で賭け事に興じていた。時折コーヒーなどを注文することはあるが、
しかし、マスターは二人を邪険に扱わず、馴染みの客として接している。金にはならずとも、地域住人との触れ合いを重視するマスターにとって、彼らの来店は貴重なものであった。
さて、その一方でカウンター席の若い女性はというと、彼女は正真正銘の客である。ただし、この店で最も単価の安いブレンドコーヒー一杯だけ注文し、以降は無言でスマートフォンを弄り続けるだけで、ロクに顔すらも上げようとしない。
彼女は恐らくレトロな喫茶店を見つけ、いわゆる『
コーヒーの香り、ムーディなジャズミュージック、マスターとの和やかな会話。これらを売りにする店であるから、レンズを通した写真ではどうしても魅力が伝わらないのである。
しばらくして、彼女は店を後にした。どうやら彼女にはここの良さが理解できなかったらしく、代金を支払う際も終始うつむき加減で、「時間をムダにした」と顔にありありと書いてある始末だ。
「ありがとうございました。お気を————」
カランコロン
マスターが最後に掛けた言葉さえもドアベルの音に掻き消されてしまい、店内には実に嫌な空気が流れる。
そんな中、沈黙を続けていた大道が、大きく伸びをしながら苦い顔でマスターに話しかけた。
「まったくよぉ、最近の若いのはダメだね。ずーっとスマホばっかで、人と関わろうとしねぇんだからさ。ウチの娘も、家だとあんな感じで全然話し相手にならねぇんだ」
突然声を掛けられたマスターだったが、驚く素振りは一切見せず、また先ほどの女性客の振る舞いを意に介することなく、朗らかな笑顔で答える。
「おや、そうなんですか? 確か娘さん……大学生でしたっけ。子どもから無視されるのって、なかなか辛いものがありますね」
「ホントだよ。昔はベッタリくっ付いてきて、うっとうしいくらいだったのによ……今じゃ、俺の方が娘のご機嫌取りだ。どこで育て方を間違ったのか……」
「はっはっは、大道さんよ。父親ってのは大概、娘から嫌われるもんだ。それはそうと」
大道の嘆きを軽く受け流し、意地悪そうな笑みを浮かべた藤波は持っていた手札をテーブルの上に提示した。
「ほらよ、ストレートフラッシュだ」
「な、なにぃっ!?」
急いで前へ向き直る大道だったが、並べられた絵札を目にし、がっくりと崩れ落ちた。藤波の言う通り、テーブル上にはスペードの九からキングまで、ものの見事に揃っていたのだ。
「ほ、ほとんどロイヤルストレートフラッシュじゃねぇか! テメェ、イカサマしやがったな!?」
「何とでも言いな。それに、たとえイカサマだったとしても、勝負の最中に目を離した方が悪いってもんさ」
「くっ……」
「さあて、これで儂の勝ちだな。約束通り、次の祭りでは奉納金を弾んでもらおうか」
「この
若い女性客が消えた途端、二人は水を得た魚の如き
「お二人とも。何をしてもいいとは言いましたが、もう少し静かにお願いします。そういうお約束でしたよね?」
表情は穏やかながらも、有無を言わさぬ口調で立ち塞がるマスターを前に、大道も藤波も顔を見合わせ、力なく笑い声を上げた。
「ああ、悪かったね。ま、もう勝ったし賭けは終わりにするよ。なあ大道さん?」
「結局勝ち逃げかよ! でもま、仕方ねぇか。悪いな、マスター」
「いえ、分かっていただければ良いんです。それに、どちらかというと今はアレが気になっていまして」
「アレ?」
そう言って、マスターはボックス席と反対側、入り口から見て右手奥にあるテレビの方を指さした。
古いブラウン管テレビの画面には、某民放局の下世話なワイドショーが映し出されている。
「北口の商業ビル……ほら、銅像の目の前にある大きなビルですよ。あそこで死人が出たという話を聞きましたか? どうやら、そのことが報じられているようでして。ちょっと気になっていたんですよ」
「ああ、そういえばそんな話を聞いたな。ええと確か、今日の午前だったか……藤波さん、何か聞いてるか?」
「いいや、特にないなぁ。
「はあー、また若者かよ。まったく、世も末だよなぁ」
「まあ、色々な事情もあるのでしょうけれどね……悲しいことです」
そのまま三人揃ってしばらくテレビを眺め続けたが、番組がCMに入ったところで、大道は大きな腹部を軽く摩りながらマスターに告げる。
「そういや、なんか小腹が減ったな。マスター、軽食作ってくれ」
「
「大丈夫かよ? その腹、少しは引っ込ませた方が良いだろうに」
「うるせぇよ。今日は、そうだな……たまごサンドにしてみようか。あと、ブレンドお代わり」
「儂もメロンソーダを。ああ、チェリーは抜きで」
「……畏まりました。では」
またもや単価の安い注文をされ、営業スマイルというより苦笑に近い笑顔を浮かべつつ、マスターはキッチンへと向かった。
しかし、マスターがたまごサンドの調理を始めようとした矢先、大道のスマートフォンからけたたましい着信音が鳴り響いた。
ピリリッ、ピリリッ
「お? ……んだよ、母ちゃんか」
妻には決して見せられない悪態をつきつつ、大道は不慣れな手つきで電話を取った。
「もしもし。なんだよ、トラブルか? ……レジが開かない? はぁーあ、分かった。すぐ帰るわ」
非常に短い通話を終えると、大道は溜息交じりに席を立ち、マスターと藤波に告げる。
「悪い、急用が入っちまった。マスター、さっきのキャンセルで」
「分かりました。しかし大変ですね、レジが開かないと売り上げの計算が出来ませんし」
「聞こえてたか。ったく、なんでこの時間まで気付かねぇんだか。それじゃ二人とも、またな」
そう愚痴を零しながら、大きな腹を揺らして出口まで進む。だがドアを開けた途端、大道は良く通る声で叫んだ。
「あ? おいおい、なんだよ! 雨降ってるじゃねぇか!」
「え?」
その声につられ、マスターと藤波は揃って窓の外へと視線を移した。
外は明るく、日差しもある。しかし、大道の言う通りパラパラと細かい雨が舞っていた。これはいわゆる『天気雨』と呼ばれるもので、こと、五月の天気が安定しない日においては頻繁にみられる現象である。
「なんだよ、ツイてねぇな……」
「傘、お貸ししましょうか?」
心配そうに声を掛けてきたマスターへ、大道は笑顔で返す。
「なに、この程度なら傘なんか要らねぇよ。それに、少し走りゃダイエットにもなるだろ。ハハッ」
そう言い残し、手を軽く頭の上に
その姿を窓越しに見つめ、マスターと藤波は小さく笑った。
「やっぱり、体は鍛えておかないとダメですね」
「まったくだ。あんなみっともない姿で……ん?」
上機嫌に大道の悪口を続けようとしたところで、藤波はドアが開いていることに気付く。焦っていたためか、大道はドアを閉め忘れていったようである。
「やれやれ、ドアも閉めてないじゃないか。どれだけ慌ててたんだか」
「ああ、しまった。急いで閉めないと」
風は強くないが、こうした細かい雨は室内に吹き込みやすい。焦ったマスターは急いでドアへと向かった。
しかしその矢先、開けっ放しのドアから一人の男が店内へと飛び込んできた。
「おっと!」
勢いよく入店した男に、マスターは驚いて一歩だけ
飛び込んできた男は細身で中性的な顔立ちだが、髪型はどちらかというと男らしさの漂う短髪だ。一方で今時の若者らしく、独特で奇抜な配色のコーディネートで、誰がどう見ても北口の商業施設を利用しに来た風体であった。
突然の雨に降られ、大道と同じように急いで走って来たのであろう男は、店内に入るや否や、両手を膝に置いて肩で息をしながらマスターに懇願する。
「はあ、はあ……あの、すみません。雨宿り、させてもらって、良いですか?」
「え、ええ。それは構いませんが……まずはお水でもどうぞ。いや、温かいコーヒーの方が良いかな?」
「ありがとうございます。でも俺、お金はあまり持ってなくて……水だけで大丈夫です」
「遠慮なさらず。ああ、濡れた上着はそちらに掛けられますので、ご自由にお使いください。五月とは言え、そんなに濡れてしまったら寒いでしょう。どうぞ、落ち着くまでゆっくりしてください」
「そ、そう……ですか。では、お言葉に甘えて」
マスターの心意気に恐縮しながら、男は雫の滴る暗い朱色のアウターを掛け、手近なカウンター席へと腰かけた。
彼がほっと一息つくが早いか、マスターは彼の前に冷たいおしぼりと、淹れたてのブレンドコーヒーを差し出す。
「どうぞ。これはサービスです」
「そんな、いいですよ! 雨宿りさせてもらえるだけでも有難いのに!」
「良いんですよ。手違いで注いでしまった分なので、むしろ飲んでいただけると助かります。ただ棄ててしまうのは勿体ないですから」
「そ、そうなんですか? で、では……」
そう言うと、男はおしぼりで軽く額を拭い、コーヒーカップを口元へ運ぶ。長いこと雨に打たれ、真っ青に染まった唇に漆黒のコーヒーが触れ、そして彼の喉の奥へと消えてゆく。
「……美味しい」
「それは良かった。当店自慢のブレンドですから、きっと心も体も温まるでしょう」
「心も、ですか……」
マスターの言葉を受け、男はカップの中で揺らめく黒い波に視線を落とす。そんな彼の姿をじっと見つめ、マスターは静かに問いかけた。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか?」
「はい?」
「あなた、何か悩んでいらっしゃるのではありませんか?」
「えっ」
突然の問いかけに、男は咄嗟に顔を上げてマスターを凝視する。だが、マスターの穏やかな表情を見た男は、強張らせた頬を緩めて答える。
「……分かりますか」
「ええ。それなりに長い間、この仕事をしてきましたのでね。もちろん無理に話せとは言いませんが、誰かに話して楽になることもありますのでね」
「……」
マスターの優しい言葉に、男は視線を落として押し黙る。しばらく店内のBGMとテレビの音声、微かな雨だれの音だけが響いた。
「それじゃあ、聞いてもらってもいいですか? すっごく下らない話なんですけど、それでもいいなら」
「他人の悩みに大小や優劣はありませんよ。こんな老いぼれで良ければ、ぜひお聞かせください」
「ありがとう、ございます。ええと、そうですね……」
男はマスターにぎこちなく微笑みかけ、軽く咳払いをして話を始める。
「俺、彼女がいたんです。ついさっきまで」
「ついさっきまで、ですか」
「はい。まあ、別れたんです。喧嘩したとか、そういう訳じゃないんですけど……別れよう、って急に言われて」
「それはまた、突然ですね……」
「ええ」
男は一層深く息を吐き、心に残った苦みを消し去るかのように、コーヒーを一気に煽った。
「中学三年の時、だったかな。同じクラスだった彼女に告られて。それから今日までの七年くらい、ですかね。ずっと続いてたんです」
「それはすごいですね。高校や大学も一緒だったのですか?」
「いえ、大学では遠恋でした。でも互いに……まあ彼女は分かりませんけど、少なくとも俺は浮気なんか一切しませんでした。大学卒業して、こっちで就職も決まったし、そのうち二人で暮らそうね、なんて言ってたんですけど……」
「そうでしたか……」
マスターは気まずそうに、拭いていたカップを置いて眉間に皺を寄せる。一方で、空になったカップの底を見つめながら、男は溜息交じりに語る。
「もともと俺、彼女のことは好きじゃなかったんです。派手なギャルでしたし、俺、一応これでも真面目組だったんで、住む世界が違うなって思ってて。告られた時も、本当は断るつもりだったんです」
「それが、いつの間にか追いかける立場になっていた、と」
「……断っても、何度も好きだって言われたんです。そうしたら、どうしても意識するじゃないですか。好きじゃない人でも、気になっちゃうじゃないですか。それで結局、根負けしたっていうか……彼女と付き合い始めましたんです。でも————」
そう言うと、男は固く拳を握りしめ、唇を噛んだ。
「でも、それからが大変でした。彼女の好きな俺であり続けようと、とにかく必死になっちゃって。彼女の趣味に合わせて、服とか髪型とか、全部変えたんです。見てくださいよ」
男は自嘲気味に笑い、先ほど掛けた上着を指さした。
「あんな色の上着、全然俺の趣味じゃない。この髪型だって、彼女が好きなアーティストにわざわざ似せたんです。喜んでもらえると思ったから。まあ結局、全部ムダだったんですけどね」
「無駄、ですか……」
「笑っちゃいますよね。一人の女のためだけに努力して、無様にフラれて。しかも最後には、『主体性がなくてつまらない』とか言われたんです。アイツのために努力したのに、ですよ? もう怒るとかじゃなく、笑うしかないですよ。何のために努力してきたんだろう、あの時間は何だったんだろうって思うと、おかしくて。ハハハ……」
「……」
すると乾いた笑いを上げる男に対し、マスターは真剣な眼差しで告げる。
「本当にそうでしょうか。私は決して、無駄ではないと思います」
怪訝な表情を向けた男に、マスターは話を続ける。
「持論で申し訳ありませんが……私は、無駄な努力なんて無いと思っています。もちろん、一つの結果だけを求めるための努力なら別ですけれど、基本的に努力は無駄にならないと思うんです。特に、長い人生の中で経験した努力については、ね」
「……綺麗事ですか? 俺、そういうの嫌いなんですけど」
「とんでもない。私も、綺麗事は大嫌いですから」
そう言って微笑んだマスターは、男に差し出したカップを指さして問いかける。
「こちらのブレンドコーヒー、あなたは美味しかったと仰いましたね?」
「え? ええ。俺、これでも結構コーヒー好きなんで、良し悪しくらいは分かるんです。でも、それが何か?」
「……実は私、味覚が無いんです」
「は?」
「えっ?」
目を丸くする男と同時に、ボックス席の藤波も驚愕の声を上げた。それもそのはず、藤波は日ごろからマスターのコーヒーや軽食を口にしており、そのどれもが文句のつけようのない出来栄えだった。それゆえマスターに味覚が無いという話は、とても信じがたいものなのである。
しかし、マスターは寸分足りとも表情を変えず、穏やかな微笑みのまま続ける。
「あれは十年ほど前でしたか。海外に行った際、ちょっとした事故で味覚を失いましてね。あの時は、それはそれは落ち込みましたね。何を食べても味が分からなくて……まあ、それは今も同じなのですが」
「そ、そんなはず無いでしょう! だったら、なんでこんなに美味しいコーヒーが淹れられるんですか?」
「そうですね……簡単に言えば、努力を重ねたのです。あなたと同じように」
「俺と、同じ?」
少しだけ
「私は当時、洋食店で料理人をしていたのですが、味覚を失ったことで信用はガタ落ちとなりました。まあ、当然ですよね。レシピ通りにしか作れない料理人なんて、コンビニ弁当を作る機械と変わらないのですから。まあ、最近のコンビニ弁当も非常に美味しくて、侮れませんがね」
「それは、確かにそうですが……」
「その日以来、私は努力を重ね続けました。視覚や嗅覚、聴覚を研ぎ澄ませて、絶対に料理の品質だけは落とさないように。しかし残念ながら、私の努力は実りませんでした」
「……」
「とうとう自分の限界を感じた私は、オーナーに辞表を提出しました。私の状況を知っていたので、オーナーはすぐに受け取ってくれたのですが、そこで彼は言ったのです。『せっかく努力したのだから、洋食以外に目を向けてはどうか』と」
空になったカップを静かに下げつつ、マスターは話を続ける。
「それからしばらく、私は考えました。味覚を失ってから死に物狂いで極めていたこの感覚は、一体何に活かせるのだろう。何を強みにして生きるべきなのだろうか、と。そこで私は、コーヒーと出会ったのです」
そう言って、マスターは背後にあるサイフォンを指さした。一目見ただけで、彼がどれほど大事にしていたかが理解できるくらいに、使い込まれているはずのサイフォンは新品同然の輝きを放っている。
「嗅覚、触覚、聴覚……すべてを最大限に研ぎ澄ませるコーヒー作りは、私にとって天職も同然でした。こう考えるに至ったのは、退職する際にオーナーが私にサイフォンをプレゼントしてくれたことがきっかけです。もしかすると、オーナーは私がこの答えに辿り着くだろうと予測していたのかも知れませんね」
「そしてこの場所に喫茶店を開いた、ということですか……」
「ええ。もちろん最初は困難の連続でしたけれど、今では『美味しい』と言っていただけるコーヒーを淹れられるようになりました。もしもあの時オーナーが言葉を掛けてくれなければ、こうして店を構えることもなく、すべて無駄な努力に終わっていたでしょう」
「……だから、ムダな努力はない、と?」
「ええ」
「はぁ……」
柔和に微笑みながら頷くマスターに対し、男は少し機嫌を損ねたように溜息を吐く。
「結局、綺麗事じゃないですか。喫茶店を開業できるくらい成功したのは、マスターを応援してくれる人がいたから、ですよね。そんなの何の参考にもならないですよ」
「おや、そうですか? まあ、言われてみれば確かに、喫茶店を始める際は色々な方にご助力いただきましたね。私ひとりでは、こうして店を構えることなど出来なかったでしょう」
「ほら、やっぱり。助けてくれる人がいたから、マスターは成功したんです。決して努力のお陰じゃない。その考えは改めるべきです」
「そうかも知れませんね。コーヒーに興味を持ち、SNSなんかを使って交流して得た人脈ですから、ただ努力をしただけで成功し得たとは言えませんね。大変失礼しました」
「……SNSも使ったんですか? マスターが?」
「え? ああ、はい。お恥ずかしながら」
目を丸くする男に、マスターは恥ずかし気にスマートフォンを見せる。遠目ながらも、画面にはマスターと様々な年齢層の人間が映り込む写真が示されていた。
「全国にはコーヒー好きがたくさんいましてね。私のような初心者にも、一から教えてくれる優しい方々がたくさんいたのですよ。あなたのそのファッションも、誰かから教わったのではありませんか?」
「え、ええ。こういうの、どうも自分だけじゃ分からなくて。ダイレクトメッセージを使って、どうにかアポを取って……で、少しずつ分かってきて……」
「その時は、辛かったですか? それとも、楽しかったですか?」
「……」
少しだけ言葉を詰まらせながらも、男はすぐに顔を上げてマスターへ答えた。
「楽しかった、かもしれません」
「趣味ではない分野だったはずなのに、ですか」
「はい。この方面の友達も増えてきて、こういうファッションへの理解も増えて。こういうのも面白いな、と思えてきて……彼女のためにファッションを勉強しなかったら、アイツらとは出会わなかった、かな……」
「どうやら、無駄ではなかったようですね」
「……ええ。そう、ですね」
男は力なく俯く。しかし、その表情は柔らかかった。楽しかった日々を愛おしむかの如く、彼の顔には目に見えない笑みが滲み出ていた。
そんな中、少しの間を置いてマスターは小さく溜息を吐き、男に向けて申し訳なさそうに口を開く。
「すみません。私とあなたが同じだなんて、とても失礼なことを申してしまいました」
「え? いや、そんなことはありませんよ。むしろ、マスターは俺よりずっと努力をしてきたじゃないですか。そんな方と同列に語ってもらって、こっちが恐縮してますよ」
「いえいえ。私は洋食作りに心血を注いでいましたが、悔しいことに命を賭けるほどではありませんでした。ですから、あなたの努力には到底、及びません」
「それ、どういう————」
「あなたは
「っ……」
マスターの発言に、男は凍り付いたかのように固まった。彼の白磁の如き肌が、オレンジ色を放つ白熱電球により照らし出される。
無言の返答を受け、マスターは微笑みを崩さず静かに話を続ける。
「やはりそうでしたか。いやはや、年寄りの勘というのはバカになりませんね」
「……いつから気付いていたんですか」
「入店された頃には、うっすらと。服はとても濡れていたのに、髪や肌が濡れていませんでしたし、不審な点が多かったのでね」
「初めからじゃないですか! どうして追い返さなかったんですか。入店してきたのが幽霊だって気付いたなら、すぐに追い返した方がいいのに」
「おや、おかしなことを仰いますね。幽霊だろうとなんだろうと、この店に入って来られた方は全員、大切なお客様なのです。追い返すなんて絶対に有り得ませんよ」
「そう、ですか。ハハッ……」
マスターのあまりにも危機感のない返答に、高瀬は力なく笑いながら項垂れた。
「実は俺、あの女を殺しに行くところだったんです。俺の人生をめちゃくちゃにした張本人ですから、絶対に許せなくて。でも偶然、この店から太った男が出てくるのを見つけて」
「太った……ああ、大道さんですか」
「その時に俺、コーヒーが好きだったことを思い出して。それで……」
そう言うと、高瀬はマスターの顔を優しく、どこか悲しげに見つめる。
「本当は、こっそりコーヒーだけ飲んで出て行くつもりだったんですけどね。それがどういう訳だか、マスターに見つかっちゃって。なんていうか、もう台無しですよ」
「申し訳ありません、幽霊の心境までは心得ておりませんでした。精進いたします」
「そうしてください。マスターに会ったせいで、彼女を殺す気がなくなっちゃったんですから」
そう言って、高瀬とマスターは小さく笑い合った。そして、笑い止むのと同時に高瀬は静かに席を立った。
「そろそろ帰ります。あんまり長居しても悪いし」
「そうですか。これから、どちらへ行かれるのですか?」
「分かりません。まだ彼女のことを恨んでいますけど、殺意はなくなっちゃったし、会う必要も無いかなって。もしかしたら、このまま空に昇るのかも知れないです。ああでも、自殺したんだから地獄行きかな?」
「どうでしょうね。閻魔様は案外、寛大かも知れませんよ」
「そうだと良いんですが」
また一つクスリと笑い、高瀬は上着を取って玄関のドアノブに手を掛ける。いつの間にか雨は降り止んでおり、オーニングを伝った雨水がポタポタと、陽の光を反射して美しい雫を形成していた。
空を軽く仰ぎ、高瀬はマスターへと振り返る。
「会えてよかったです、マスター。……そうだ。もしも、ですよ? 俺が生まれ変わることがあったら、またここに来ても良いですか?」
「ええ、それはもちろん。でも、今度は素敵な彼女を連れてお越しくださいね。そうしたら、またサービスいたしますよ」
「はい、絶対に。それじゃ、行ってきます」
「お気をつけて」
こうして、高瀬 哲人は店から去った。泥に足跡を残すことなく、水たまりに姿を映すこともなく、ただ忽然と消えた。まるで誰もいなかったかのように、彼がいたはずの場所には初夏の温い風が吹き抜けていくのみであった。
静かに閉まる扉を見つめ、マスターは大きく息を吐いて手近にあった椅子へ腰かけた。先ほどの穏やかな笑みとは異なり、どこか安堵したような表情を浮かべる。
「やれやれ。長く喫茶店をやっていますが、幽霊は初めてで緊張しましたね……」
小さくぼやくマスターに、ずっと黙っていた藤波が声を掛ける。
「お疲れさん。しかしマスターよ、初めて幽霊と会ったとは思えないほど堂々としていたなあ。案外、こっちの素質もあるんじゃないか?」
「やめてくださいよ。私にはもう、喫茶店以外に無いんですから。それにしても、不思議ですね。私には霊感なんてなかったはずなんですが……どうして霊を見ることが出来たのでしょうか。藤波さん、何か知っていますか?」
「ん? そいつは簡単なことさ」
そう言うと、藤波は窓の外を指さした。
「さっき、天気雨が降ってただろ?」
「え、ええ。それが何か?」
「天気雨ってのは別名、『狐の嫁入り』って言ってな。いたずら好きな妖狐の霊力に
「偶然に偶然が重なった、という訳ですね。なるほど……」
「しっかし」
飲み終えたメロンソーダのストローをくるくると回し、天井を見ながら藤波が言う。
「マスターに味覚が無いなんて、未だに信じられないよ。あれだけ美味い料理が作れるってのに、料理の世界ってのは奥が深いんだなあ」
「ふふ、そのことですか。実はあれ、真っ赤な嘘です」
「はっ?」
衝撃的な発言に、藤波は思わず目を丸くする。そんな彼に対し、マスターは少しだけ意地悪く微笑む。
「彼の悩みが大きいことは予測できましたから、バレにくくて重みのある話を作ってみようかと思いましてね。まあ、結果的に良い方向へ転んだので良かったです」
「おいおい、いいのかよそれ……」
「昔から言うじゃありませんか。噓も方便、と」
「それはそうだが、あの場面ですぐに思い付くものかね? ホント、大したもんだよ、マスターは」
そう言って呆れたような、羨望するような眼差しを向ける藤波に、マスターは軽く頭を下げて言う。
「まあそういうわけで、これからも変わらず美味しい料理とコーヒーを提供させていただきます。ですので今後ともご贔屓のほど、よろしくお願いいたしますね」
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