第2話 学園の友達

 「霞」という存在がある。

 それはその名のとおり、実体を持たない、世界の残りかすのような存在で、一瞬のつむじ風のようにすぐ消えてしまう意味を持たないものだった。しかし、ただのつむじ風があるときから意思を持った。意思を持ったというのに、間もなく消えゆく自分たちに絶望し、どうにか消えまいと力を欲し、ほかの生命から力を得ようとした。しかし、もとは形のない「霞」は力を奪っても奪っても穴の空いた桶のようにこぼれ落ち、際限なく力を奪うしかなかった。

 唯一どうにかできるとすれば、それを神の力しかない。しかし、神々は「霞」に決して加護を与えようとしなかった。「霞」は消えるのが自然の摂理であると。

 しかし、そんな神々の決まりを破るものもいた。――ケイアイノミコト。今や、この国の五大悪霊と定められる墜ちた神だった。

 ケイアイノミコトは美しいものを愛した。神は本来、才あるもの、ふさわしい試練を乗り越えたものに加護を与える。しかし、ケイアイノミコトはたとえその身にあまる強大な力でさえも、美しいもの、特に男に無差別に力を与えた。それが、たとえ「霞」であろうとも。それが原因で、ケイアイノミコトは神々に悪霊として封印された。

 それが現代となって封印が破られ、光奏さまがケイアイノミコトの依代になってしまった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 車窓から木々が流れるように通りすぎていき、同じような景色が続いていく。外を眺めていれば気がまぎれると思ったのに、ぼうっと後悔で頭がいっぱいになる。

 はぁ~と無駄に車内の空気を消費してしまった俺は、隣のシートに腰を下ろしている光奏さまの耳に不快を届けてしまった。


「まだ昨夜のことを気にしていたのですか?」

「……自分の無能さを、そして受け止め切れない弱さを、どうすれば克服できるかわからなくて」


 昨夜の「霞」のように車窓に頭をぶつけたい気分だったが、自分の美しい顔に傷が残るのが怖くてできない。罪滅ぼしにできるだけ美しく顔を鑑賞してもらおうと光奏さまのほうを向くが、ランドセルを膝に抱えた彼女は少しあきれたようにこちらを見るばかりだ。俺には、顔以外で自分の愚行を償う方法が見当がつかない。この俺の頭の悪さはどうやったら救われるんだ。

 思わず視線を反らして、車の窓にぼんやりと映った美しい自分の虚像を眺める。美しい、俺の顔は美しい、だからこの顔に免じて許してほしい。そんな下衆な考えに浸っていると、前方の運転席から喉を鳴らすような笑い声が響いてきた。


「まぁ、俺はべつに構わないぜ。お前らがまだまだケツが青いうちはカバーしてやるよ。お前らが失敗する分、俺がいいとこ取りで報酬をもらうからよぉ」


 田鶴さんの言葉にますます自分の無力さと無能さを思いしる。


「光奏さまにお力をいただいたのに、俺が顔がいいだけの存在なばかりに危険にさらしてしまって。シャンデリアも壊すし」

「別にいいと言いました。それに、シャンデリアはこれを機にLED照明に変えます。池浦もそうしてほしかったんでしょう」

「俺があのような浅い望みを口にしたばっかりにあんなことを巻き起こしてしまったのではないかと。光奏さまの配下であるのに、この体たらく……」

「まったく、もう」


 気分を害してしまっただろうか。しかし、俺はどうも口がうまくない。今までじっと無言で相手に顔を見せつけるだけで生きてきたせいだ。自業自得の口下手野郎だ。

 俺は、また田鶴さんや翁長くんも、光奏さまに邪神の加護をいただいている。俺は言わずもがな、それぞれ美しいものの要件を満たしているからだ。俺は俺の美しさを認めてくれて、さらに力まで与えてくれた光奏さまにできるだけ報いたい。

 光奏さまは邪神の依代として「霞」から狙われている。だから、もらった力を使ってお守りしなければいけない。それなのに、昨晩のような失敗ばかりする。俺が美しいだけの男だからだ。いつか、美しさに飽きられてしまうのが怖い。せっかく、俺を見つけてくれたのに。

 考えすぎてなかば意識が飛んでしまった俺の名前が、光奏さまに呼ばれる。


「池浦、聞いているのですか? もう落ち着いてください。初めから完璧な人間なんていないのです。少しずつ成長すればいいはずです」

「光奏さまの言うとおりです。なのに、俺はぐちぐち文句ばかり垂れ流す成長のない顔だけ男……」


 気を悪くさせてしまうとわかっているのに、言葉がとまらない。唇を噛み締めようと思っても、傷がつくのが嫌でできない俺はくずだ。

 射し込んでくる強い日の光のせいで、窓に映っていた自分の姿を見失ってしまう。心の支えがなくなってしまいそうな俺の手に、何かが触れた。窓から目を離すと、光奏さまの向こう側の窓側に座っている翁長くんがこちらに手を伸ばしていた。


「……もぐ」


 彼が俺の手に押しつけたのは、彼お気に入りのコンビニ商品はちみつチーズパンだった。彼自身も自分の分のパンを食べながら、こくりと頷きながら俺の手にぐいぐいと押しつけてくる。


「もぐ」

「えっと、ありがとう。……その、俺は車内ではうまく食べられないから、教室で食べるよ」

「もっ!」


 池浦くんが勢いよく親指を立てる。このパンは、彼にとっての最大の慰めだ。年下にこんな形で慰められるとは、なんて情けないんだろうか。無駄に無為な時間を過ごしていた俺は、美しさ以外はなにも生み出せない。むしろ周りにこうやって気をつかわせてばかりで、消費することしかできない。

 はちみつチーズパンの袋を無駄にがさがさ鳴らしていると、運転席の田鶴さんが声を上げた。


「もうすぐ学園に着くぞ。準備はいいか、ガキども」


 屋敷から車を走らせて40分程度。屋敷がある山から下りた町に有名な峰立学園がある。小学校から高校までエスカレーター式の法力使い――「霞」を祓う者を育成する専門の学園だ。法力使いたちの有名な学園ということもあり、敷地に強力な結界が張られている。光奏さまの身の安全を守るために編入したばかりだ。しかし、「霞」から狙われる光奏さまにとって法力使いが完全な味方というわけでもない。見つかれば拘束、あるいは封印されてしまうので、悪霊の依代ということを隠して学生生活を送っている。


「よし。じゃ、お前らは楽しい学生生活に行ってこい。俺は下校時間まで、ぷらぷら過ごさせてもらうからよぉ」

「田鶴、あんまり羽を伸ばしすぎないでください」


 角を曲がれば峰立学園の正門というところで車を停めて、田鶴さんが大あくびをする。それに光奏さまがいつものように注意をして、歩道側の席に座る俺を見る。


「それじゃ、池浦、お願いします」

「それでは、先にいってきます。何かあればいつでもご連絡ください」


 一番最初に出るのは、俺の役目だ。学園の近くだからといっても、油断できない。俺が能力を使って露払いの役割を担う。

 登校中の峰立学園の生徒が多く登校しており、外に出た瞬間に視線が自分に集まるのを感じた。俺はできるだけ何も感じていないように、そのまま人の視線を集めつつ人の波に乗った。

 峰立学園は小学校から高校まで一つの敷地にあるが、それぞれ校舎は離れている。光奏さまの初等部は敷地に入って右側の校舎であり、かわいらしい赤い屋根が目立つ。翁長くんが通っている中等部の校舎は左側にある屋上の植物園が遠目からもわかる。俺の高等部の校舎は正面にあり、青いとんがり屋根の時計塔がシンボルになっている。パンフレットに写真として一番目立つのが高等部だが、玄関ホールは3つの中で一番遠い。

 大勢の生徒にまぎれてというのは、俺には無理だ。だって、美しいのだ、俺は。周囲を歩く人たちの視線が集まり、ひそひそと俺が話題になっているのが耳に入る。


「あの人だっけ、噂の超美形編入生」

「そう、池浦願くん。まじで顔がいい~」

「……きれいすぎて、現実感なくなってきた」

「いつまでも見ていられる……」


 よかったと思いつつ、だんだんと不安になってくる。俺は顔がいい。顔だけがいい。このまま歩いていたら、欠点がぼろぼろポケットから出てくるのではと思って、どんどん進む足が速くなっていく。

 靴箱のロッカーを開けると、そこには当然ラブレターらしき手紙の束が入っている。それらを鞄に入れようとして、自分の右手が翁長くんからもらったはちみつチーズパンを持ったままだということに気がついた。先にしまうかと手を持ち上げたところで、あっと明るい声が上がって自分の肩が跳ねてしまった。


「おはよう、池浦! 手に何持ってんの? はちみつチーズパン? 朝飯食えなかったの?」

「……おはよう、眞坂」


 にこにこ親しみしか感じさせない笑顔を浮かべて声をかけてきたのは、つい最近クラスメイトになった眞坂知明だ。非常に社交的で明るく、俺に一番最初に話しかけてきたのも彼だ。そんな人間だから、当然のごとくクラスでも人気者で常に人に囲まれている。正直なところ、苦手だ。


「あ。というか、またラブレター入ってるじゃん! さすが、イケメンは違うなぁ!」

「俺の顔がいいだけだから」

「あっはは! 池浦ってまじナルシストだよなぁ! まさかまさかの眞坂さまも、初めて会ったときはそんなキャラだったとは思わなかったぜ!」


 ばんばんと眞坂に背中を叩かれながら、パンを鞄に入れ、ラブレターも折れないように鞄の横のポケットに入れて、靴を履き替える。ちらりと横を見ると、登校してきたほかのクラスメイトに眞坂が手を振っておはようと笑っている。そのクラスメイトは俺と目があった瞬間に顔を赤くして走って逃げていった。


「……というか、眞坂も顔はいいだろ」

「え? 何だよ。お前ほどのイケメンに言われてもなぁ。っていうか、俺がまじ平凡だってことは自覚してるから! そういうこと言ってると、女子に勘違いされるぞ!」

「いや、勘違いしているのはお前だ」


 はーっと長いため息が口から飛び出てしまうが、眞坂は不思議そうに首をかしげて大丈夫かなんて心配してくる。その顔の輪郭はやわらかな線を描いて優しげな印象を与え、いつも笑顔を浮かべている口元も好ましい、明るい瞳と目が合えば大抵の人は思わず笑うだろう。つまり、眞坂もかなり顔がいいのだ。

 しかし、全く自覚していない。付き合いが短い俺でさえもわかるほど、明るく優しく人気者でいて、しかし自分の良さに鈍感なのだ。光奏さまに見せていただいた物語の少年のような人物だ。そういうところが苦手なのだ。

 眞坂と向き合っているのが耐えられなくなり、方向転換して自教室へと向かう。しかし、クラスメイトなので眞坂と一緒に歩いていくことになる。


「……鏡が恋しい」

「鏡? 何で?」

「自分の顔を見て安心したい」

「まじで」


 けらけら笑うが笑いごとではない。眞坂は顔がよくて性格もいいだけでなく運動神経も抜群で頭もいい、優秀な生徒なのだ。もちろん、顔だけを比べたら俺が勝つ。しかし、どちらのほうが好ましいかと言われたら、クラスメイトのほとんどは眞坂を選ぶ。そう言ったら、光奏さまに「池浦は転入したばかりなんだから、ずっと学園にいた人には人気で負けるに決まっているでしょう」と叱られた。それはそうだとわかるけど、やっぱり隣にいると自分の価値が揺らぎそうで落ち着かない。自分の顔を見て、落ち着きたい。


「でも、教室で鏡見てたことなんてあったっけ? そんな池浦の姿、見たことないけど」

「手鏡は持ち歩かないようにと言われて、没収されている」

「あっはははっ! まじで、池浦と話しているとおもしろいよなぁ」


 めちゃくちゃ眞坂に笑われているけど、本当に笑いごとじゃない。男子トイレに駆け込みたいぐらいだ。自分の頭の中で、どこが一番近い男子トイレか思い出していると、眞坂がところでと声をかけてきた。


「そういえば、今日の1限目って法力理論の授業だったっけ? 宿題できた? 結構難しかったよなぁ」

「法力理論の宿題?」


 瞬間的に、昨晩の自分のことを思いだした。晩御飯を食べた後に、じっくりと取り組もうとしていた宿題プリントがあった。あの騒動の後始末と自分のやらかしですっかり意気消沈して、すぐにベッドに倒れ込んで眠ってしまった。宿題するの、すっかり忘れていた。頭を抱えたいが、頭を抱えると自分の顔が隠れてしまうのでできない。うぐぐとうめいていると、ぽんと眞坂に肩を叩かれた。


「俺のプリント見るか? 今日、俺が授業中に当てられそうだし、一緒に予習しとこうぜ」

「……ありがとう、眞坂」


 苦手だが、苦手であることを心苦しく思うほどいい奴なのだ、眞坂は。そして、さらに俺の劣等感が刺激される。引きつった笑いにならないように、俺は精いっぱいに笑ってお礼を言った。

 眞坂のおかげで1限目の授業も乗り越え、学生らしく勉強に努めているとあっという間に昼休みになる。

 眞坂とその友人たちのグループから一緒に食堂に行かないと誘われるが、断って教室で鞄に入れたままだったはちみちチーズパンをひっそり自分の席で食べる。

 ぱりぱりとパンのビニール袋を破って、一口かじるとあまじょっぱい。はちみつのあまさでちょっとだけ肩の力が抜ける。

 もともと俺は田舎の学校に通っていたため、峰立学園のような人の多いところにまだ慣れない。眞坂の誘いをたびたび断るせいで、孤高のナルシストイケメンと噂されてしまっていることはわかっているが、正直なところまだ体がついていかない。食堂で一緒に行ったとき、人の多さと勢いに負けて食券が買えず、眞坂に買ってきてもらってしまった。もう一回行くにはちょっと覚悟がいる。

 のそのそ食事をしていると、机の上に置いていた携帯端末がぴかぴかと光った。確認すると、相手は光奏さまだった。


『お昼ご飯を食べたら、図書館横のベンチまで来て』


 メッセージには、そう書かれていた。

 光奏さまが何の意味もなくメッセージを送ってくることなんてない。慌てて、俺ははちみつチーズパンを半分に折って小さくして、いっぺんに口を入れて飲み込んだ。一気に食べたせいで、あまさにのどがかっと熱くなったが、ビニール袋をゴミ箱に捨てて、そのまま教室を出る。

 峰立学園の図書館は、古来から秘術や禁呪、古文書などが保管される、研究機関の人間も利用することがある立派なもので、校舎1棟よりも大きい施設だ。小中高の生徒たちの教室がある本校舎をぐるっと回った裏に建っている。その図書館の正面入口へ向かう途中の渡り廊下に自動販売機とベンチがある。

 小走りで向かうと、そこにはもう光奏さまと翁長くんがいた。


「お待たせ、しました。光奏さま……?」

「そんなに急がなくてもよかったんですけれど。でも、ありがとう……」


 ベンチに座っている光奏さまは心なしか元気がなさそうだった。ベンチ横に立って、もぐもぐ購買のドーナツを食べている翁長くんに視線で尋ねてみるも、首を横に振られる。どうやらまだ何も聞いていないらしい。

 からからに乾いたのどでごくりと唾を飲み込んで、ちょっとむせた。誤魔化すように、こちらを見てくる光奏さまと目を合わせるようにしゃがんだ。


「どうなさったんですか、ちょっと元気がないように見えますけど」

「……元気がないというか、うん、ちょっと悩んでいるのです」


 いつもはっきりと話すことの多い光奏さまが口ごもっている。どうにも話しづらそうで、膝の上の手がスカートを強く握ってしわをつくっていた。話してもらうのを待っていると、本校舎側から甲高いはしゃいだ声がやけに耳についた。こちらから聞いた方がいいのかと俺が言葉を探していると、光奏さまが深呼吸をした。そして、告白される。


「私、遊びに行きたいのですっ!」


 声はそこまで大きくないながらも、叫ぶようにして息切れしながら光奏さまはそう言った。思わず翁長くんと顔を見合わせた。

 光奏さまは、法力の秘術を守る一族のお嬢様だった。本家は人里離れた山奥に居を構えており、光奏さまはその特異性ゆえにそのまた屋敷の奥に隠されていた。学校にも満足に行けず、学習も家庭教師の手により行われ、自由に人と会うこともできなかった。家出のような形でこの学園に転入するまで、友人らしい友人もいらっしゃらなかった。その光奏さまが、遊びに行きたいとおっしゃられている。


「ど、どこにですか?」

「えっと、どこだったっけ……駅前のキャセリンっていうビルにキャラクターショップがあるって聞きました。そこです」

「キャセリン、ですか」


 キャセリンというのは、俺も教室で耳にしたことがある。カラオケやゲームセンター、ブティックショップからカフェまで、若者が1日中遊べるように全てが詰め込まれている場所で、峰立学園の生徒が放課後遊ぶといったらキャセリンになるらしい。眞坂に誘われたことがある。

 光奏さまもクラスメイトから話を聞いて、行きたくなったのかもしれない。


「それでは、次の休みの日に行きましょうか? 事前に、田鶴さんや翁長くんと一緒に下調べをしておきますので――」

「そうじゃなくて、今日行きたいんです」

「今日、ですか? 急ですね。田鶴さんに事前に下見してもらって、ぎりぎり放課後に間に合うかどうか。今日は俺の授業が遅くまであるので、お待たせしますし……」

「あの、池浦たちと行きたいんじゃないんです。と、友達と行きたいのっ!」


 すっかり光奏さまと自分たちとで行くつもりで話していたが、そうではなかったらしい。思い込みでつらつらと予定を考えていた自分に恥しくて埋まりたくなるが、顔に土をかけることができない。恥に耐え忍んでいると、ぽつりぽつりと光奏さまが経緯を話してくれる。どうも、クラスで人気のマスコットキャラクターがいて、その限定品の販売が今日までらしい。それを一緒に買いに行こうと、クラスで友達になった藍花ちゃんという子に誘われたらしい。


「クラスでそのマスコットキャラクターを持ってないのは、私だけなんです。だから、何かがあるってわけでもないのですけど、でも藍花ちゃんに誘ってもらったし、い、行きたくて……」

「なるほど、そうですか……」


 光奏さまが行きたがっているのがよくわかる。初めての友達に初めてお誘い、初めてのお出かけ。いつも凛とした姿しか見せない光奏さまが、年相応に遊ぶことを楽しみにしている。行ってらっしゃいと送りだせればいいが、しかし簡単にうなずくこともできない。

 これまで、光奏さまには俺と翁長くんの授業が終わるまで図書館で待ってもらって、そこから田鶴さんに迎えに来てもらって一緒に帰るという放課後の過ごし方をしてもらっていた。部活も遊びも何もないが、光奏さまの身の安全を守るためだ。力のない「霞」は日の光を浴びると形を保てなくなるため、たいていは夕方から夜にかけて動きが活発になる。放課後に光奏さまを1人にさせないために行っていることだ。


「その子は、俺たちが護衛としてついていくことを了承していますか?」

「ううん……まだ、これから。でも、行きたいってもう言ってしまったんです。えっと、あと、その子、ピアノの習い事があるみたいだから、授業が終わったらすぐに行きたいって言っていて……」

「俺と翁長くんの授業が終わるまで待てないということですか? ……早退しようと思えばできますけど」


 もぐっと翁長くんも困った顔をしている。もちろん、光奏さまの護衛のために俺たちは早退しても構わないが、それにしたって急すぎる。それにはっきりとは言いにくいのだが、光奏さまと一緒にいることでそのお友達も一緒に「霞」に襲われる可能性もある。誰の安全のためにも、今日急にというのは難しい気がする。

 眉間に力を入れてしわをつくってしまいそうになり、指ですりすり目と目の間を撫でていると、光奏さまが必死に言い募った。


「早退はしなくてもいいです! あまり遅くなったら危なくなることもわかっています! 日が落ちる前に、2人の授業が終わる前にぱっと行って、買物が終わったらまたすぐに学校に戻って、いつものように図書館で本を読みます! 暗くなる前に戻ってくるから、行きたいのっ!」

「えっと、つまり田鶴さんだけ護衛として連れていくということですか?」

「暗くなる前だし、人の多いところしか行かないからっ! それなら、「霞」だって来ないでしょう? 田鶴にちゃんと車で送ってもらいますし……」


 ほとんど泣きそうになって光奏さまが言うので、俺も何とも否定しづらい。正直なところ、自分の主人がこうも必死になって訴えているのに、顔だけで能のない下僕の俺があれこれうるさく言う権利があるのだろうか。


「……でんわ」


 ぽそっとドーナツを全て食べてしまったらしい翁長くんがポケットから携帯端末を取り出しながらつぶやいた。そして、ぱぱっと手早く操作をすると、田鶴さんへの通話画面を見せた。


「翁長くん、田鶴さんに確認の電話をするってこと?」

「そう」

「……そうだな。どうするにしても、絶対に田鶴さんに送ってもらわなければいけないし」


 全部任せてしまうことになるが、光奏さまと一番長い付き合いらしい田鶴さんに話をまとめてもらうのが一番いいかもしれない。俺の中身のない頭ではいい考えが思い浮かばない。

 しかし、光奏さまはどうにもしぶい顔をしている。きゅっと唇をかみしめて、翁長くんの通話画面をにらんでいる。


「光奏さま、田鶴さんに確認しましょう」

「……でも、田鶴は絶対反対します。だから、2人に最初に話したのに」


 光奏さまはすっかりと幼い口調になっていた。気まずそうに視線を落として、光奏さまは自分の膝ばかり見つめている。

 しかし、だから俺たちに最初に話したとは? もしかして、自分たちに味方になってほしくて最初に話したのだろうか。光奏さま自身も、自分の言っていることがわがままだと思っているのかもしれない。放課後、友達と遊びに行くなんて誰でもしていることなのに。


「光奏さま、しかし安全のためにも――」


 ピッ、ぷるるるる……

 急に会話の間を電子的な音が遮った。横の翁長くんが、無言で田鶴さんへの通話ボタンを押したのだ。それは、2回目のコール音を鳴らす前につながった。


『翁長? どうした、緊急事態か?』


 通話に出た田鶴さんの声は鋭かった。いつもへらへらと緩く話す声が随分と低く、姿がないのに殺気までこちらに伝わってきそうだった。思わず半歩下がってしまった俺と違って、光奏さまはただその声に気まずそうだった。しかし、翁長くんに携帯端末をぐいっと口元に近づけられて、おそるおそると言うように光奏さまは口を開いた。


「あの、田鶴……?」

『お嬢? ……なんだ、しゃべらない翁長が電話がかけてきて何事かと思ったら。しかし、こんな中途半端な時間に何ですかい?』


 光奏さまの声を聞いて、特に危険はないと判断したらしい田鶴さんの声はいつものように声をゆるりと緩ませた。ふうっと俺が安心して息を吐いていると、翁長くんがごそごそとポケットからはちみつアメを出して渡してきた。反射的に受け取ってしまったが、まだお昼に食べたはちみつチーズパンの甘さが口に残っているので食べられない。

 俺と翁長くんがアメのやり取りをしている間に、光奏さまはぽつぽつと歯切れ悪く経緯を説明している。へぇへぇとけだるそうな田鶴さんが相槌を打ち、最後まで話を聞いて、結論づけた。


『遊びにいくのは諦める。これが答えだなぁ、お嬢』

「で、でもっ!」

『そんなにそのマスコットってやつがほしいのなら、俺が今のうちに買っておけばいいだろ。何ていう商品だぁ、それ?』


 確かに、マスコットがほしいだけなら、田鶴さんに買ってもらえば万事解決だ。そんな簡単なことも思いつけない俺に比べてやはり田鶴さんは優秀だと思ったが、それでも光奏さまは納得がいっていないようだった。電話口で商品名を聞いている声に応えず、無言で首を横に振っている。


『お嬢? 教えてくれないと買えないけど、それでもいいのかぁ? 今日までなんだろ、それが売ってるの』

「自分で、買いに行くもん……」

『そりゃ、俺が買いに行ってもお嬢にとって意味がないことぐらいわかってるさ。でもなぁ、それで妥協しろってことだ、俺が言っているのは。……そこに、翁長と池浦がいるんだろ? 俺に直接電話せずにこうやって連絡してきたってことは、自分でも無理言ってるってわかるんだろぉ? お嬢は賢いもんなぁ』

「べつに、わからないです。……わかんないんだから」


 わからないフリをする光奏さまは痛々しい。ぎゅっと耐えるように顔をくしゃくしゃにして、わからないと何度も繰り返す。いつもとは違う様子を感じとっているのか、電話向こうの田鶴さんもしばらく無言になる。俺が何か言うべきだろうかと口を開くが、光奏さまの気持ちも田鶴さんの言い分もわかる。どっちつかずの俺は、ただ観賞用の顔として黙っているしかない。

 沈黙を破ったのは、少し疲れたような声色の田鶴さんだった。


『はっきり言うけど、無理だ。行って帰って、それで済む話じゃない。力の強い「霞」が来たら、どうする? 俺はお嬢しか守らないぞ? そもそも、その遊びに行くお友達が安全かどうかも……』

「――どうして、そんなこと言うのですかっ! 田鶴の馬鹿っ! だいっきらい!」


 座っていたベンチから立ち上がった光奏さまは携帯端末越しに田鶴さんに怒鳴ったかと思うと、背を向けて走っていってしまった。追いかけるか追いかけないかもとっさに判断できず、俺はその場で美しい彫刻と化すばかりだった。翁長くんもびっくりしたのか、いつもぼんやりとしている目を見開いている。

 あー…っと、田鶴さんがうめく声だけが響いた。


『お嬢、泣いてたか?』

「泣いては、いなかったと思います。でも、ずっと泣くのを我慢しているようだったので、今はもしかしたら……」

『だよなぁ? ……あぁ、くっそ言い方を間違えた。どうしたもんか。このまま、俺たち全員無視して、その子と遊びに行こうとする可能性もあるか? 今すぐ、学園を抜け出すっていうのは……お嬢は真面目だから、そこまではしないか? 待ち伏せするにしてもなぁ』


 いつも余裕たっぷりに振舞っている田鶴さんが、俺たちが聞いているということも気にせずに一人焦った様子でぶつぶつと呟いている。おろおろするしかできない俺と違って、携帯端末を持っている翁長くんは無言で自動販売機でナタデココ入りジュースというのを買っていた。

 ちゃらりんと自動販売機が鳴って、ぴこぴこと光っている。どうやら、当たりでもう一本飲物がもらえるらしい。翁長くんがちょいちょいと手招きして、自動販売機を指さす。どうやら、俺におまけ分の飲物をくれるらしい。無言の申出がありがたく受け取って、俺はさっきからからからに甘い口の中を中和するために缶コーヒーのボタンを押した。


『……今から、その藍花ってやつのデータを調べるか? いや、それよりも最悪の事態を考えて動いたほうがマシか。――翁長、池浦、聞いているな? 今から、俺が言うとおりにしてもらう。まず、お前らは早退しろ』

「……うっぷ! は、はい、わかりました!」


 コーヒーを飲んでいたために、急な呼びかけで溺れかけたが何とか返事をする。

 そして、放課後までにするべきことを指示されているうちに、予鈴のチャイムが響き渡った。

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