ナルキッソスのための加護

運転手

第1話 シャンデリアとナルシスト

 先日引っ越してきたばかりの屋敷の天井は随分と高い。以前は、古式ゆかしい日本家屋で過ごしていたせいで余計にそう感じるのかもしれない。

 この屋敷自体も随分と古いもので、高い天井にはアンティークのシャンデリアが飾られている。ぼうっとオレンジの明かりが食堂の長テーブルの上に注がれる。しかし、古い味というものはあるが、現代人の日常生活に慣れた俺としてはどうも落ち着かない。古いシャンデリアの薄暗い光ではなく、LEDの明るい照明の下で食べたい。

 丁寧に磨かれたナイフの刃に自分の顔をぼんやり反射させて、やっぱり耐えきれずに顔を上げた。


「シャンデリア、交換させませんか?」


 俺がそう言うと、ななめ前の席に座っていた田鶴たづるさんが何だと顔を傾けてこちらを見てきた。


「落ち着かねぇか。わかるぜぇ、ああいうぷらぷら不安定なものは撃ち落としたくなるもんだよなぁ」


 田鶴さんは手で銃の形をつくって、ばんっと撃つ真似をした。行儀悪くテーブルの上にひじをついているが、この人はそういう姿を下品にではなく、様になっていると思わせる力がある。眼帯をしているので片目としか目が合わないが、こちらが両目で見ているというのに眼光で押し負けてしまう。これは年齢の差のせいだけではないだろう。


「いや、そういうことではなく……」


 正直なところ、田鶴さんは苦手だ。普段はのらりくらりと軽い調子だが、だらりと背中を丸めていても肉食獣のような迫力があって、自分のちっぽけな自信がなくなりそうになる。まだ短い付き合いだが、うまく話せない。

 助けを求めて、自分の右隣に座っている翁長おながくんのほうを見る。

 翁長くんはもくもくと目の前の食事を食べていた。目の前に出されたグレイビーソースのかかった分厚いローストビーフを切っては口に入れ、切っては口に入れ、たまにちぎったパンをソースに絡めて、ずっと口を動かし続けているが静かなものだ。そもそも翁長くんはものを食べていない時間のほうが少なく、ほとんど声を聞いたことがない。


「翁長くん、君の席から俺ってどれぐらい見える?」

「もぐ……」


 お皿にばかりに目を向けていた翁長くんはちらっと視線を上げて真正面の俺の顔を見る。もぐもぐ咀嚼しながら、彼は首をかしげた。

 ああっと俺の口から情けない声が思わず漏れる。


「ほら、首をかしげるくらい薄暗くて、俺の特別綺麗な顔が見えないんです! 顔が見えないってことは、俺が世界に存在する意味がなくなるんですよ! 人の目の保養になることで、よ、ようやく、俺は息をすることを許されるのに! ……まぶしいほど美しい顔と称賛されてはいるものの、実際はこの薄暗がり程度で意味がなくなる程度の存在価値ってことなんでしょうか。やっぱり、この顔の美しさだけじゃ、俺の価値はプラマイゼロ。いや、それどころか……」

「騒がしいですよ、池浦。食事中の団欒の域を越えたお喋りはやめなさい」


 凛とした声が俺を制した。きゅっと口をつぐみ、自分のあまりのつまらなさと小ささにありとあらゆる罵詈雑言が頭の中をぐるぐる回る。

 ふうっとため息をついた声の主は、テーブル席の上座、誰よりも立派な身体に不釣り合いな背もたれの大きい立派な椅子に座った幼い少女だ。上品な桔梗色のワンピースを着た彼女は、矮小な俺を光の散った瞳で真っ直ぐと射抜く。上品な仕草でナイフとフォークを置くと、上位に立つものとしての威厳に満ちた口調で俺をたしなめた。


「池浦、あなたがそういう考え方だっていうことはわかっています。でも、今は私のところにいるのですから、美しさだけが自分の価値だと思うのはやめてください」

「うっ……、申し訳ありません、光奏ほのかさま」


 どうにも、この方の前に立つと、自分は突かれたダンゴムシになったような気がしてしまう。しかし、どんだけ言われても、美しさしかない俺は背中を丸めて顔を隠すことに耐えられず、恥知らずで美しい顔をこの方に晒すことしかできないのだ。

 この屋敷の主人であり、この場にいる我々3人の上に立つ方であり、そしていまだランドセルを背負う幼い身には重過ぎるほどの大きな力を宿している。この方こそ、古之日このび光奏ほのかさまだった。


「せっかくの食事が冷えてしまいます。食べましょう」

「はい、光奏さま――」


 どうしても薄暗いシャンデリアの光が気になりつつも、光奏さまの言葉に従い食事を再開しようとしたときだった。

 こんこんとノックの音が響いた。しかし、それは扉を叩く音ではない。もう少し軽く、ちょっとくぐもったような音、窓からだった。

 食堂の部屋には、壁の片側全面が大きなガラス窓になっている。昼であれば、整えられた庭が一望できる。しかし、今は夜だ。カーテンによって閉ざされた、その一枚の布の向こうから、ノックの音が響いてくる。


「お嬢、食事の最中にちょっとはしたないかもしれないけど、俺とランデブーと行こうぜぇ」


 いつのまにか田鶴さんが、光奏さまの腕を取って立ち上がらせていた。


「……こんな事態にわざわざ無作法さを責めはしませんけど、田鶴の軽口は責めたい気持ちです」


 光奏さまは田鶴さんの冗談に軽く返しながら、ノック音が続いているカーテンの向こうから目を離さず、緊張した面持ちをしている。真正面に座っていたはずの翁長くんもパンにかじりつきながら席を立っており、警戒するようにじりじりと窓際に近づいている。

 顔以外に取り柄のない愚鈍な俺は、他からワンテンポ遅れて立ち上がる。こんな夜中に無作法にも窓から訪問してくるようなお客を相手にするのは俺の役目だ。緊張で震えそうになる情けない手を伸ばして、音が鳴っているあたりのカーテンをさっと引いた。

 窓の向こうで、シャンデリアのオレンジの光に照らされて夜の闇に浮かんでいたのは、俺と同じ年くらいの男に見える誰かだった。俺と目が合うと、ずっと一定のリズムで窓をノックしていた手を下してにっこりと笑う。


「ケイアイノミコトさまにお目通りしたくて参りました。どうか入れてください」


 窓越しであるくせに、耳元でささやかれるようにやけにはっきりと声が聞こえる。ぞわりと産毛が逆立つような心地になりながら、塵より小さな自信を積み上げて目の前の存在に首を振る。


「うちの主人は、誰ともお会いになりません。お帰りください」

「……美しいものがやってきたと言ってください。そして、力を授かりにきたと伝えてください。きっと、会ってくれるはずです。伝えてください、伝えてください」


 言葉だけならつらつら必死に訴えているようにも感じるが、声の調子はロボットのように一定で変わらない。穏やかな微笑みの表情から眉一つぴくりとも動かさずに言葉をまくしたてる姿は異様だった。しかし、美しいものかと目の前の存在を観察する。美醜の判断は人の好みによるものも大きいが、目の前の存在も十分に美しいと言われる部類ではないだろうか。一歩踏み入れたら抜け出せない底なし沼のような瞳は人を捕らえて離さない。しかし、俺ほどではない。


「俺よりも美しいものでなければ、うちの主人は会いません。諦めて、お帰りください」


 真っ正直に言ってしまった。

 微笑みながら、目の前のものが額をゴンッと窓ガラスにぶつけた。口元に笑みを貼り付けたまま、ぽっかりと見開いて目をぎょろぎょろ動かして、俺の向こうの何かを探そうとする。


「入れてください、会わせてください、力をください。ください、ください、ください」

「勝手にうちの中を覗き見ようとするのはやめてください。――【罠】・『デコイ』」


 俺が力を使うと、窓向こうにいるものがぎょろぎょろ動かしていた瞳をぐるんと裏返って、俺の顔から視線が外れなくなる。目の前のものは何だと言いながら、苛立って身体を揺らすが、どうしても視線は俺から外れない。『デコイ』は、俺に対して美しいと感じたものの注意を全てこちらに向けることができる能力だ。当然だとは思いつつも、うまく能力が効いたことに安堵が生まれる。ごみのような俺でも、まだ価値はちゃんとある。


「帰ってください。主人はあなたに会いません」


 力の弱い者なら、俺の『デコイ』にかかったものは、俺の言うことに大人しく従う。しかし、目の前のものはどうしても諦められないのか、微笑みながらぐりぐりと窓に頭を擦りつける。とうとう額を何度もぶつけ、握った拳で窓を叩きながら、もがくようにこちらに迫ってくる。

「会わせてください。美しいものになります。会わせてください。力をください。会わせろ、力をよこせぇっ!」

 顔の中心からびしりとひびのように線が入り、そこから顔が少しずつ崩れていく。先ほどまであった微笑みを浮かべる顔は崩壊し、みしみしと音を立てるように顔が違う形に、少し俺と似たような目や眉や口元に変形していく。それでも俺ほどの美しさではない。しかし、窓に顔面を押しつぶすようにくっつけているせいで、せっかくつくりなおした顔も台無しになっている。


「入れろ、入れろ、入れろいれろいれろいれろいれろいれろっ!」


 顔が崩壊し、新しく何かを形づくり、また崩れてを繰り返し、だんだんと人の姿ではなくなっていく。ぼこぼこと肉体が泡のように膨れ上がって、窓を圧迫し、ガラスにひびが入り、俺が一歩その場から飛びのいた瞬間に、ガラスが音をたてて割れた。

 降り注ぐガラスの雨とともに、腕がにゅるりと侵入してきた。人の腕のようでいて、指は5本よりも多く、背中から生えたホースのように長いゴムのような腕がしなりながら伸びてくる。


「【罠】・『スキュア』っ!」


 眼前にまで迫ってきた腕を、間一髪で地面から生やした鉄杭によって押しとどめることができた。杭に刺された腕も気にかけず、すっかり異形のもの――「霞」の姿となったそれは自分を取り囲む杭から抜け出そうとぶくぶくと膨れ上がった巨体をぶつけている。もはや、最初の姿は見る影もない。さらに、後ろへ3歩下がった俺を、異形の血走った目がぎょろりと追ってくる。俺は相手の注意を引きながら、横にずれた。その瞬間、暴風が俺の横を駆け抜ける。


「よこせっ、ちから、力をよこせ――っぎゃあああぁぁああっ!」


 どんと地面が揺れる衝撃とともに、上から降ってきた凄まじい力によって「霞」の丸々とした身体がつぶされ、床を這うことになる。

 たった一発、翁長くんのその鋭い爪の生えた獣のような分厚い腕の力によって。

 彼の手から逃れようと「霞」がもぞもぞと動くたびに、翁長くんは容赦なく獣の腕を振り、力によって動きを封じてしまう。そのあまりの膂力に、ぴしぴしと床が音をたてる。本来は人間の腕であったはずの翁長くんの腕はどんどんとその凶暴性と大きさを増していき、人ひとり覆えそうな手が「霞」を完全に握ってしまう。鋭い爪が軽く触れた皮膚はざっくりと裂かれ、しぼんだ風船ように「霞」はおとなしくなった。

 何とか無力化できたと気を緩めたときだった。


「う、ううぅ、わたしにも、よこせえええっっ!」


 「霞」は最期のあがきとでも思ったのか、翁長くんの腕の隙間からその肉が伸びきった長い腕を振り回し、そしてそれは天井まで伸びて、シャンデリアに巻きついた。めちゃめちゃに振り回される腕に引っ張られ、シャンデリアはぐらぐらと揺れ、最終的にぼっきりとつらさげらた天井から折れて真っ逆さまに落ちていく。


「うわっ!」


 能のない俺が思わず逃げた方向がいけなかった。逃げた進行方向先に、田鶴さんと光奏さまがいることがわかっていなかったのだ。

 俺のデコイに妨害されて見つけられなかった目当てのものを視界に入れた「霞」は、自分の身体を頭上から拘束する翁長くんを揺さぶるほどに狂喜乱舞した。


「ケイアイノミコトさまっ、ケイアイノミコトさまっ、お力をくだだ、ください、くだささささい!」


 シャンデリアが落ちて、食堂がほとんど闇に呑み込まれてしまったせいで、『デコイ』がほとんど解けてしまったのもよくなかった。顔という唯一の取り柄がなくなった俺は、暗闇の中を鞭のようにしなる腕が伸びていくのを無力なかかしのように突っ立って感じることしかできなかった。

 闇の中を轟音とともに3度花火が散った。

 そして静寂が戻ったかと思うと、ぼうっと暗闇に一筋の光が差した。ぎこちなく振り返ると、両腕に懐中電灯を抱えた光奏さまが無事でいて、ほっとする。その横には、さっき撃ったであろう大口径の銃を片手に頭をかいている田鶴さんがいた。その足元には、撃ち落とされたのだろう千切れた腕が散らばっていた。芋虫のようにもぞもぞと床の上でもがくそれを、田鶴さんは鉄板入りの厚底ブーツで踏み潰した。途端にばらばらとそれらは形を失い、粉となり、最後には宙を舞って消えていく。

 真正面に向き直ると、翁長くんの獣の腕に囚われていた「霞」の額に大きな穴が空いていた。これも、田鶴さんがやったのだろう。


「ケ、ケケイ、ケイアイノミコトトト、さ、ま、ちから、力を……」


 掠れた声が光奏さまに絡み付くようにかけられる。端から身体が消えていってる今でも諦められないのか、懐中電灯の光で照らされたその異形の顔が必死に請う。

 その顔をひたと見つめた光奏さまは、ゆっくりと首を横に振った。


「私にはあなたを救えません。……ごめんなさい」

「あ、あ、ケケケ、ケイア、ノ、ミコ……」


 一気にそれは形をなくし、そこには最初から何もなかったように空白だけが残る。

 あとに残るは、しんとした暗闇だけだった。

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