第19話 決め事を作りましょう

 案内されたのはリビング。

 といってもその部屋だけで俺の実家の総面積くらいありそうな広いスペースの真ん中に、これまた大きなテーブルがあってその隅に置かれたベロアのソファに座らされた。


 日葵は落ち着かない俺を置いて「お茶、持ってきますね」とだけ言い残し、その場から消えてしまう。

 こういう時こそ傍にいてほしいのだけど、と。

 弱気になりながらきょろきょろとあたりを見回していると、今度は日葵の母が部屋に入ってくる。


「あら、座り心地悪かった?」

「い、いえ。すみません、他人のお家にお邪魔するのは久しぶりといいますか」


 元々友人が少ないこともあって、人様の家にお呼ばれするのは本当に稀なことだった。

 親戚の家でさえ、そわそわしてしまう俺がこんな大豪邸に単身招かれたとあれば、そりゃあ落ち着かない。


「あら、本当に玄から聞いてたとおり大人しい方なのね」

「は、はあ」

「でも、他人というのは水くさいわ。あなたは玄の恋人なんでしょ?」

「そ、そうです、けど」

「我が家と思ってくつろいでね。すぐ、あの子を呼んでくるから」

「は、はい」


 にこっと。

 俺に向けられた眩しい笑顔は、惚れ惚れするほどであった。

 やっぱり後輩女子の親とは思えない美貌だ。

 芸能人だと言われても何も驚かないその端正な顔立ちは、やはり娘にもしっかりと受け継がれているなあと。

 日葵とよく似たその笑顔を見て、彼女も大人になったらこんな風になるのかな、なんて勝手な想像を膨らませていると。


 あ、そうそう、と。

 部屋の入口で足を止めた日葵母がチラッと俺を振り返って、言った。


「あの子、彼氏と別れたことがないそうだから」


 いつか、どこかで日葵自身からも聞いたようなセリフに、心臓がばくんと弾んだ。

 そして、口はぱくぱく動くのに、何も言葉が出てこなくて。


 さっさと部屋を出て行く日葵母の後姿に額から冷や汗が零れ落ちたところで、聞きなれた声が聞こえる。


「せんぱーい、お母さんと何話してたんですかあ?」

「あ、玄……ううん、別に特には」

「ふーん、言いたくないこと話してたんですか?」

「そ、そうじゃないよ。他愛もない話だったから」

「へえ、他愛もない話、ねえ」


 なにか勘ぐった様子をみせると、日葵は俺の袖をきゅっと掴む。


「せんぱい、お母さんのことを見てどう思いました?」

「は? どうって……綺麗な人だなあって思ったけど」

「私より?」

「な、なんでだよ。彼女の母親だぞ? そんなわけあるか」

「ふーん。じゃあ、私が一番かわいいですか?」

「あ、当たり前だ。一番とかそういう問題以前にだな」

「清水さんより?」

「……訊くまでもないよ」


 確かに清水さんは綺麗だ。

 俺は今でも彼女のことを美人だと、そう思うけど。

 日葵は彼女にない愛らしさを持っていて、そっちに惹かれたのだからいいじゃないかと。


 正直にそんなことを話すと、日葵はふふっと微笑んだ後で俺の目をじーっと見つめる。


「な、なんだよ。嘘なんか言ってないぞ」

「知ってます。せんぱいが私に嘘なんてつけませんから」

「だ、だったら」

「せんぱい、清水先輩が柳さんとデートしてて、どう思いました?」

「どうって……柳もやるなあって」

「嘘、つかないでくださいね?」

「……嘘なんか言ってない」


 そう、嘘は言ってなかった。

 ほんとのことを、少し隠していただけで。

 でも、少しずつ曇る日葵の表情に、俺は耐えきれず口を割る。


「でも、清水さんは柳が好きなんだって思ったら、ちょっと悔しかった。いや、別に今更彼女とどうこうしたいわけじゃないんだけど」

「要するに、二人の関係に嫉妬したってわけですね?」

「し、嫉妬なんて大袈裟なことじゃ」

「ふふっ、慌てなくても怒ってませんよ。でも、そう自覚したうえでせんぱいは私と一緒にいることを選んでくれたってことですよね?」

「……そうだよ。俺はお前といるのが楽しいから。だから清水さんに淡い恋心を抱いていたのはあくまで昔の話だ」


 過去の話ではなく昔の話。

 日葵と付き合ってからの数日は濃く、清水さんに憧れていた一年ちょっとの時間は遠い昔のことのように隅に追いやられた。


 だからもう昔の話だった。

 名残惜しいとも思えない、遠い過去の気持ちだ。


「そうですか。ならよかった」

「よかったって……なあ玄、ちょっと心配しすぎなんじゃ」

「いいえ、好きな人のことはずっと考えてしまうものですよ。でも、せんぱいが二人にヤキモチをやいたせいで私はハラハラしました。だから、いっこお願いを聞いてくれますか?」


 さらに体の距離を縮め。

 こんな状況で日葵母が部屋に入ってきたらどうしようかと心配になるくらい近くに日葵が来て。

 さらに足を俺の太ももに絡めながら。

 耳元でささやく。


「もう二度と、私以外の異性の方とお喋りしないでください」


 さっきまで、懇切丁寧に清水さんへの気持ちに未練がないことを説明したはずだったが。

 不安が解消されなかったのか、日葵はそんなわがままで無茶なお願いを告げた。


「な、なんで?」

「必要ないからです。元々、清水さんとは仲良くもなんともなかったんですし、他の女子とはそもそも話さないでしょ?」

「そ、そうだけど。たまたまそういう機会だってないとは」

「その時は無視すればいいんです。そのうち向こうも話しかけてこなくなるでしょ」

「……」


 ちなみに今朝、日葵との会話で話題にあがったのが男女の友情について。

 俺は全くないとは言い切れないという話をしたが、日葵は一言「あり得ない」。


 男女に友好関係はあっても、友情は芽生えないと。

 あるのは期待感だけ。

 もしかしたらこの人と、男女の仲になるかもしれないとか。

 こいつと繋がっていたら得だとか。

 もっといい異性との繋がりを持てるかもしれないからとか。


 結局、損得勘定になるんだと。

 男女はそういうものなんだと。

 日葵は強く否定した後、そんなことを語っていた。


 だからだろうか。


「……まあ、そうしろっていうならそうするけど」

「よかった。せんぱいが素直で優しい人で」

「でも、不可抗力くらいは許せよ。挨拶とか」

「ダメです。やるなら徹底してください」

「……わかった」


 中途半端は嫌い。

 これも、日葵の性格だろう。

 仕事はその日のうちに最後まで。

 遊ぶなら徹底して遊ぶし勉強するならとことんやり切る。

 日葵はそういうやつだ。

 妥協を、許さない。


「じゃあせんぱい、話がまとまったところでこれから何します?」

「え、ええと。そういえば玄のお母さんにまだちゃんと挨拶してなくてだな」


 だからちゃんと話しておきたいと。

 そう言った直後、日葵は絡めていた足に力を入れて、俺の足を軸にしてするすると俺に密着して。

 俺にまたがってきた。


「お、おい。乗っかるなよ」

「せんぱい、話聞いてました?」

「え、な、なにが?」


 間近にある日葵の顔が、みるみるうちに曇る。

 そして、そっと俺を抱きしめるように寄りかかる彼女は、吐息を漏らしながら耳元で、言った。


「お母さんも、例外じゃありませんよ?」


 

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