第18話 チャンスは逃がさない

「せんぱい、おはようございます」


 朝、日葵の愛らしい声で俺は目を覚ますと、既に私服に着替えた彼女がベッドに肘をついて、俺の顔をニヤニヤしながら覗き込んでいた。


「お、おはよう」

「ふふっ、ぐっすりでしたね。昨日は激しかったですもんねえ」

「……うん」


 彼女の一言で、さっきまで眠っていた頭がカッと覚める。

 夢のようなあの時間は、しかし夢でもなんでもなく。


 俺は昨日、確かにこの手で彼女を抱いたのだ。

 それを改めて実感すると、朝から体が火照ってくる。

 

「せんぱい、朝ご飯食べたら一緒にお出かけしませんか?」

「い、いいけど。どこに行くんだ?」

「んー、私のおうちとか」

「玄の、家?」

「はい、両親に紹介したくて」


 そういえば今更すぎるというか。

 付き合って、することを済ませた彼女の家にまだ行ったことがないどころか日葵の家を俺は正確に把握していない。

 まあ、高校生同士が付き合ったくらいで家に挨拶に行くにも大袈裟だろうし、そんな奴もいるかとも思ったが、昨日彼女を抱いた罪悪感のようなものからか、日葵の親に遭うことを拒む気持ちにも、かといって積極的に会うのも気まずいと思い、言葉に詰まる。


「……」

「うちの両親、緩いですから。そんなに構えなくてもいいですよ」

「今日、お前が俺の家に泊まってることは」

「もちろん知ってます」

「……気まずいよ、やっぱり」


 責任をとるとらないなんて大袈裟な話ではないにしろ。

 無責任に、後先考えず欲望に身を任せて日葵を傷物にした自分が彼女の親に何食わぬ顔で会うというのは、やはりハードルが高い。


 もし仮に、いつか彼女と結婚するような日がくれば俺だって腹をくくるけど。

 まだ付き合って数日の自分にそんな覚悟も決心も固まってはいない。

 だからやんわり断ろうとしたが、俺の浅はかなせこい考えはどうやら見透かされていたようだ。


「せんぱい、もしかして私とえっちしたことを後悔してます?」

「そ、そんなわけあるか。俺だって、嬉しかったよ……」

「だったらいいじゃないですか。好き同士、そういうスキンシップは普通のことですよ。うちの母も若くして結婚してますし、その辺は寛容ですから」

「……本当に、行っても怒られないのか?」

「はい。なんならご馳走が出てくるまであります」

「……わかった」


 臆病な俺は、ここまで彼女に言わせてようやく重い腰をあげる。

 決意した、とまでは言い切れないが、少しずつ覚悟するというか観念する形で今日は日葵家にお邪魔することを決めた。


 そうと決まればと急いで準備して。

 今日は朝食を食べずに一緒に部屋を出た。


「あはっ、朝帰りってやつですねこれ」

「お、おい。声が大きいよ」

「いいじゃないですか。それより、昨日清水先輩たちはあの後どうしたんでしょうね?」

「さあ。柳はああ見えて紳士だからな。さすがに何もないんじゃないか」

「へえ。じゃあせんぱいの方が獣さんだったというわけですね」

「……」


 柳と清水さんのことはあまり考えたくなかった。

 仮にも一度好きになった女の子が親友とくっつくことを手放しで喜べるほど俺は経験豊富でも器量の大きい人間でもない。

 かといって、嫉妬したり腹立たしく思うのも違う。

 やはり心のどこかでは親友や好きだった人の幸せを願っている。


 俺も日葵とうまくいって、今は順風満帆なんだ。

 彼らもうまくいっていればそれに越したことはない。


「さっ、行こう。玄、家は近いのか?」

「はい、歩いて少しですよ」


 言葉通り、アパートを出て数分歩いたところで日葵が「もうすぐ見えますよ」と。

 この辺りは住宅街で、似たような家がずらっと並んでいる。


 その中で一軒だけ、誰もが一度は立ち止まって見てしまう豪邸がある。

 まず、敷地が横に滅茶苦茶長い。

 数軒くらいが丸っと入りそうなほどで、その端には大きなガレージがあり、高級外車が数台見えるその横には屋敷のように大きな家が聳え立つ。


 なんとまあすごい家だと、俺も前を通った時は何度も見上げたものだが。

 日葵は、なぜかその家の前で立ち止まった。


「どうした?」

「着きましたよ、おうち」

「ん? どれだよ」

「これですよ。うち、結構広いでしょ」

「……まじか」


 その豪邸こそ、日葵の家だと彼女は当たり前のように紹介する。

 

「さっ、入りましょ。お母さんいるはずなので」

「え、えと」

「あれ、どうしました? もうお母さんには一緒に帰るって言っちゃってますよ?」

「……」


 まさか日葵がこんな大豪邸に住む金持ちの娘だとは、思いもよらなかった。

 そして俺のような庶民は金持ちというだけでびびってしまう。

 しかし、今更どうしようもない。

 日葵は戸惑う俺の手を掴んで、ぐいぐいと引っ張っていき。


 大きな門を開けて、敷地の中に連れていかれた。


「ひ、広い……」


 庭だ。

 大きな庭があった。

 少々大袈裟だが、そこで少年野球くらいできるんじゃないかってくらいに広い庭だ。


「庭って手入れが面倒ですよね。私、将来はマンション住まいの方がいいなあ」

「そ、そうかな? 庭付きの一軒家って憧れるけど」


 ていうか一軒家の規模じゃねえけど。

 ちなみに俺の実家は庭もない小さな平屋だ。

 まあ、田舎だったので近くの田んぼや公園が庭みたいなものだったし、そんなものが欲しいと思ったことはなかったけど。


「あら、帰ってきてたの?」


 大きな庭の真ん中でキョロキョロしていると、少し離れた家の玄関から人が出てきた。

 綺麗な女性だ。

 ツンとした表情は、どことなく日葵に似ている。

 

「あ、お母さんただいま。うん、今帰ってきたの」

「そう。そちらの子がさっき話してた玄の彼氏?」

「うん。城崎せんぱい。かっこいいでしょ」


 えへへー。

 と、俺にじゃれる日葵は目の前の若い女性をお母さんと呼んでいた。

 お母さん……お母さん!?」


「え、お母さんですか!?」

「あら、いきなりお母さんなんて気が早い子ねえ」

「あ、いえすみません、つい……」

 

 びっくりしすぎて色々やらかしてしまった。

 まず、はじめましての挨拶もしないうちに相手の母親をいきなりお母さん呼びはちょっとヤバい。

 失礼な上に、距離の詰め方が気持ち悪い。


 それに、近所迷惑なくらい大きな声が出てしまった。

 でも、それくらい衝撃だった。


 家のメイドさんか、お姉さんか誰かかとは想像がついてもまさかこんな美人な人が彼女の母親だと誰が想像できようか。

 普通にその辺を歩いてたら、女子大生くらいにしか見えないぞ?


「まあまあ、こんなところで立ち話もなんですから中に入って」

「そだね。せんぱい、中いこ?」

「う、うん……」


 また、日葵に引っ張られながら今度は家の中に連れていかれた。

 玄関は意外と普通だった。

 ちょっと高級そうな水晶や置物が目についたが、それくらい。

 ただ、玄関で靴を脱いで家にあがった時に、廊下の向こうにある掛け軸が目に入った。


 達筆な毛筆で、そこにはこう書かれていた。


『奇貨可居』


 なんと読むのか、また、どういう意味の四字熟語なのか。

 見慣れない文字に少し見入ってしまった俺に対して、横で日葵はクスクス笑いながら、


「好機は逃がさないのが、日葵家の家訓ですから」


 と。

 そう言って、また俺の手を引っ張って更に奥へと連れていかれた。

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