第15話 不意に
「せんぱい、ぎゅってしてください」
家に到着するや否や、玄関先でまだ靴も脱いでいないうちにそんなことを言われた。
「こ、ここで?」
「はい、私を潰すくらいぎゅーって」
「な、なんでまた」
「私、好きな人にハグされるのが夢だったんです」
夢とはまた大袈裟だが。
しかしそれなら部屋に入ってゆっくりしてる時でもいいじゃないかとも思ったけど。
どうしても今だというから俺はゆっくり日葵の後ろに手を回す。
「こ、こうか?」
「はい、そのままぎゅっと」
「……これでいいか?」
ちいさくて、少しあたたかくてやわらかい。
日葵の抱き心地はそんな感じだ。
それに、さっきから俺の下腹部辺りに彼女の胸が当たる感触がヤバい。
小さな体のわりにしっかりとあるその胸が俺を興奮させる。
「も、もういいかな?」
「せんぱい、私って男の人と別れたことないの、知ってます?」
「……え?」
小さな手で強く俺の背中を締め付けながら、日葵はそんなことを言う。
「男の人と付き合うのも初めてで、別れたことも、別れる予定も今後ありませんから。意味わかります?」
「……なんとなく」
「察しがいいせんぱいも好きですよ。絶対に私から離れないでくださいね」
「……ああ」
この時、少しだけよからぬことを頭によぎらせた。
聞いてみたかった。
もし、日葵から離れると俺が選択したらどうなるのか、と。
もちろんそんなつもりもなく、不安をあおるだけのことを聞く必要なんて全くないので口にはしなかったけど。
なぜか爪を立てるように彼女は俺の背中の肉に指を食いこませてくる。
「い、いたいよ日葵」
「玄、ですよ。せんぱい、私と離れたらどうなるかわかります?」
「な、なんでそんなこと訊くんだよ」
「知りたそうにしてたから」
「……どうなるの?」
なんで彼女が俺の考えを手に取るように理解できたのかはわからないが。
知りたいのは事実だった。
そして、聞くんじゃなかったとも。
「せんぱいは冷たくなっちゃいます」
その声は冷たく、俺は背筋が凍った。
冗談や酔狂ではないと、はっきりわかるほどにその声は重く玄関に響く。
しかし、
「なんちゃって。冗談ですよ」
と、日葵はおどけて俺から距離をとる。
その時の顔はいつもの笑顔で、俺は少しばかり頭が混乱した。
さっきのは一体なんだったのか。
あれも演技だというのなら、日葵はきっと大女優になれる素質をもっている。
……。
「せんぱい?」
「あ、いや……お前が変なこというから」
「あー、ビビっちゃったんですか? あははっ、私がせんぱいを傷つけるわけないじゃないですか」
「そ、そうだな。でもそういう冗談はやめてくれよ」
「はーい」
やはり冗談だったようで。
それがわかっただけで俺は心底安堵した。
その場で腰を抜かすほどに力が抜けながら、先に靴を脱ぐ日葵を追うように慌てて靴を脱ぎ捨てて部屋にあがる。
その時、日葵は言った。
俺の方も見ず、少しずれた靴下を直しながら。
「でも、冗談で済むようにしてくださいね」
◇
「はい、せんぱい。あーんしてください」
「あ、あーん」
「ふふっ、かわいいですねえ。せんぱいはいい子なのでよしよししてあげます」
「や、やめろよ子供扱いは」
「せんぱいの髪、サラサラしてるので。なでなで」
「……」
さっき聞いてしまった日葵の言葉はなんだったのか。
そんなことを考えながらもすっかりいつもの調子ではしゃぐ彼女と一緒に今は冷蔵庫にあったチョコを食べているところ。
「なあ玄」
「なんですか?」
「ええと、玄は今までに付き合った奴とかはいなかったんだよな」
「はい、いませんよ。好きになったのもせんぱいが初めてです」
「そ、そっか」
「せんぱいも付き合った人はいないって言ってましたよね」
「ああ、いないよ。そもそも俺にモテる要素なんて」
「見る目ないなあみんな。せんぱいはこんなに素敵なのに」
「……ちなみにどの辺が?」
「よく見れば男前だし、優しいし絶対に浮気できなさそうだしー」
顎に指をあてながら「あとはー」と上目遣いでとぼけた表情を見せる彼女は、最後に「そうそう」と思い出した様子で、
「せんぱいってすごく私の理想通りなんですよね」
そう言って日葵は軽く俺にキスをした。
「お、おい」
「あはっ、びくってするのかわいいです。そういうところ、好きですよ」
「ふ、不意打ちはなしだ」
「どうして?」
「……びっくりするだろ」
「びっくりさせたいんです。いやですか?」
「……」
さっき俺の口に触れた彼女の唇を湿らすように舌をペロッと出す日葵のあざといともいえる表情が俺を狂わせる。
かわいいと、素直にそう思ってしまうのは男子たるものの宿命なのか。
色々と言いたいことがあったはずなのにもういいやって気分にさせられる。
そんなことより彼女が次に何をしてくれるのかと、期待ばかりが俺の脳内を支配する。
「……もういいよ。それより、遅くならないうちに送っていくよ」
しかし、手を出す勇気がない。
ヘタレかもしれないが、それ以上に彼女を抱いた後の自分が正常でいられる自信が持てないのだ。
沼にハマりそうなというか、茨にからめとられそうというか。
とにかく彼女とイチャイチャするのは楽しいしもっとそうしたいとも思うわけだけど。
なぜかそうしたらまずいと、ブレーキがかかる。
ただ、そんな俺のブレーキを彼女はいとも簡単に破壊する。
「せんぱい」
「な、なんだよ」
「せんぱい、今日は大丈夫なんですよ」
「な、なんの話だ?」
「んー。回りくどく言えば、今日はおうちに誰もいないんです」
「だ、だから?」
「もー、わかってるくせに」
もちろん、日葵の言いたいことはわかっていた。
でも、それを認めたら最後な気がして。
だから敢えてわからないふりをしたが、そんなのは無駄な抵抗にすらならなかった。
「今日はせんぱいのおうちにお泊りします」
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