第111話
老化。それは、生体の万遍無い劣化を意味する。視力が落ちるとか、しわやたるみができるとか、そんな分かりやすい話だけではない。おつむの機能も低下して、物は覚えられず、覚えても忘れ、並行作業が難しくなり、怒りっぽくなり、待てができなくなる。さらに、傷ができたり病を得たりすると、ちっとも治らなくなる。治っても跡が残る。長引く。悪いことずくめである。たぶん、死という定めを諦めて受け容れるための準備だろう。こんなに不具合だらけなら死んだ方がマシやん、という。
生憎とまだそこまで至っていない中途半端な中年の私は、死ぬほどでもない苦しみのさなかにある。風邪を引いて、ちいとも治らないのである。若い頃は、カーッと熱が上がって一晩寝れば大概落ち着いたものだったが、だら~だら~とまんじりとせぬ発熱っぷりが続いて止まない。おかげで、私の大好きな週末が台無しではないか。プリプリ。
寝過ぎでいささか腰が痛いが、起きるのもしんどいので、とりあえず寝床に引き込もる。そうしていると、玄関がガチャガチャと鳴る音が聞こえた。我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョが帰宅したらしい。何しろネコなので、勝手気ままに外をブラブラ散歩してくるのがメニョの日課である。ネコではあるが、窓を開け放しで出たりはせず、チャンと玄関の戸締りをして出かける。
玄関に置いてある足拭きマットで肉球を拭い、ぽてぽてと中に侵入。あ、トイレに入った。帰宅するとトイレに行きたくなるのは私と同様らしい。ジャーッと流して、おお、嫌々ながら洗面所で前足を洗っている音がする。こら、もう少ししっかり洗いなさい。その水量、ちょっと濡らしただけだろう。
などと、逐一聞き耳を立てているのは、私がひたすら暇だからである。睡眠もしっかりとったので、今は眠くない。本も読んでしまった。メニョを眺めるくらいしか、することが無い。
「メニョー。」
暇だから呼んでみる。すると、してぽてと足音高くメニョが現れた。
「ねーん」
「暇だよーう。」
顔を出したメニョに、文句を垂れる。
「何か面白いことをしてくれよ。」
と、私はメニョに無茶ぶりをしてみた。が、メニョは座して黙するのみで、返事の一つもしない。まったく、お手とかお回りとか、ひとくさりやってくれてもいいのに。ネコというものはイヌほど芸が無い。
しょうがないので、私はもふ毛で遊ぼうと手を伸ばした。そして、何かが付着していることに気付いた。
「ん、何か付いてる。何だこれ。」
「ふあ」
摘まんで取ると、橙色をした小さな花であった。金木犀である。鼻が詰まっているので匂いは分からないが、嗅げれば良い香りがしたに違いない。
「おおメニョ、風情のあるお土産だなあ。そういや、そんな季節だねえ。」
少し前から、通勤途上のそこかしこでふわんふわんと金木犀が香っていた。ついつい、トイレの芳香剤だと思ってしまうが、本物はもっと上品である。とはいえ、まことにあの芳香剤は実物の香りを良く再現している。
「メニョも良い香りなのかな。」
私はたまらず、メニョの背中に鼻を突っ込んだ。ぐずずずずと汚らしい音を立てながら頑張って息を吸ってみるが、メニョの匂いしかしない。うむ、いい香り。されど、鼻が痛い。
「うーん、分からんなあ。」
「ぬう」
金木犀が分からんくせにメニョ香だけを楽しんでいたら、メニョに追い払われた。しょうがないので、私は顔を離す。
「どこ行ってきたんだ。この辺に金木犀ってあったっけ。」
「ういーん」
ウィーン?いや、あり得ないから、違うのだろう。やはりメニョの答えは分からない。日頃からメニョ語が聞き取れない私であるが、風邪というステータス異常の今なら何かがどうにかなって理解できるようになるかも、と期待したが、ダメらしい。
しょうがないので、私はまたぞろ本を読み直したり、冷や飯で卵雑炊を作って昼飯にしたりして、おとなしく我が身の回復を待った。メニョはその間、掃き出し窓のそばの日向に新聞を敷いて、縦になったり横になったり、伸びたり縮んだりしている。たまに私がもちもちのメニョ腹を枕にせんとして挑みかかるので、それを後ろ足で蹴り飛ばすことも忘れない。忘れてくれてもいいのに。
そうこうしていると、体力の低下している私は、昼下がりにはまた眠くなってくる。メニョを枕にしたいけれどもさせてくれないので、やむなくベッドにもぐりこんでうつらうつら。風邪を引いていると眠りが長くて浅い。半分夢で半分うつつのような心地で過ごすうちに、はっきりと意識を取り戻す頃には日が傾いていた。枕元に置いておいた緑茶を二口ほど飲んで、息をつく。
「メニョー。」
特に用はなくとも、夕方は何となく寂しい。だからメニョを呼んでみたけれど、応答がない。私は寝床から起き上がり、メニョを求めてウロウロした。台所にも居間にもいない。二階も念のために覗いたが、いつもどおり薄暗くて埃っぽいだけでネコの仔一匹いない。メニョはまたぞろお出かけだろうか。
「ぶえっくしょいっ」
くしゃみが出て鼻をかんだら、急に鼻が開通した。そう言えば、身体も随分と楽になっている。これは良い兆候ではないか。けれど、夕方は寂しくて、心は沈む。
「メニョ、早く帰って来んかなあ。」
思わず、掃き出し窓から暮れ行く空を眺めて嘆じる。
と、玄関からガチャガチャと物音が聞こえてきた。私はいそいそと玄関に赴いた。いつもはメニョが私を出迎えてくれるのだ、たまには逆も良かろう。いやしかし、待てよ。帰宅した私がメニョに対して行うがごとく、メニョが執拗に私に抱きついて腹やら毛やらを揉みまくって匂いを嗅ぎまくったらどうであろうか。ちょっと、いや、かなり引くぞ。どうしよう。
病後の明晰な精神の訪れなのか、唐突に我が身の変態性を客観視してしまった私は、戸惑いを覚える。が、メニョはそんなことお構いなしに玄関の戸をがらりと開けた。
「うにゃー」
「お、おお、おかえり。」
動揺する私には構わず、メニョは戸を閉めて、足の裏をマットで拭う。
「にゃ」
マットの上で四つん這いになったまま、メニョがこちらを見上げている。まさか、本当に私をモフろうというのか。私には年相応に密度の低下した頭くらいしか毛の密集地帯は無いのだが。しかし、やむをえまい、常日頃の行いが我が身に跳ね返ってきているということ。正に因果応報、受け容れねばならないだろう。
私はその場に膝をついて、メニョの高さに合わせた。
「ふあー」
メニョがぬりっと額を私に擦りつける。が、これはごく普通のネコのご挨拶。それだけを済ませると、メニョはまたじっとこちらを見つめた。
「ん?どうした?」
「にーん」
何か言いたいようだが、よく分からん。が、ちらりとメニョが視線を向けた先は、メニョ自身の背中である。薄暗くて、中年の老眼ではよく見えないので、私は立ち上がって電気を付けた。明かりに照らされたメニョの背中には、橙色の花が散りばめられている。
「あれ、また金木犀?」
「にゃ」
「今度はいっぱいあるなあ。」
私は再度屈んで、メニョの背中に鼻を近付けた。金木犀の香りが漂ってくる。メニョに載っている花殻の香りか、メニョ毛皮に染み付いた香りなのかは分からない。が、治りかけの私の鼻腔にも優しく甘い香りがしかと届いた。
「良い香り。メニョが秋だ。」
「あむ」
病身の私に代わって外からこんな花便りを持ってきてくれるとは、何とよくできたネコであろうか。私は金木犀とメニョの匂いを胸いっぱいに吸い込み、感動する。メニョのこの温かい心遣いがあれば、私の風邪などあっという間に吹き飛んでしまうだろう。涙がにじみそうになり、私は慌ててティッシュで垂れてきた鼻水を拭った。
すると、私がすっかり満足したと判断したのか、メニョはすうっと私の脇をすり抜けて行った。そして、居間でブルブルッと激しくネコドリル。当然、メニョに付着していた数多の花が蹴散らされ、床に落ちる。メニョはそれに目もくれずに、用は済んだとばかりにほてほてと座布団に向かって行ってしまった。
「おーい、メニョ。これ、片付けないの?」
私の呼びかけにも応じず、座布団の上で念入りな毛づくろい。
「えー、片付けまでが遠足ですよ?」
私はメニョに近付き、腹毛に顔を埋めての匂いを嗅いだ。金木犀の匂いはすっかり失せ、メニョの香りで一杯である。
「ぬー」
顔を蹴られる。なんでやねん。先ほどの感動も、何かの間違いだったか。
私はメニョから離れ、床に散乱している金木犀の花を眺めた。数秒思案し、決断。しばらくは、床の模様兼芳香剤ということにしておく。今掃除する気にはなれない。私はぷいっと居間に背を向け、また布団に潜り込んだ。何とも、儚い感動であった。
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