第112話

 名物に旨い物無しだったか、名物に旨い物有りだったか、すぐに忘れる。名物だからと言って必ずしも旨いとは限らないが、まずいものしかないわけでもない。旨い物有り、の方が正しいような気がする。


 さりとて、北関東の郷土料理であるしもつかれは、大層まずいと評判である。まあ、評判と言っても、隣席の同僚がそう言っていただけだが。会話をどう進めたらそうなるのか全く見当もつかないのだが、外部と電話をしながらしきりにしもつかれとやらの悪口雑言を垂れ流しにしていたのである。相手とはかなり盛り上がっていたようではあるが、業務に関係があるかと問われたら厳しいところであろう。


 兎にも角にも、どれほどのものかと気になって、帰宅してすぐに調べてみた。見てくれはネコの吐き戻しで、材料も作製法も美味しそうとは思えない料理であった。


「うわー、これ、どんな味なのやら。」

「くけ、くけ」


 けぷ、とネコの吐き戻す音がした。我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョが吐いたらしい。ネコはよく吐く生き物である。そして、吐いてもけろりとしている。


 私はロールペーパーを手にして、音のした方に向かった。ネコの糞のようなかりんとうのような形状の灰色のものが、草の端切れと共にフローリングの上に落ちている。夕食前なので胃は空っぽ、よって吐き戻しもしもつかれ的な様相にはなっていない。食道で細長く成形されたネコ毛塊と、庭の雑草というシンプルな構成だ。こういう時は掃除しやすくてよろしい。消化されかけのどろどろを畳の上にぶちまけられると、非常にてこずる。


「メニョ、吐いちゃったんなら、晩御飯までちょっと時間置こうか。」


 私は台所にいるメニョに声を掛けた。人間ならば嘔吐直後にお勝手をやるのはかなりしんどいだろうが、メニョは平気な様子だ。食べてすぐ吐いた時には流石にちょっぴりしょんぼりするのだが、毛玉だけだとメンタルにもあまり影響がないようだ。暢気に鍋で何かを煮込んでいる。


「ふあー」

「ハラヘッタってか。でも、すぐ食べるとまた吐くんじゃないか?しもつかれは要らないぞ。」

「えー」


 えーって。何かご不満ですか。と思ったら、調理台の上にカレーの箱が置いてある。今日はカレーにするつもりらしい。匂いがしていないから、まだルウは溶いていないはずだ。


「要らないのはカレーじゃなくて、しもつかれだよ。カレーは食べる、食べる。」

「にゃ」


メニョは引き出しからホワイトシチューのルウを取り出した。カレーもシチューも、途中までは同じ汁だ。まだ未来は決まっていない。


 カレーだ、と思った瞬間はカレーが食べたかったのだが、シチューの箱を目にしてしまった今、シチューにも心惹かれる。カレーか、ホワイトか。うむむ。


 よし、こんな時は具材で決めよう。メニョはオリジナリティと健康志向の豊かなコックである。カレーやシチューだからと言って、ジャガイモとニンジンしか入れないという固定観念は無い(ネコなので玉ねぎは使用できない)。大根、ゴボウ、ナス、トマト、セロリやキュウリのぶつ切りに、時には糸こんにゃくも登場する。カレーヌードルみたいで美味しい。肉は鶏手羽元が最も多いが、たまに豚こま切れやシーフードミックスだったりする。なお、牛肉は高いせいか、メニョは殆ど買ってこない。よくできたネコであるメニョは、我が家の経済状況をよくご存じなのである。まあ、単にメニョが牛の匂いを好きでないだけかもしれないが。


 という訳で、本日の具材は何かな。と覗き込むと、秋の装いであった。私が一口大に切っておいたカボチャに、しめじ、しいたけ、えのき、まいたけ。キノコ三昧だ。なめこまで入っていやがるぞ。この緑色は、ブロッコリーの軸だな。肉は豚こまか。となると、ホワイトかな。いやしかし、キノコカレーも捨てがたいぞ。むむむ。


 しきりに唸っていると、メニョがまた引き出しから箱を取り出した。何と、デミグラスシチューのルウである。


「なんてこった。選択肢が増えちまった。」

「にゃー」


さらにメニョは冷蔵庫から味噌を取り出した。豚汁!その手があったか。って、新しい発見に喜んでいる場合ではない。益々迷うではないか。


「ぐぬぬぬ」


 弱火に掛けられてくつくつしている湯面を睨みながら、私は逡巡しきりである。カレー、と思うと味噌が気になり、味噌、と思うとデミグラスが私を呼ぶ。でも、ホワイトが真正面にどんと控えているし。


「にゃー」


 私を迷わせた張本ネコが、私をせっつくように物申す。


「だってなあ」


と私が振り向くと、メニョが味噌の横にまたぞろ何かを追加した。ごとり、と重量感のある音を立てたそれは、ネコ缶であった。


「悩んでるなら先にメニョのご飯ということかな。」

「にゃい」

「でも、メニョ、さっき吐いたばっかじゃん。平気なのか?吐き戻しの掃除は嫌だぞ。」


ぶいん、と太いしっぽが揺れて私の膝裏を打つ。大丈夫、と言いたいのだろう。


 しょうがない。なかなか決められないし、先にメニョのご飯を準備しよう。私はメニョどんぶりにネコ缶を空け、カリカリを流し入れた。メニョの食事台にどんぶりを置き、早速メニョがもりもり食べる様を眺める。もう少し噛めばいいのに、と毎度思う食べっぷりである。吐くかもしれぬと考えて古新聞を手元に置いておいたが、食べ終わったメニョは余裕綽々で顔を洗っている。そうしてひとしきり清掃が済むと、お気に入りの座布団に直行してどてんと丸くなった。ふー、と鼻水を飛ばしながら満足そうにため息までついている。


 うむ、これなら大丈夫そうだな。茶色いしもつかれを見ずに済みそうだ。そう考えた私は、ピコンと閃いた。茶色いカレー。今日は、カレーだ。


「メニョ、決めた。カレーにするよ。初志貫徹で、今日はカレー。」

「ふーん」


 気のない返事をして、メニョは顔を腕の中に埋めた。さらに、しっぽで蓋。完全防御態勢である。


「あれ、作ってくれないの。」

「…」

「ちょっとちょっと、シェフ、料理が途中ですよ。」

「…」


ネコの狸寝入り。ぴんぴん、とたまに耳が動くので、寝ていないのはバレバレである。が、梃子でも動かぬという意志は感じられる。


「食ってすぐ寝ると牛になるんだぞ。こら、牛ネコ。」

「…」


何を言っても聞きやしない。牛みたいなカラーリングしやがってからに。んもう。


 くそう、こんなことになったのは全部しもつかれのせいだ。というか、しもつかれについて延々話し続けていた同僚のせいだ。ちっきしょう。許すまじ。私は玉ねぎを切ってチンして鍋に加え、カレーのルウを溶きながら、虚空に向けてやたらと正拳突きを放ちまくったのであった。

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