第110話

 歳をとったせいか、昔のことをよく思い出す。


 高校の頃、同級生に気の好い奴がいた。朗らかで、ムードメーカー的な面があり、いつも笑っていて、誰かを悪く言うところを見たことがない。無論、失敗して落ち込んだり、愚痴をこぼすことはあったが、人を攻撃するような発言は皆無だった。


 だが、ある日その同級生は、全てが憎い、と感じた。頬を赤くして駄々をこねる幼児も、ぐずる赤子を抱える母親も、動きの緩慢な老爺も、全てが憎かった。


 同級生は当時、インフルエンザに罹患してその症状のピークを迎える頃であり、季節柄どうしても混みあう診療所の待合室で非常に苦しい思いをしていたのである。どうやら、心のゆとりとか良心というものは、体調が万全でなければ十分に発揮できないようである。


 気の好い同級生でさえそうだったのだ。日頃から狭量な私が体調を崩したらどうなるか。夜叉となるのである。


 朝方、妙に寒いと感じたのだが、実際に気温も上がったり下がったりの季節である。予報でも本日は気温が上がらず冷え込むとのことであったので、寒いのは当然だと思った。私はちょっとだけ厚着をして出社したが、やる気が出ない。だるい。疲れる。さりとて、これもいつものことなので、気にしていたら給料がもらえない。小人さんに身体の操縦を任せて午前中をやり過ごした私は、昼休みに自我を取り戻して弁当を広げた。


 私の弁当は、身の丈四尺の飼いネコであるメニョが作る愛猫弁当である。毎日美味しい。これを食べる間だけは私は私らしく在れる。


 のだが、どうにも食欲が湧かない。食べないと午後に体力が持たないので、とりあえずおかかごはんを一箸口に入れる。どうも味が薄い。そして、気持ちが悪い。私はため息をついた。


「沢田さん、どうしたんですか。とうとう、素材そのまま弁当に飽きたんですか。」


 隣の同僚がジャンクなから揚げの匂いをまき散らしながら言った。コンビニで買ってきたようだ。


 今の私に、饐えた揚げ油とニンニクその他もろもろ調味料の入り混じった匂いは、強烈すぎる。こいつは結構な頻度でこのから揚げを食っている。いつもいつも悪臭をばらまきおって。スメハラとはこういうことを言うのではないか。こんな物ばかり食っているから健康診断の前に慌ててダイエットなどとほざくのだ。愚か者めが。ああ、くさい!


 私は弁当箱の蓋を閉じた。吐き気がこみあげて、とても食べものが喉を通りそうにない。何もかも同僚のせいだ。気に入らん。


「お弁当、傷んでたんですか?それなら、おにぎり一個分けましょうか。余分に買っちゃったし。」


 うるさい、うるさい。メニョの作る弁当なら多少痛んでいたって食っても平気だ。というか、傷んでいたことなんかない。メニョにケチ付けるだなんて、こやつは直ちに地獄に堕ちるべきである。


 私は日頃はこの同僚をいないものとしてその失礼な発言を聞き流すことができる。だが、今日はやけに癪に触って、思わず睨みつけた。


「あれ、沢田さん、何か顔赤いですよ。目もうるんでるし。風邪ひいたんじゃないですか。」


む?


 私はそこでようやく、体調の変化に気付いた。やる気の無さは常に底辺なので変化はないが、だるさも、疲労感も、腰の痛みも、平常より強いではないか。何たること。


 私は速やかに午後半休の手続をとり、家路についた。道中で己の振る舞いを振り返り、忸怩たるものを感じる。全く大人げなかった。同僚の一挙一動に、あんなにも心の中で喚き散らす必要はなかった。ちゃんと落ち着いて無視すれば良かっただけなのに。


 しかし、そのように反省する傍らで、電車の込み具合にイライラし、最寄り駅から自宅までの長い道のりにうんざりし、楽しげに下校している小学生を腹立たしく感じる。


「ただいま…」


 私は心身ともへとへとになって玄関に倒れ込んだ。外界の万物に対して苛立ちを募らせっぱなしというのは、とても精神が疲れる。やめれば良いのだが、反射的に悪しき感情が噴出するので何ともならない。これが私という人間の本質か。嫌になる。


「にゃー」


 いつもと違う時間に帰ってきたからか、やや遅れてメニョが登場した。元気が出なくてなかなか家に上がれない私を訝しんで、くんくん匂いを嗅いでいる。こんな時はメニョで充電したいが、風邪をうつすかもしれないからまずは手洗いをしないと。そう思うのだが、帰るだけで私は体力を使い果たしたらしい。腰が重くて動けない。


「ふにゃーう」

「風邪ひいた…」


 私は弱弱しく申告した。メニョがネコの割には広い額をぬりぬりと私にこすりつける。日向ぼっこをしていたのだろう、背中の黒い模様からふわんとお日様の香りがした。自慢じゃないが、私はひどい風邪を引いても、メニョの匂いだけは分かる。そして、その匂いを嗅げば勇気りんりん、元気百倍となる。もっとも、元の値がかなり低下しているので、百倍になってもギリギリ家の中で動けるだけなのだが。


 私はよたよたと立ち上がって手を洗い、メニョを撫で回した。毛皮に顔を突っ込んでふすふすとメニョを吸い込みたいところだが、風邪っぴきのすべき行為ではない。それくらいは私にも分別がある。


「うう、めにょ~しんどい~」

「うあー」


メニョは私の手からぬるりと抜け出した。うう、こんな時くらい思い切りモフらせてくれても良いのに。中腰のまましょぼくれていると、メニョが私を背後から強く頭突きした。


「ぬうう」

「やめれ、やめれ、コケる。」


 私はメニョに押されるまま、寝室に入った。ふう、と一息ついているとメニョがパジャマを足元に置いた。


「着替えて寝ろってことかね。」

「にゃふ」

「おっしゃるとおりでござんす。」


 私はぽいぽいと通勤着を脱いで、ゆるゆるな寝間着に着替えた。その隙に、私の脱ぎ捨てた靴下やシャツをメニョが咥えて洗濯機まで持って行ってくれる。ありがたい。ありがたいので、鼻の頭にしわ寄せたような顔をしないでくれ。今日は半日しか穿いてないし、靴下臭くないもん。シャツも加齢臭しないもん。


 しょぼん。どうやら、何もかもに攻撃的な気分だった私から、何に対しても落ち込む私に生まれ変わったらしい。病状が進行すると、怒る元気もなくなるということか。私は布団の中に潜り込んで、目じりの涙をぬぐった。泣いたわけではなくて、熱で目がしょぼしょぼするのである。うう。結構熱が上がってるようだ。


 もう眠るしかない。観念して目を閉じた。ああ、そうだ、お弁当食べられなかったことをメニョに言わなきゃ。冷蔵庫に入れてけば、夜に食べてもいいだろう。お湯をかけてお茶漬け風にすれば流し込める気がする。ああ、でも、まぶたが重い…


「うあ」


ん。


「ぬううう」


眠いんだが、一体何事か。


「ふうううう」


何で風邪ひいて寝てるだけでメニョに唸られにゃならんのだ。


 私は眠りに落ちる前に何とか目をこじ開けた。すると、メニョが白い布切れのようなものに襲い掛かられているところであった。


「何してんだ、メニョ。」

「ふあー」


情けない声を上げたメニョの毛皮に、よじれた布切れがベトリと張り付いている。メニョの足元を見ると、冷えピタの箱が落ちている。


 私は重い体を起こして、メニョの毛皮から白い布切れを引っぺがした。案の定、冷えピタである。クチャクチャに撚れている上に粘着面が毛まみれで、再起不能だ。やむなし。私は丸めてゴミ箱に放り込んだ。


 と、その隙にメニョがまた新たな一枚を箱から取り出している。一生懸命ネコ手で透明フィルムをはがそうとしているのだが、ネコ手は物を摘まむようにはできていない。ああだこうだとこねくり回しているうちに自分にくっついて、気持ちの悪い冷感と粘着感で、


「ふうううう」


また唸ってら。


「しょうがない奴だなあ。」

「ふあー」


 私はまたメニョから冷えピタをはがした。あまりしわになっていないから、これは使えるかもしれない。私ははがしたそれをそのままペタリと額に貼ってみた。


「ん、いけるぞ。」

「にゃ」


 私はそのままそっと横たわった。毛で多少は粘着力が落ちているが、何とかなりそうだ。冷やっこくて気持ちいい。これで治るものではないが、何となく楽になる。


「メニョ、ありがとな。」

「ふあ」

「あ、お弁当、食べられなかったんだ。冷蔵庫入れといてよ。夜食べるからさ。」


 メニョが通勤鞄から弁当箱を取り出したのを確認して、私はまた目を閉じた。目玉が熱い感じがする。まぶたの裏が冷やっこい。


 あ、そうだ。私はあることを思いついてメニョを呼んだ。


「にゃー」


まだいた。よしよし。


「私の目の上にさ、肉球乗っけてよ。」


私は目を閉じたまま、指でまぶたを示した。ぽてて、と微かな足音がしたと思ったら、ふっと冷たくて柔らかい感触が両目の上に訪れた。メニョが前足を載せてくれたらしい。


 ふむ、なるほど。これが梶井基次郎の求めた快楽か。


 目玉が圧迫されて、固定されて、苦しい。


 メニョが平均的なネコより大きいせいか、メニョの腕力が強いせいか、私の目が脆弱なせいか、分からないが、冷感が心地よかったのは一瞬であった。私はすぐにメニョを開放し、ぐりぐりと目の周りをマッサージした。どうも、私には文士になる資格はないようだ。


 やれやれとため息をついて、私は浅い眠りの中に入っていったのであった。

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