第109話
人は、傷つくと海へ行く。あらゆる生命の母胎たる海。恋、家族関係、貧困、相続紛争、粉飾偽計、冤罪、誹謗中傷その他諸々で疲れ切った心を海が癒してくれるのである。
私はちゃぷちゃぷとさざ波を絶やすことのない海面を眺めている。私は傷ついても疲れてもいないが、そういう人間であってもたまには海を眺めるのも悪くはない。ただ、私の目の前に広がる海は人工の港で、砂浜が無い。コンクリートの岸壁から真直ぐ下に海面があり、風情は感じられない。ここで現代人のMP(メンタルパワー)を回復するのは難しいのではあるまいか。
びゅうと強い風が吹いてきた。漸く秋だと思ったら、冬が近付いてきているようだ。私は身震いして、散策は切り上げて帰ることにした。
私がいる海は、自宅から電車で数十分の場所にある。仕事の都合で寄っただけだが、海の近くに来たら、波くらい見て帰ろうという気になるのが人情である。
そして、海を見ると、お魚が食べたくなるのもまた人情。周りを見ると、魚屋があるではないか。夕方なのでさほど品数は無いが、全くの空棚でもない。私はふらりと店に入り、見たこともない正体不明の魚を買って帰った。
「ただいまー。」
私は玄関の戸を開けた。いつものように、毛むくじゃらな巨獣がそこで私を待ち構えている。身の丈四尺の飼いネコ、メニョだ。その頼もしい体幹に私は思い切り抱きつく。この巨獣、もふ毛が長いので実際より大きく鈍重に見えるが、中身はぬるぬると軟らかくてすぐに私の抱擁から逃げ出す。
「ふあー」
ずるんと私の腕から逃げおおせたメニョが何か言う。気になることがあるのか、ふんふんと鼻をうごめかせている。
「あ、これか。お土産に魚買ってきた。今日のご飯はもう作っちゃったか?」
「んー」
まだなのかな。はっきりとは分からないので、私は台所に向かった。鍋に水がたたえられ、沸かさんとして火にかけられているが、準備されているのはまだ野菜だけだ。肉や魚の類は見当たらない。
「何を蛋白源にするつもりだった?」
「ぬーふ」
メニョは冷蔵庫から充填豆腐のパックを取り出した。なるほど、いつものように、パックごと湯煎して温奴というわけだな。あれはあれで美味いが、豆腐はまだ日持ちがする。今日は魚にしてもらおうかな。
私は魚を取り出した。見慣れない地味な魚がでろりとビニル袋の中で横たわっている。
「今日は港に行ったので、魚を買ってみた。何だか種類は分からん。」
「ふあ」
「聞いたけど、忘れちゃったんだ。」
メニョが憐れむような目つきをした気がしたが、きっと気のせいだ。ただ、太いしっぽが何か言いたげに揺れている。
「いや、未利用魚ってやつらしい。捕れるし食えるんだけど、量が少ないとか傷みやすいとかで市場に出せないの。」
「ふあ」
「ただ、具体的な種名は忘れた。何だったかなあ。こういう時はネットが便利だよな…。」
メニョのしっぽに膝裏を打たれ続けるのも飼い主としての尊厳にかかわるので、私は寝室へ行ってタブレットを持ち出した。写真を撮って、これなあに?的な操作をすると、答えが出るはずだ。そうすれば、お勧めの食べ方なんかもわかるだろう。店の人は煮付けかから揚げか焼き物と言っていたが、要は刺身以外なら何でも良いという話なのであまり参考にならない。
ところがどっこい、私が台所に帰ると、魚の姿が見えなくなっていた。
「あ、あれ、魚は?」
「にゃ」
メニョがグリルを指し示した。覗き込むと、さっきの魚が上下から地獄の業火に炙られている。なんてこった。内臓やうろこの処理はしてもらってあるから、食べる上での問題は無いのだが。メニョったら、仕事が早いよ。その素早さを隣の同僚に分けてやってくれ。
おっと、職場のことなんか思い出している場合ではない。魚の正体を調べたいのだが、うっすらとグリルを開けると既に表面は熱で色が変わってしまっている。これでは如何ともしがたい。
私がタブレットを抱えたまままごまごしていると、どこからか熱い汁が襲い掛かってきた。
「あち」
「ぬあー」
メニョが野菜の丸茹でを作成中である。鍋から湯が飛んだらしい。
メニョが邪魔そうな顔をするので、私は同定を諦めてすごすごと退場した。着替えたり手を洗ったりしていると、ふわんと魚の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。メニョがもうもうと湯気の立つ野菜の山を食卓に持ってくる。こうなると、単純な私は何でもいっかという気分になる。
私は作り置きのごまだれとひやおろし純米酒を冷蔵庫から出した。それから、メニョのご飯も準備しておく。今日はカツオしらす缶といつものカリカリである。
「にゃーい」
振り向けば、メニョがこんがり焼けた魚の乗った皿を机に置いたところであった。ちょうどいいタイミングである。やはり、長年一緒に暮らしているとこういう波長が同期するに違いない。うむ。
私はいい気分で食卓に着いた。メニョもどんぶりの前に着座…のはずが、いない。いつもなら、すぐにやって来るのに。あれ。
と思ったら、台所から小皿を持って歩いて来るではないか。焼き立てホカホカの謎魚の脇に、空の小皿をチョンと置く。
「にゃー」
「食べるの?」
「にゃー」
お目目キラキラ、よだれたらたら、しっぽブリブリである。
しかし、塩焼だったら味が付いているから、皮の付近はやれないぞ。私は箸先で皮を突いて、味を見た。
「あれ、塩気が無い。メニョ、これ、ただの素焼きか?」
「にゃ」
「ははあ…メニョ、自分が食いたいから、さっさと焼いちまったんだな?」
甘辛く煮たり塩を振って焼くと、メニョには食べられなくなる。素焼きなら食べたい放題だ。私が味付けメニューを選択しないうちに、先手を打ったという次第だろう。なんとまあ、仕事が早いにも動機があるということか。
私は呆れながらも魚の身をほぐし、メニョの小皿にこんもりと盛ってやった。
「まだ熱いぞ。冷めてから食べなさい。」
「はぐふ」
言ってるそばから、かぶりついて吐き出している。まったく、賢いんだか、おバカさんなんだか。何にせよ、メニョが食いしん坊だということはよく分かった。まあ、今更改めて理解するまでもなく、分かり切っていることではあるが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます