第108話
私はしがないサラリーマンであり、都市部の多くのサラリーマンがそうであるように、電車で通勤をしている。数十年前だと、通勤電車で紳士たちが手にしていたものと言えば新聞だった。器用に縦に折って、自分の幅を超えない空間で器用にページを繰っていたらしい。無論、今ではそんな紳士は一人もいない。皆一様に、四角い平べったい板をいじっている。
さて私はと言うと、その板切れを所持していないので、別の方策を講じることになる。新聞と洒落こみたいが、昔のサラリーマンのような技術を持ち合わせていないので難しい。本は酔う。となると、私の暇つぶしは窓の外の景色と中吊り広告くらいしかない。
今日も今日とて、広告をじっくり熟読してきた私は、てくてくと駅から徒歩30分の道のりを歩いて帰宅した。
「たっだいままーん。」
いたくご機嫌なのは、明日が休みだからである。靴も脱がずに、玄関で待ち伏せしていた身の丈四尺の飼いネコ、メニョの毛皮に早速顔を埋める。
「今日もモフモフで良い香りだのう。」
「ぬあー」
メニョの毛皮は日向の甘い香りがする。芳香を胸いっぱいに吸い込んだ私は、鼻腔にメニョ毛が入りこみ、たまらず幾度もくしゃみをした。まあ、予定調和というやつだ。気にしない。私は鼻をすすりながら靴を脱いで、玄関を上がった。
「メニョ、明日から東北物産展をやるんだってさ。」
私はメニョに、中吊り広告から得たニュースを披露した。広告はこうして、時に有益な情報を提供してくれる。過払い金やら英会話やらの広告は飽き飽きだが。
「デパートじゃなくて、屋外だから、メニョも入れるぞ。一緒に行ってみるか?」
「ねーう」
「いちご煮というのを一度食べてみたいんだよなあ。」
「ふあー」
ぶいん、とメニョの太いしっぽが揺れる。行きたいのか行きたくないのか、魂のレベルがネコの高みまで達していない私には判別できぬ。まあ、ネコは基本的には人の多い場所には行きたがらないだろう。観光地の店や駅の看板ネコというものもいるが、あれはおそらく、ヒトをヒトと認識していない。川の流れか、空を行く雲のような物体だと思っている。生憎と、我が家のメニョはそこまで達観できていないはずだ。
翌日、物産展に赴く私はメニョを誘ってみたが、案の定メニョは気なしである。風通しの良い掃き出し窓の前で液状化し、ぷうぷう鼻を鳴らしている。
「夕方までには帰るよ。生ものは買って帰らないから。」
「ふああああむ」
顎が外れそうなくらい立派なあくび。まこと、無関心を絵に描いたようなご様子で。
そんなメニョの腹を二もみほどモフってから、私はとことこと物産展に出掛けた。大抵こういう催し物はそれなりに盛況で、混みあう。メニョが来なくて正解であった。こんなところにあんなに可愛い巨大ネコがいたら、人気が一気に爆裂し人々が殺到してメニョが押し潰されてしまいかねん。
それはさておき、食べ物の販売店を覗いたところ、残念ながらいちご煮は無いらしい。やむなく、私は缶詰としては破格のお値段のいちご煮缶を1個だけ購入する。缶詰が1個1800円て、カニ缶か。私は所詮、蟹工船で搾取される側だよ。そんな文句を胸中で呟き、腹いせに大好物のさなづらと南部せんべいラスクも手に入れてほくほくと帰途に就いた。
「ただいまんもす、ゾウの毛皮。」
がらりと引き戸を開け、玄関に入った私は、うすらぼんやりと家の中に満ちている妙な香りに気付いた。そろそろ夕刻、メニョが夕御飯を作っているのだろうが、いつにない個性的な芳香。いつもだと、醤油やみそ、魚や肉で構成された、食欲を刺激される香りなのだが。何だろう、こう、甘さと酸味が強いというか、エスニック?いや、香辛料は感じないし、何だろうか。
メニョは炊事で忙しいのか、出迎えに来ない。私は疑問を抱えたまま台所に向かった。
台所では、メニョが鍋の前で仁王立ちして何かをグツグツ煮込んでいた。ふむ、よくある光景である。何の不審な点もない。私は流しの脇に本日の釣果をごとごとと並べた。
「ほい、お土産。と言っても、メニョには食べられないけどさ。」
「にゃむー」
「お菓子…ああ、ラスクはメニョも少しは食うか。それと、私が言っていたいちご煮。」
「ぬあ」
メニョがキッとこちらを振り返った。何かお気に召さなかったのか。まあ、メニョの食べられるお土産が無いと言えば無いのだが。蔵王プリンでも買って来ればよかったかな。
メニョはにゅうとお土産に前足を伸ばした。選んだのは、いちご煮の缶詰である。
「ふあー」
「それそれ。めちゃくちゃ高いんだ。何しろ、ウニとアワビのお吸い物だからな。」
「うにい」
何故か、メニョの太くて長いしっぽが激しく揺れている。ぱしんぱしんと私の膝裏に当たって、いささか痛い。無駄遣いするなと言いたいのか。いや、メニョは我が家の経済政策にはうるさく口を出さない。アルコール摂取量には厳しいが。では、何だろう。いちご煮を食べたいのか。気持ちは分かるが、塩気も当然あるし、確かアワビはネコにはダメじゃなかったか。
私があれこれ思いを巡らせていると、メニョは数歩横に歩いて、鍋をパカリと開けた。もわん、と甘酸っぱい匂いが立ち上る。
「ぬ…これは、まさか、イチゴ?」
中を覗くと、真っ赤などろどろと一緒に雑多な物が煮えている。雑多な物の正体は、ぶつ切り野菜と鶏の手羽元である。それはいつもどおりだが、この赤いやつ。この香り。辛うじて原形を留めたその小ぶりな丸い物体には、つぶつぶとした種も垣間見える。
「にゃー」
と言ってメニョが差し出したのは、冷凍いちごの袋である。まあ、往生際の悪い残暑と微かな秋がせめぎ合う今の時期、我が家の家計で許される生いちごは売っていない。輸入の冷凍いちごを使うのはやむなしである。おっといやいや、その前になぜいちごが鍋に。ジャムと煮物が不気味なフュージョンを遂げているではないか。
「ういー」
メニョがいちご煮の缶を私に差し出した。
「ん?これを混ぜるのか?嫌だよ、絶対。」
「ぬー」
「あっ。さては、この鍋、メニョ流いちご煮か。」
「にゃい」
ナンテコッタい。私は天を仰ぎ、平手で額を打った。メニョってば、昨晩の私の独り言から、気を利かせすぎだぜ。というか、気を利かせるならもう一歩、いちご煮のレシピを調べてほしかった。いや、まさかとは思うが、こういう煮物のレシピがあったのだろうか。ジャムを肉の漬けだれに使うというのはよく聞く手法だが。
ふむう。まあ、嘆いていてもしょうがない。私は手を洗って、メニョ流いちご煮が山盛りになった皿に対峙した。どんな酒を合わせればいいか見当もつかないので、お酒の準備は後回しである。
「ちゃむ、ちゃむ」
メニョはというと、冒険とは全く縁のないいつものマグロ缶をむちゃついている。赤いアクセントの利いた甘酸っぱそうな煮物を前にして、私はいささかネコ缶が羨ましくなる。が、私は意を決して煮物に取り掛かった。そして、目を見開いた。
「ん、意外とうまい。」
何と、いちごの酸味がさっぱりと利いて、フルーティな甘酢煮のような仕上がりに。見た目にはびっくりしたが、これ、悪くないんじゃないか。
「おい、メニョ、このいちご煮も旨いぞ。さすがメニョだな。」
「カリ、カリ」
何食わぬ顔でカリカリを食んでいるが、しっぽが軽く左右に揺れている。どうやら、新規メニューが会心の出来栄えで、気分が良いようだ。我が家のお抱えシェフもまた一段と腕を上げて、何よりである。
とはいえ。と私はメニョ流いちご煮をぱくつきながら黙って決意する。今後は物珍しい料理名を口にするときは、メニョに説明を加えておくことにしよう。くぎ煮に釘を入れられるようなことになっては、さすがに身が持たぬ。
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