第107話
私の暮らす場所は、かつて豊かに移り変わる四季に恵まれていた。だが、激烈な温暖化と異常気象で、今や初期夏・中期夏・後期夏・冬という生きづらい四季に生まれ変わった。要らん転生である。転生モノの小説のネタにすらなるまい。
とはいったものの、それでも後期夏、かつての秋になると食べ物にはそれなりに季節感が出てくる。早生みかん、りんご、ブドウ、ナシ、柿。果物はやはり何と言っても秋が一番である。私はむっしむっしと青い皮のみかんを剥き、水気の多い房を噛みしめた。冬の甘いこたつみかんも旨いが、青みかんのこの瑞々しさは何物にも代えがたい。
「…」
ぽてぽてと足音を響かせながら私から遠ざかって行ったのは、我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョである。どうやら、柑橘類の匂いは好きではないらしい。メニョの場合、我慢できないほどではないにしろ、積極的に嗅ぎたい、近付きたいと思える代物ではないようだ。柑橘臭嫌いはネコ一般に見られる習性らしいが、毒でもないのになぜ嫌うのであろうか。毒であるはずのネギ類やチョコレートは、興味を示さない代わりに忌避もしない。生存にとって不合理ではないか。柑橘はただの食わず嫌いじゃないのか。
「メニョ、みかん食ってみるか。意外といけるかもよ?」
「ぬー」
風上でツーンと澄ましている。
「ネコのおしっこの匂いの方がよっぽど臭いじゃん。あれはクンクン嗅ぐだろ。」
「…」
「ウンチの匂いも平気なくせに。うんこうんこ。」
「…」
だんだんと、自分の発言が小学生じみてきたので、私はここらで口を閉ざした。排泄物の匂いを嗅ぐのは一種のコミュニケーションであり、好き嫌いとは別の次元にあるのだろう。
まあ、いいや。私は食べ終わったみかんの皮を生ごみに捨てた。ヒトだって、無駄にtert-ブチルメルカプタンの閾値が低い。そんなに必死に検出しなくても害のない物質なのに。きっと、ネコにとっては柑橘に含まれる何かがそんな感じなのだろう。
とか考えつつ、私はもう一個青みかんを剥いた。止まらんのう。
「…」
メニョがぷいっと網戸の外に鼻を向けているのは、無視。
さてその数日後、私は職場でお菓子を手に入れた。
「この前東京のお土産を頂いたので、お返しに買ってきました。人気店でしてね、開店と同時に並びましたよー。」
と私に焼き菓子を押し付けたのは隣の同僚である。そんな恩着せがましい物言いをするくらいなら、くれなくて結構である。が、もうもらってしまったものは返さない。
なお、私が同僚に与えた東京土産は、この同僚を慮って買った物ではない。メニョが希望した菓子と同僚が要望したものがたまたま同じだったので、余分に買っただけだ。わざわざ同僚だけのために土産屋に足を運ぶ義理は無い。
経緯はさておき、美味しそうな菓子である。私は定時の鐘が鳴ると同時に立ち上がり、菓子を持って速やかに退社した。メニョも焼き菓子が好きである。少し分け与えてやろう。喜ぶぞう。
家に帰り着いた私は、台所に立つメニョの横で菓子を披露した。
「じゃーん。こんな物をもらったぞ。」
「にゃ」
くんくん、とメニョが鼻をうごめかせる。個包装されてはいるが、バターと卵の甘い香りが微かに漏れている。メニョにはたまらないだろう。
「ご飯の後で、デザートに食べようぞ。」
「にゃー」
「おっと、その前に、念のためにチョコが入っていないか確認しないとな。」
こういう洋菓子は、うっかりするとチョコチップが入っていたり、ホワイトチョコが溶かし込んであったりする。ネコにチョコレートは禁忌だ。私は包装をひっくり返して原材料を読み込んだ。洋酒が使われているが、焼けば飛ぶからこれは問題なし。チョコは無いみたい。よしよし。
「あれ?これ、レモンとかオレンジとか、柑橘がいっぱい入ってるな。」
「ふあ」
「メニョなら、嗅いだら分かるんじゃないの。」
私は手に持っていた焼き菓子の包みをメニョの鼻先に持って行った。メニョはまた鼻穴を広げて嗅いでいたが、ピンとこないらしい。プラ袋越しでは、さすがに分からないようだ。
「メニョ、残念だったなあ。柑橘ケーキだから、食べられないじゃん。」
「ぬあ」
ぴしんぱしんとメニョの太いしっぽが不満げに私を打つ。が、好き嫌いをするのはメニョの方である。私に責任は無い。仕方がないので、この美味しそうな焼き菓子は私が一人で頂くとしよう。
私は食卓に焼き菓子の箱を据え、目の保養に努めながら夕飯を食べた。今日は野菜と塩サバの丸蒸しである。蒸し料理を教えて以来、メニョは何でも蒸してしまう。ピーマンやらナスやらの丸ごとはまだしも、塩サバは焼いた方が美味い気もするが、蒸したものはそれはそれで身がホックりして旨い。まさか塩サバを蒸そうとは自分では思いつかないので、メニョの発想の柔軟性には感服しきりである。
夕飯を食べ終え、食器を洗い終えた私は、揉み手をしながら食卓に舞い戻った。待望のスウィーツタイムである。
「にゃ」
「お、紅茶か。さっすがメニョ。気が利くなあ。」
メニョが鍋つかみを前足に嵌め、マグカップを運んできた。熱々の紅茶はいささか暑いが、まあそこは我慢。我が家にアイスティーなんて気の利いたものは常備されていない。麦茶よりは、紅茶が焼き菓子には合うだろう。
よしよし。私は一袋取り上げ、ぴりりと開封した。おお、バターん。そのネットリ濃厚な香りに混じって、まごうことなき柑橘の芳香が飛び出す。柑橘好きとしては期待値が高まる。
と、机の上にことりと何かが置かれた。見ると、豆皿である。ぬう、とメニョが立ち上がってこちらを凝視している。
「メニョ、食べたいの?」
「にゃ」
「超柑橘じゃん。ほれ、オレンジピールとか、見えてるぞ。」
「なーふ」
ちょいちょい、と前脚が出てきた。御託は良いからさっさと皿に分けて寄こしやがれ、と言っている気がする。しかし、分けておいてやっぱり要らない、となると勿体ないし。
「にゃー」
催促が激しくなってきた。うーむ。しょうがないので、私は柑橘が入らぬよう、端っこのほんのちんまりとした欠片を豆皿に置き、メニョに差し出した。メニョは二本足で立ったままべろりと舐め、飲み下す。
「ぬー」
「え、足りんってか?」
「にゃー」
おいおい、さっきのでは一瞬過ぎて味も匂いも分からなかっただけじゃないのか。本当は、柑橘は嫌なのではないのか。そう思うが、メニョの前足がぴしぱしと私の手をはたく。やむを得ない。私は小指の先ほどの欠片をちぎって豆皿に載せた。今回は、柑橘のピールもたっぷり混入しているはずだ。
どうかな、と思って見ていると、メニョは何度か匂いを嗅いでぱくりと欠片を口に入れた。あむ、あむと2、3回噛んで、ごくり。後味がよろしいようで、飲み下した後も舌なめずりがなかなか止まない。
その様子を眺めていると、顔を上げたメニョと目が合った。瞳がキラキラしている。私が焼き菓子を食べずに持ったまま固まっているのを見るや否や、またぞろにゅうと立ち上がった。
「にゃー」
「おいおい、もうおしまいだよ。」
私は慌てて焼き菓子を一口齧った。むむ、これは旨い。むむむ。一人で食べちゃいたいくらいだ。
「にゃー」
「こらこら、お前、柑橘嫌いじゃん。これ食べたいなら、こっちも食べなさい。」
メニョがまた前足をひろひろさせるので、私は青みかんを突き出した。
「ぬー」
それはダメらしい。何だか理不尽だぞ。
結局、根気よく催促を続けるメニョに焼き菓子をかなり取られ、物足りない私は青みかんをむしって食べることになった。勿論、その際にはメニョは速やかに窓辺に移動していたのは言うまでもない。どうにも納得いかない。
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