第100話

 地球上で季節が全くない地域はあるのだろうか。中学校の社会科で、ラパスは常春の国です、などと習った気がするが、それでも乾季雨季くらいはあるのではないか。


 だから、人間の文化は季節と共にある。四季それぞれの風景を描いたり、四季を表す楽曲を作ったり。花咲く春や実り多き秋だけでなく、冬や夏もそれなりに大切に扱われる。ヴィヴァルディの『四季』しかり、『四季の歌』しかり。春夏秋冬どれもそれぞれに良いですね、という塩梅だ。


 だが、梅雨はイカン。梅雨を愛する人は心濡れた人、なんて歌は無い。ベートーベンの交響曲第10番『梅雨』なんてものも無い。あったらすごそうな気もするが。

いずれにせよ、梅雨はじめじめクサクサするばかりで、芸術文化が活発に躍動するのに適していない。ずっとじとじと降り続けている時こそインスピレーションが湧いて筆が進むんですよね、という画家や音楽家や小説家がいたら、お会いしたいものだ。


 少なくとも、我が家には長雨でうきうき気持ちアゲアゲになる生き物は、カビとダニくらいしか生息していない。


「ぷふー」


鼻を鳴らしながら座布団でうたたねしているのは、身の丈四尺の飼いネコ、メニョである。朝からずっとこうしてだらけている。いや、朝からではない。早々と梅雨前線が現れて以来随分長いこと雨が降り止まないので、もう1週間以上こうして沈殿し続けている気がする。


「メニョ、少しは運動したらどうだ。ほら、お腹がたるたるだぞ。」


 私はメニョの横腹の皮を摘まんで、ぐいっと上に引っ張った。見事に伸びて広がる。気を良くした私は、あちこちの皮をびろびろ広げて遊ぶ。どこもかしこも、良く伸びる。ネコの特性なのかメニョ独自の機構なのか定かではないが、言い皮していやがるぜ。私の中年ボディはハリもコシもなくなって久しいので、こんなに皮は伸びない。


「んー」


 メニョは軽く文句を言うと、キュウと変な音を発しながらさらに丸まる。が、取り立てて反抗する気はないらしい。そして、身体を動かして健康を保持しようという高尚な意思もないらしい。


 うーむ。メニョはネコであり、ネコは濡れるのが嫌いである。長雨になると、メニョは日課の散歩にも出ないし、スーパーへ買い物にすら行かない。ヒトなら傘を差せば済むが、ネコの場合はむき出し裸足の肉球が濡れるのは避けがたく、ネコは肉球が濡れるだけでも嫌な顔をするものである。


 メニョが太ったら、私が困る。我が家は築66年の非耐震木造住宅だ。太ったメニョが虫などと格闘したらひとたまりもあるまい。それに、冬に膝に乗られると私の脚の血行が止まって壊死する。


 私は万事にやる気のないメニョをぐいと持ち上げ、四つ足で立たせてみた。そこかしこで見かけるでっぷり太った野良ネコは、腹がだらりと垂れて歩くたびに揺れている。メニョはどうであろうか。


「もにもにしている。メニョ、太ってるのか?」


腹を揉みながら私はメニョに問う。デブ野良のような垂乳根ならぬ垂腹は無いが、十分に揉みごたえのある腹である。ヒトと比較するのも適当ではあるまいが、私の腹はこんなふうに鷲掴みにして揉みしだけない。


「ぬー」


 メニョのしっぽに顔をはたかれ、私は腹から手を離した。少なくともこのしっぽは太いが、これは生まれつきである。


 メニョはぶいぶいとしっぽを振りつつ、座布団の上で幾度か旋回すると、またぞろ丸くなってしまった。無気力を絵に描くとこうなるに違いない。


「んもう。メニョ、晩御飯も作ってくれないんだろ。」

「…」


返事すらない。


 まったく、ネコはどうしてこう湿気に弱いのか。もふ毛が大気中の水分を吸って重くなるのかもしれぬ。私だって、頭は痛いし身体は重いし仕事はめんどくさいんだが。私はぶつくさ文句を言いながら立ち上がり、台所に向かった。雨続きだとメニョの家事機能がほぼ停止する。いきおい、私の食事もつましいものとなる。困ったものだ。


 私は冷蔵庫の扉を開けた。


「しまった。買い出し忘れてた。」


 雨で出不精になるのは、メニョだけではない。私もまた引きこもる。おかげで、食料が乏しい。今さら出かけたくないから、明日仕事帰りにスーパーに寄るとして、さて今日はどうしたものか。鯖缶も昨日食べちゃったから、もうストックが無い。


 台所で腕を組んで唸っていたら、膝裏に衝撃が来た。メニョが私の脚にぬるぬると毛を擦り付けている。


「メニョのご飯?ちょっと早いし、それより私の夕飯だよ。食べるものが無いぞ。」

「にゃ」


メニョが冷蔵庫を開けて、中を肉球で指し示す。


「え、ああ、卵が1個残ってるね。うん。卵ごはんは旨いけどさ…。」

「にゃー」


メニョは空っぽの冷蔵庫の前でまだ何か言っている。さりとて、どう見てもおかずになりそうなものは卵1個だけである。泡立てまくって、嵩だけ増やしてオムレツにするか。


 私が立ったまま唸り続けていると、メニョがチルド室をがさごそ開けて、何か薄平べったい袋を取り出した。


「むー」

「何だ?えーと、すきみたら?こんなもの買ったっけ。」

「にゃー」

「メニョが買ったのか。いつの間に。」

「ふあー」


うむ、返答の内容は不明。だが、とりあえず賞味期間内である。それほど古くないみたいだ。こんな物があるだなんて、全然気づかなかった。


 というか、すきみたらなんて私も食べたことが無いぞ。どうやって食えと言うんだ。そして、何故メニョはこれを買ったんだ。スーパーの棚の前でネコが「やゝこれはうまさうだなあ」と瞬時に見抜ける食材とは思えないが。匂いが良いのかもしれない。


「メニョ、これ、食べてみたくて買ったのか?」

「にゃ」

「ネコは食えないみたいだぞ。えらく塩っ辛い。塩蔵品だ。」

「ふあっ」


 原材料などを見ていた私の言葉に、メニョが驚きの声を上げた。ええと、ネコの鳴き声だからはっきりとはしないが、多分驚いていたと思う。常には無い声であった。


 メニョに目を向けると、カチンと全身固まったまま、上がっていたしっぽだけがしおしおと垂れて落ちてくるところであった。やはり、衝撃を受けている様子だ。


「そんなに楽しみだったのか。」

「…」

「まあ、しょうがない。これは私専用にしよう。」

「…」

「メニョには今度、生の鱈買ってきてやるから。」

「…」


私の代案を聞いても、まだしょんぼりしている。干されてうま味の濃縮された鱈を食べたかったのかもしれない。ふむ。


「それなら、今度棒鱈を買ってやるよ。あれは確か、塩味が無い。」

「にゃ」

「ただ、これと違ってカチンコチンに硬いぞ。そのままは食べられないからな。」

「にゃー」


どうやら、メニョの機嫌は直ったらしい。しっぽもぷいんと上を向いた。ふむ、可愛い奴め。可愛いけれど、戻した棒鱈なんかネコが食うのだろうか。メニョの頭をごしごし撫でながらも、私は少し不安に駆られる。またガッカリしょんぼりされたら、こちらも寂しい。保険で、生の鱈もご用意した方が良かろうな。


 やれやれ、梅雨だというのに、季節外れの鱈祭りが始まりそうだ。


 ちなみに、すきみたらは結構旨かった。棒鱈のついでにまた買ってしまうかもしれん。鱈祭り、上乗せ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る