第101話

 数十年ぶりの大雨だとか、記録的な猛暑だとか、類稀なるはずの異常気象が毎年生じている。そろそろ諦めて、例年通りの非常に危険な豪雨です、毎年恒例の生命を脅かす猛暑です、と表現してはいかがだろうか。こちとら、珍しい系の表現は既に耳タコである。


 とはいえ、これなはいだろう。私は築66年の賃貸木造住宅に唯一許された窓用エアコンをフル稼働し、喘いだ。喘ぎ声を上げているのはむしろエアコンの方かもしれないが。何しろ、まだ6月だというのに気温が40度なのだ。まあ、正確には39.なにがしという予報だった気がするが、百葉箱を遠く離れた都市部の住宅ではプラス数度して間違いはない。急な熱波で年寄りや子どもがバタバタ倒れ、救急がいっぱいだというのも道理である。夏になれば毎年恐るべき猛暑が襲ってきてはいるが、こんなに早々と高齢者その他もろもろの命を奪いに来るのは異常だ。


 梅雨前線、どこ行った。おーい。ざぶざぶと長雨が続いていたころの嘆きはどこへやら、今となってはあの頃の朝晩の涼しさが恋しい。


「おーい。」


私は細く声を上げてみた。届く訳はないが、梅雨前線を呼んだつもりである。


「うあ」


と、返事が聞こえた。無論、梅雨前線ではない。我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョの声である。


 ネコの原産地は地球上でも暑い地域らしいが、メニョはすっかり日本の生物界に取り込まれている。この暑さですっかりバテバテだ。というか、カラリとして灼けるように暑いアフリカやアラビアの出身者も、日本の蒸し暑さには耐えられないという話ではなかったか。メニョがへばるのも無理からぬことか。


「メニョを呼んだんじゃないんだ。涼しさというか、今の暦らしい気温を呼びたかったんだ。」


 それが来れば、多分10度近く外気温が下がる。私もメニョも生存できる。


「これじゃあ、動けないもん。」

「にゃむ」


私とメニョは寝転がったままため息をついた。動くと体温が上がるので、私もメニョも床に脱ぎ捨てた靴下のようにでろりと転がったまま、身じろぎもしない。何しろ、窓用エアコンの性能はよくある壁掛けエアコンほど優れていない。外気が40度を超える過酷な状況で部屋を十分に冷やすのは、向かい風の中10%の勾配を自転車で駆け上り続けるに等しい。つまり、無理なのだ。無論、屋外を思えば、この部屋は極楽である。が、少しでも気合を入れると汗ばむ室温であることは否めない。だから、メニョも私も動けないのである。


 しかし、硬い床の上に寝そべったままだと、メニョはともかく私は節々が痛い。私はやむなく身を起こした。手持ち無沙汰なので、メニョに手を伸ばして毛皮を撫でモフる。


「あ、冷やっこい。メニョ、毛皮が冷えて気持ちいい。」


 このモフ毛は高密度高断熱素材なので、内部の体温を遮断し、フローリングの温度と一体化している。熱を放散せんとしてホカホカな我が手の平と比べて、かなり温度が低い。触るとひんやりして実に心地よいではないか。もふもふの素晴らしい手触りに加えて、程よい冷感が得られるだなんて、最高だぜ。私はさかさかと手を動かしてメニョの全身を撫でさすった。一か所だけ触り続けているとたちどころに熱がこもる。すぐに移動する必要がある。


「ぬうう」


 がぶり、とメニョが私の手に噛みついた。肌に傷を負わせぬジェントルな甘噛みではあるが、ネコの犬歯がめり込んでそれなりに痛い。


「あだ。何すんだ。」

「うう」


何すんだはこっちのセリフだ、と言いたげな視線。こちとら、折角冷えたモフ毛を熱い手で撫で回すというやましい過去があるので、強気に出られない。やむなく、わたしはメニョの毛皮から手を引いた。


「あー…暑い。」


そうなるとやることもない。本を読む気も起きない。私は心身ともに暑さに弱いのだ。壁にもたれて放心したまま、時が過ぎるのを眺める。このままあっという間に、4カ月くらい過ぎてくれたらいいのだが。


 そんな益体もないことを考えていたら、メニョがむくりと起き上がった。夕飯には早すぎる時刻だ。となると。


「トイレか?」

「ふあー」


たぶん、肯定なんだろう。


「じゃ、ついでに麦茶とお菓子持ってきてよ。」

「…」


返事が無い。メニョはだらりとしっぽを垂らしたまま、ぽてぽてと足音高く部屋を出て行ってしまった。


 まあ、いいや。無いなら無いで、我慢だ。私はごろりとベッドに寝そべった。ベッドは床より寝心地は良いが、保温性が高いので背中が熱い。うーん。涼しさを取るか、柔らかさを取るか。


「ねー」


下らないことで悩んでいたら、扉の外でメニョの声がした。私は立ち上がり、戸を開ける。すると、お盆を両前足で抱えたメニョがのたりと室内に入り込んできた。お盆の上には、麦茶の入った湯飲みと、何かお菓子がある。


「わ、持ってきてくれたのか。さっすがメニョだ。ありがとう。」

「にゃむ」

「よし、じゃ、お礼にこの栗まんじゅうを一緒に食べようじゃないか。」

「にゃー」


 私は栗まんじゅうをパカリと二つに割り、小さい方の欠片をメニョに供した。本当はこういう日はアイスでも食べたいところだが、急に暑くなってしまったので買い置きが無い。しかし、栗まんじゅうだって悪かないぞ。うまうま。私は麦茶でのどを潤しつつ、しっとり甘い栗まんじゅうを堪能する。


 おお。甘いものを補充したら、何だか少し元気が出てきた。私はベッドに腰かけ、読みかけの本を手に取った。今なら、読書くらいならできる。メニョも少しやる気が出たのか、ねろねろと毛づくろいを始めた。栗まんじゅう効果、おそるべし。


 だが、効果があったのは栗まんじゅうだけではない。大きな湯飲みになみなみ湛えられていた麦茶もまた、私に多大な影響を及ぼした。そう、尿意がやってきたのだ。


 トイレに行きたい。でも、涼しい部屋から出たくない。だが、尿意は荒ぶる一方である。私はもじもじと落ち着きなく尻を動かして耐えていたが、やがて限界を感じた。私は敢然と立ち上がった。今こそ、訣別の時。


「んにゃー」


足元から声が掛かった。応援ではなさそうな雰囲気。ふいっとそちらに目を向けると、メニョがだらりと床に伸びたまま、前足で何かを私に押し出した。


「なんだ?…あ、メニョのどんぶりじゃないか。」

「うあ」

「メニョのご飯を持って来いって言うことか?」

「にゃーい」


 このどんぶりはいつもは台所に片付けてあるのに、なぜここに。まあ、さっきお茶とお菓子のついでに持ってきたのだろうが。ネコなのに、用意周到過ぎないか。


 私はちらりと時計を見た。高まる尿意を相手に手に汗握る闘いをしているうちに、気が付けば夕飯の時間である。時が経つのは早い。


 いや待てよ。陽が落ちたなら、多少は涼しくなっているんじゃないかな。私は期待を込めて、ほんのりと部屋の戸を開けた。その途端、熱気が群れを成して突入してくる。どうやら、世界サウナ化計画はいまだ順調に進行中のようだ。

うう、出たくない。私は恨めしくなってメニョをじろりとにらんだ。


「メニョはこの涼しい部屋でダラダラして、私は暑いところからメニョのご飯を持ってくるのか?」

「にゃ」

「ええい、控えい、控えおろう。わたくしをどなたと心得るか。」

「ぬあー」


恐れ多くも飼い主だと言おうとした私の下腹部に、メニョが頭突きを食らわせる。


「ぐはぁっ!も、漏れたらどうする!」

「なー」


早くトイレに行きなよ、と言われた気がする。もしかしたら、メニョではなくて、いつも仕事をお任せしている小人さんの声だったかもしれない。いずれにせよ、実際に我が膀胱圧は限界に近い。メニョを成敗している場合ではない。


 私はばたばたと慌ただしく部屋を出て、用を足した。わずかな間にすぐさま汗がにじみ出て、腿裏に触れる便座がじっとりするのがたまらない。これが6月の所業か。


 ふう、とため息をつきながら私はトイレを出た。用を足すだけでこの疲労感。早く涼もう。


「あ、そうだそうだ。」


 私は辛くも思い出した。メニョのご飯を持って行ってやらねば。どうせいつかは準備するのだから、暑いところでやることは一時に済ませた方が良い。私はネコ缶とカリカリを両手に持って、寝室に向かった。すると、私が開けろと言う間もなく、自動で扉が開く。うむ、さすがは腹の減ったメニョ。耳も良いし、過剰に気が利いている。


「にゃー」


 ぬるりぬるりと私のむき出しの脛にメニョがまとわりつく。私はメニョを撫でつつ、どんぶりにネコ缶とカリカリを注ぎ入れた。すぐに、ちゃむちゃむとメニョががっつく。それを見ていると、私の腹もぐうと鳴る。暑さにやられたまま1日が終わってしまったが、さて、私の夕飯をどうしたものかな。食べ終わって毛づくろいに余念のないメニョを見ながら、私はまた床に横たわってしまったのであった。あーあ。

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