第98話
新しいことに挑戦するのに、年齢なんて関係ない。
挑戦し、成功した人だけが言えるセリフである。無論、成功とは単に経済的な成果だけを指すものではない。新しい体験をした、友人ができた、知識を得たなど、本人が価値を感じられればそれで成功である。
とはいえ、これがなかなか難しい。年を取ると、時間が無い、体力が無い、お金が無い、才能が無い、記憶力が無い、意味が無い、等々のやらない言い訳が無限に浮かぶようになり、腰は鉛よりも重くなる。挑戦には年齢はものすごく大きな影響力を持つのだ。
ところがどっこい、我が家の中年は今まさに新しい試みに挑まんとて、ぬうぬうと文句を言っている。私のことではない。我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョの方だ。
「揚げ物はなあ…台所が汚れるじゃん。コンロも壁も換気扇も。」
我が家の台所を預かるのは、主にメニョである。朝は私より早く起きて朝食と昼の弁当を準備し、私が無味乾燥な仕事で糧を得ている間に夕飯の支度をしておいてくれる。このメニョの得意料理と言えば、丸茹でである。大鍋にグラグラと湯を沸かし、野菜でも肉でも充填豆腐のパックでも、何でも丸ごとぽいぽい放り込んで火を通す。衛生面でも安心安全、いかなる食材もさっぱりと美味しく頂ける万能調理法である。沸かす湯を減らしてそのまま味を付ければ煮物。土鍋で作れば鍋料理。ルーを溶かせばシチュー類。と、応用の幅も広い。
ただ、さしもの私も、何年も茹で料理ばかり食べ続けて、少々バリエーションが欲しくなった。そこで教えたのがオーブン調理である。こちらは丸ごとの素材を天板に乗っけて、オーブンのスイッチを入れるだけ。ネコ手でも簡単に操作できる。充填豆腐のパックはやめろと言ってあるので入らないが、工程は丸茹でと大差ない。この手法の開発によって、我が家の料理の幅はぐんと広がった。
私はこれで十分満ち足りているのだが、メニョは物足りなくなったらしい。新奇な調理法を開拓せんと、古本のレシピ集を繰って模索を始めたのである。
さりとて、メニョには炒め物は難しい。ネコ手はヒトと違って何かを把持できる構造になっていない。メニョがおたまや包丁のような道具を使う際は、両前足の肉球で挟んで持っている。フライパンを片手で支え、もう片手で箸やヘラを持って混ぜるというのは、ネコには不可能だ。
そこで閃いたのが揚げ料理らしい。確かに、丸茹で殺法の水を油に変えれば、揚げ物になる。しかしなあ。
「メニョ、丸茹でした後そこらじゅうびちゃびちゃじゃん。水は拭けばすぐきれいになるけど、油はそうはいかないぞ。」
ぼちゃぼちゃと材料を投げ入れ、茹で上がったら勢いよくざるに空ける、というメニョの勇ましい調理法は跳ね返りも多い。幸いメニョは、台所中を散らかして知らんぷりするくせに調理は恩に着せるという、ろくでもない日曜主夫のような真似はしない。調理後のそこらの水滴はメニョがすぐに布巾で拭ってくれている。さりとて、揚げ物の跡は乾いた布巾でさっと拭けば済むものではない。ましてや、メニョのぼちゃぼちゃ法によって盛大に油が散ったら、台所はあっという間にギトギトであろう。
「にゃー」
「メニョが掃除するか?油は洗剤付けて拭いて、その後二度拭きも要るぞ。」
「なーふ」
「え、私も掃除は嫌だよ。大体、そんなに揚げ物食べたくないし。」
「にょおうえ」
ん、何だって。メニョが聞き慣れぬ音を発したが、私はメニョ語を聞き取れる繊細な聴覚の持ち主ではない。何か言いたいのは分かるが、何だ。私が黙っていると、メニョは手元のレシピ本を開いた。肉じゃがコロッケが載っている。ははあ、そういや、去年一度コロッケを揚げたな。
「あれはお祭りのようなものだから。そんなしょっちゅう揚げ物は嫌だよ。」
「ふぬー」
「文句言われてもなあ。」
私は食べ物に好き嫌いは無いのだが、揚げ物は胃にもたれるし、時に腹を下すから避けている。味は好きなのに、加齢で受け付けなくなってしまったのだ。メニョだけでなく、私も悲しいのだよ。
「にゃー」
しかし、メニョも諦めが悪い。トンカツ、から揚げ、野菜の揚げ浸し。里芋の煮っころがしが残ったら、片栗粉を付けて揚げてアレンジもどうぞ。レシピ本の揚げ物の写真は実に美味しそうだ。いや、実際に美味しいに違いない。これを私に見せて、ぐいぐいとメニョが迫る。もしかしたら、メニョにも美味しそうに見えているのかもしれない。
「メニョ、揚げ物食べたいの?」
「ふなーう」
微妙なお返事。まあ、メニョも脂っこいものを食べすぎると下痢するので、揚げ物なんて遣るわけにはいかない。
はっ。そうじゃないか。メニョが揚げ物をする。揚げ油が揮発する。メニョの毛皮にまとわりつく。メニョがベトベトになる。メニョが毛づくろいして油を摂取して腹を壊すかメタボになる。ダメ方程式の完成だ。
「あかーん。揚げ物は絶対禁止でーす。」
私は断固否定した。私のかたくなな態度を見て、さしものメニョも諦めたらしい。しょぼんとしっぽを落として、床の上でネコまんじゅうになってしまった。明らかにふてくされている。
うーむ。ネコながらこの向上心はあっぱれなのだが。揚げ物から別のものへと方向性を変えてほしいものだ。と、不意に私はひらめいた。
「あ、そうだ。揚げ物は嫌だけど、蒸し物はどうだ。」
「ふあ」
「確かこの本にも、茶わん蒸しとか蒸し鶏とか、ほれほれ。」
私はレシピ本の蒸し料理のページを開いて見せた。揚げ物に比べれば地味な見栄えのものが多いが、いかがであろうか。
「ふなー」
「鍋に水張って、これをこうして広げて、湯気が上がってきたら材料を置いて蓋をして、弱火に掛けとくだけだ。」
私は台所で蒸し器の使い方をメニョに示した。と言っても、本格的なせいろなんてものはない。大きめの鍋に蒸しざるを広げて入れるだけだ。簡易ではあるが、かえってメニョには使いやすかろう。
メニョは二足で立ち上がったまま私の手元を眺め、しばし思案顔であったが、やがてぷいっとしっぽを振って窓辺に行ってしまった。理解したのかそうでないのか、よく分からない。まあ、いいや。揚げ物は断念したようだし。私はひと安心して、台所を後にした。
それからしばらくの間、私のディナーは色を失いへろへろになるまで蒸し尽くされた野菜たちとなった。いや、なに。揚げ物が続くことを思えば、文句など出ようはずもない。ただ、まあ、もう少し蒸し時間が短い方がよろしいかな。私がそう注文するたびに、僅かずつ野菜に硬さが取り戻されているので、いつの日か、丁度良い蒸し加減となる日が来るであろう。それまでメニョの蒸しブームが続いていればよいのだが。さてはて、どうなるやら。
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