第97話

 世界でもまれな、油分と水分が共に極めて少ない発酵食品。それがおかかの塊、枯節である。カツオを獲るところから始まって、茹でたり燻したり黴付けたり、途方もない手間暇をかけた末に完成する、タンパク質とうま味の塊である。このありがたみたるや、足を向けて寝られないくらいではなかろうか。


「分かったか。だから、そうやたらと無暗につまみ食いしてはいけません。」


 私は我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョに教え諭した。私の目の前には、本日のお弁当のおかかごはんが置かれている。いつもなら私が覗く前に蓋をされているのだが、おかかのつまみ食いに夢中で忘れていたらしい。


「ぬー」

「何が、ぬー、じゃ。ひげの端っこにおかかの欠片が付いてるぞ。ごまかしても無駄だ。」


 私が指摘すると、メニョは前足でくるくると顔を撫で洗った。ハイ、きれいさっぱり。こうも堂々と目の前で証拠隠滅されると、がっくりするしかない。


 私は戸棚の中を確認した。ストックは残り一袋か。そろそろ、特売をチェックして買っておかないとなあ。毎日の弁当とつまみ食いで、我が家のおかか消費量は半端ではない。間違いなく、一世帯当たりの消費量の全国平均値を軽く上回っていることだろう。世帯の構成員が少ないにもかかわらず。


 おっと、そんなことをじっくり考えている場合ではなかった。私は弁当を鞄に入れ、全然行きたくない場所で全然やりたくないことをするために家を飛び出した。


 サラリーマンたるもの、仕事にガッツリ真正面から立ち向かってはいけない。そんなことをしたら、人生の意味や目的を見失って、最悪命を絶つ羽目になる。仕事とはねじれの位置に自我を置き、遠くから自動的に処理することが肝要だ。そうすれば、ほら、気が付くともうお昼である。


 私はほくほくと鞄から弁当箱を取り出した。給湯室で淹れてきた熱々のお茶も傍らに置いて、頂きますである。


 その時、ふわんと鰹節の善き香りが漂ってきた。私の弁当の冷ご飯ではない。もっとこう、ぬくもって広がりのある香りだ。誰かコンビニでうどんでも買って来たか。そう思ったが、犯人はすぐ隣にいた。なんと、隣席の同僚が、レンジで温めた白ご飯にふんわりと鰹節を掛けたところだったのだ。大きな鰹節の袋は、そのまま机の片隅に立てかけられる。書類とファイルとパソコンの散らかった事務机に、おかかの大袋。そぐわないことこの上ない。


「ねこまんま、お揃いですよ。」


 私の視線に気付いた同僚が、何故か得意げに心持ち胸を反らせた。


「先日頂いたお弁当が美味しかったので、真似してみました。おかず作る時間は無いですが、ご飯だけなら詰めてこられるし。」


 はあ、さよか。おかずなしのねこまんま単品か。そりゃ気の毒なこって。


「あ、今、おかずが無いと思ったでしょう。実はあるんですよ、ほら、トマト。」


この同僚、たまにこうして読心術を使う。そんな特異能力の持ち主には見えないのだが。まさか、私が無意識のうちに独り言を呟いてしまっているのだろうか。それは由々しき問題だ。もっと意識して、口を閉ざさねば。


 私が思案している隙に、同僚は晴れやかな笑顔で大きな丸のままのトマトを机の上に置いた。美味しそうではあるが、どうするのだろうか。と思ったら、がぶりとかぶりつきおった。素材そのままではないか。メニョでさえ、丸茹でくらいの処理はするのに。現に、私の本日の弁当に雁首並べているミニトマトとスナップエンドウも加熱済みだ。まあ、ミニトマトなら生でも良いのだが。


 私は同僚から目を逸らして、自分の弁当に集中することにした。他人の食事をとやかく言う趣味は無い。


「ここに鰹節置いときますから、いつでも好きに使ってください。マイオカカです。」


同僚がぼたぼたとトマトの汁を垂らしながら言う。そんなもの、誰が使うか。もう十分に掛かっている。まあ、メニョがここにいたら喜んでつまみ食いするところであろうが。


「トマトはグルタミン酸が豊富で、イノシン酸の鰹節と相性が最高なんですよ。だから、この昼食はシンプルにしてベストなんです。」


同僚の弁当自慢はまだ続くらしい。これ、明日もやるのか?明日は外で弁当食べようかしらん。


 それはそれとして、トマトとおかかの相性か。ふむ。私は茹でられて軟らかくなっているミニトマトをおかかごはんの上に置いた。箸で少し潰して、ご飯と混ぜて、口に放り込む。むぐむぐ。ほう、なるほど、悪くないな。これなら、大好きなおかかがもっとおいしくなるのだから、メニョも喜ぶんじゃないか。いやしかし、それなら昆布出汁をぶっかければいいだけの話か。ネコたるメニョは、酸っぱいのは好きじゃないだろうしなあ。


 そんなことを考えながら私は上の空で午後の仕事を済ませ、定時に帰った。いつもどおりにお出迎えメニョと戯れ、やり過ぎて追い払われ、しょんぼりしつつ台所に行く。オーブンが低い唸り声を上げている。今日は茹ででなく、焼きものが晩御飯らしい。この香りから察するに、とろけるチーズを載せて焼いているな。何だか知らんが、洒落ているじゃないか。さすがはメニョである。


 となると、ちょいと実験ができるじゃないか。


 私は鍋にだし昆布と水を入れ、空いているコンロで火にかけた。ついでに、ミニトマトを一個丸ごと茹でる。


「なーふ」


 オーブンの前に仁王立ちしていたメニョが、不思議そうにこちらを見ている。


「これはメニョのご飯である。」

「んぬー」

「要らんってか。まあ、昆布とトマトだけじゃないから、安心したまえ。」


そう言ったものの、メニョの眼から疑惑の色が消えない。そこで私は、戸棚からおかかを取り出して見せた。


「今日、私は学習したのだよ。おかかをよりおいしくする方法があるのだ。」

「ふあー」


 メニョはしっぽを振っている。おかかに対する期待感と、昆布&トマトに対する失望感がせめぎ合っている様子だ。ふふふ、それを今からごちゃまぜにしてくれようぞ。


 私は茹で上がったトマトを潰し、昆布出汁をしっかり冷ました。そして、小鉢にご飯少々とおかか少々を載せたものを3つ準備する。と、毛むくじゃらの前足がにゅうと伸びてきた。


「にゃー」

「いやいや、まだまだ。おかかのままつまみ食いしてはいけません。これからが本番だ。」


私は3つのおかかごはんに、トマト汁、昆布出汁、ただのぬるま湯をそれぞれ掛けた。スペシャルねこまんま3種盛りセットである。理論上、ただのぬるま湯が一番つまらないはずだ。一番人気は昆布出汁だと予想される。


「はい、召し上がれ!」


 私はメニョのご飯台に小鉢を並べた。メニョはまだ時間がかかりそうなオーブンから離れ、ふんふんと小鉢の匂いを嗅いでいる。お、それそれ、昆布。あれ、トマトに行くの?と思ったら、ぬるま湯か。私はハラハラしながら行方を見守る。


「ふぬー」


メニョが顔を上げて、文句を言った。まだどれも口にしていない。


「ネコ缶なら後でやるから。とりあえず、ねこまんま食べてみろって。」

「ぬー」

「おいおい、昔のイヌやネコは冷や飯に味噌汁の残りをぶっかけたのを食わされていたんだぞ。それを思えば御馳走だろ。」


ぶいんとしっぽが揺れる。ご不満らしい。だが、こちらとしても食わず嫌いは是認できない。実験参加後にしかネコ缶を開けないと宣告すると、メニョは漸く渋々小鉢に鼻先を突っ込んだ。あむあむ、あむあむ、あむあむ。大した量ではないので、あっという間に攫えてしまう。ねろん、と舌なめずりをしながらメニョは顔を上げた。期待に満ちた眼差しだ。


「にゃ」

「お代わりが欲しいか?どれがいい?」

「ぬう」


どれも要らないらしい。そんなものよりネコ缶が良いようだ。しょうがない。私は戸棚からシラス入りカツオ缶を取り出し、メニョどんぶりに盛り付けた。途端に、メニョは喜色満面でむしゃぶりつく。


「にゃむにゃむ」


 あっという間に平らげて、満足そうに顔を洗っている。ねこまんま3種盛に対する、不承不承という雰囲気とは大違いだ。日頃、あんなにおかかが好きなのに。何だか納得いかない。


「なあ、どれが一番好きだった?」


諦めきれずに私は尋ねた。


「にゃー」


予想的中。メニョはネコ缶が入っていたどんぶりを私の方に押し遣ってきた。あーあ。


 いや待て、まだ陽は沈まぬ。


「じゃ、二番目はどれ?」

「ふあー」


 メニョは気なしな様子で小鉢を眺め、ぷいっと歩き去ってしまった。どの小鉢にどれが入っていたのか忘れたのか、どれも等しく美味しくなかったのか、定かではない。ちぇっ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る