第96話

 季節の変わり目は体調が崩れやすく、年度の変わり目もまた体調が崩れやすい。ヒトはおそらく変化に弱い生き物なのだ。地球環境の急速な変化のみならず、AIによって仕事ががらりと様変わりするだけでも、ヒトは容易に滅びるであろう。


 私がこんな悲観的な考えを持つに至ったのは、隣の同僚の惨憺たる有様ゆえである。年度替わりで仕事が多いところに、使い慣れたパソコンがリース期限で交換され、いつものシステムは更新されて使い勝手が変わり、それに加えて見知らぬソフトウェアまで導入され、等々てんやわんやらしい。私は定時で帰るから知らないが、愚痴を聞く限りでは毎日終電との戦いだとか。肌は荒れ、目に隈ができ、机の上には栄養ドリンクの瓶が並び、毎日の食事はコンビニ飯だ。ああ、コンビニ飯はいつものことだったか。


 哀れな。私のようにネコを飼えば、毎日栄養バランスの良い食事を作ってもらうことができるだろうに。


 私は身の丈四尺の我が飼いネコ、メニョの作った弁当を広げた。今日は丸茹での各種野菜のほか、昨晩の残りの丸茹で豚ロース塊肉がおかずである。肉は包丁の打撃によって原形を留めぬほど崩されており、これが柔らかくて実に食べやすいのだ。火が通ってぐずぐずのトマトと一緒にご飯に絡めても旨そうだ。


「何ででしょうか。今日は沢田さんのお弁当が美味しそうに見えます。」


 隣からひどく失礼な発言が聞こえた。あたかも、いつもは美味しくなさそうとでも言いたげではないか。メニョ弁は毎日美味しいわい。


 ちらりと見遣ると、隣の同僚は焼きそばパンを机に置いて栄養ドリンクに手を伸ばしたところであった。それ、昨日から空のやつじゃないか。そう思って黙って見ていたら、口元まで運んでから漸く中身が無いことに気付いたようだった。


「あー…。」


がっくりとうなだれる。隣に未開封のも置いてあるのだから、それほど落ち込まなくても良かろうに。


「そのお弁当、いただけませんか。」

「嫌です。」

「そんな時だけ即答しなくてもいいのに…。」


また、がっくり。鼻をすする音まで聞こえてきた。泣くほどのことか。これでは、私が苛めたみたいではないか。


 だが、疲れが溜まってろくなものを食べていないと、精神的に参るのは分かる。いつも定時で帰る私にだって、長い人生にはそんな日もあったのだ。少しだけ。


 まったく、しょうがないやつだ。隣でぐずぐずと泣かれても、こちらの仕事に差し障る。私はやむなく、弁当と箸を渡した。豚は昨日食べたし、帰ればまた別のメニョごはんがある。我慢できないことは無い。


 すると、同僚はやたらと感動し、旨い旨いと幾度も言いながらあっという間に平らげてしまった。まあ、あれだけ喜んで食べられたなら、メニョ弁も面目躍如であろう。


 しかし、おかげで私は焼きそばパン1個で昼食を済ますことになった。定時になる頃には腹ペコである。早く帰って、メニョディナーにありつきたいな。


「えっ、沢田さん、もう終わったんですか。」


 私が荷物をまとめて立ち上がると、隣の同僚が声を上げた。何だ何だ。もう他人にやる弁当は無いぞ。


「こっちの仕事もやってもらったのに、どうして…。」


知ったこっちゃないわい。私は時間外に他人の無駄話に付き合うような親切心は持ち合わせていない。無視して帰ろう。あー、おなかすいた。


 帰宅した私は、事の次第をメニョに語って聞かせた。


「ふあー」


メニョは聞いているんだか、いないんだか、気のない返事だ。昨日の豚のゆで汁に素材を入れてぐるぐるかき回すのに忙しいらしい。ほうほう、今日の夕食は豚出汁のスープか。こりゃ旨そうだ。沢山できそうだし、お代わりしちゃおうかな。


 食卓に着くと、案の定、美味しそうな具沢山スープがなみなみと器に湛えられていた。ごろごろと野菜、その隙間に粉みじんのお豆腐と溶き卵。おっと、大豆まで入っているぞ。これは私がおつまみとして常備している煎り大豆をそのまま煮込んだものだろう。タンパク質もしっかりだな。さすがメニョだ。まあ、こういうスープに玉ねぎが入らないのが玉に瑕ではあるが、それを補って余りある完全食ではないか。


 こういうものをしっかり食べれば、仕事もはかどる。いや、仕事なんぞ特にはかどる必要はないが、過剰に残業せねばならぬほど効率が落ちることもない。まったく、同僚もネコを飼えば問題は解決なのになあ。


「メニョ、よそで家政婦として働いてみるか?」

「ぬーう」

「お駄賃もらえたら、プリンとかどら焼きとか買いたい放題だぞ。」


 自分で言っておいて何だが、これでは、日ごろは私の稼ぎが少なすぎてプリンすら満足に買えないみたいではないか。生憎と、そこまで困窮してはいない。


 まあ、いいや。こちらも冗談であるし、メニョもやる気はなさそうだ。ぐるぐると前脚で顔を拭って、ぺろぺろ舌を出し入れしている。毛づくろいに忙しい。よそのお宅の食事情になど、構っている場合ではないのである。私だって、メニョが出張して家にいなかったら寂しい。やはり、メニョは我が家にいてこそメニョである。うむ。


 と思ったのに、翌朝、何故か弁当箱が二つ準備されていた。いつもは中身を見るのは昼の楽しみとしておくのだが、敢えて禁忌を犯して確認すると、同じ中身のお弁当が二人前である。私のお弁当が拡張されたわけではない。


「メニョ、この弁当、何?」

「ういん」

「ウィン?何に勝ったんだ?」

「ぬー」

「あ、違うの。まさか、これでプリン代のお駄賃もらって来いってことか?」

「にゃふ」


何てこった。家政婦のリモートワークかいな。


 しかし、これを片手に、同僚からプリン代を奪取して来いとな。うーん。そういう交渉事は気が進まないなあ。私は思案しながら通勤し、弁当を一個黙って同僚に押し付け、結局は自分でちょっとお高いプリンを買って帰ったのであった。

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