第95話

 風邪の引きかけで、熱を測って異常があると分かった途端に、体調が悪化することがある。検温する前はちょっと疲れているかもくらいの感覚だったのに、風邪だと思うと急にだるさも頭痛も喉の痛みも本格化するのだ。病は気から、ということかもしれない。


 だから、認めるわけにはいかない。私が花粉アレルギーだなんて。


 私は長年そうして、身体の中で荒ぶろうとするIgEに歯向かってきた。季節の変わり目だからだ、黄砂のせいだ、年度替わりのストレスのせいだ。いくらでも言い訳はできる。しかし。


「スギとヒノキに出てますね。」


 ずっと喉が痛痒くて、風邪を疑って耳鼻咽喉科に行った私は、はっきりと死の宣告を受けた。いくら目を背けていても、私の中には要らん抗体がボンボン産生されていたというわけだ。目の痒みや鼻水は無いんだと訴えても無駄である。症状の出方も重さも人それぞれ。


 私はしょんぼりとした足取りで家に帰った。仕事帰りに病院なんて寄るものではない。弱り目に祟り目のいい例ではないか。


「たあいま。」


 がら、がら、と力なく玄関を開けたら二秒でネコ。我が家の身の四尺の飼いネコ、メニョがお出迎えである。弱った心はこれで充電するしかない。私は靴を脱ぐのももどかしく、足をもぞもぞしながらメニョにかぶりついた。ふすふす、うーん陽だまりの良い香り。今日はいいお天気だったから、よく干されておる。


「はっ。」


 私はがばっと顔を上げた。いつもだと、メニョが私を鬱陶しがって肉球で押しのけるまでヒルのようにむしゃぶりついて離れないのだが、この度は自発的に距離を置いてしまった。


 今日のように暖かく天気の良い日には、メニョはお散歩に行ったり、屋根の上で日向ぼっこをしたりする。つまり、このみっしりぎっしりモフ毛に満遍なく花粉が吸着されているということである。吸わない方が良いのではないか?私の頭の中に、理性が訴えかける。


「だが、吸う!」


理性の敗北は一瞬であった。だって、気持ち良いんだもん。


「ぬー」

「ああん。」


アレルギーよりメニョが強い。私はメニョの力強い前足に押し出しを食らい、場外に退場させられた。


 しょうがない。私はメニョを諦めて、家に上がろうとした。おっと、その前に。私は鞄からしょぼいブラシを取り出した。100均で買った物である。これにて、コートの表面をざっと撫で払う。花粉を家の中に持ち込まないようにしましょう、と病院のポスターに書いてあった。早速生活に取り入れる私、なんてお利口さんなんでしょ。


 しかしなあ。私がいくら服の表面の花粉を払っても、メニョがたんまり吸い込んできていては焼け石に水ではないのか。明らかに、私の春物のスルっとした手触りのコートより、多量の長くて細い毛がいたるところにびっしり密集しているメニョの表面の方が、花粉と親和性は高い。


「なあ、メニョ。私はどうやら花粉症らしいんだ。」


 台所であれやこれやを丸茹での刑に処している刑務官に、私は語り掛けた。


「なーふ」

「メニョも外から帰ったら、毛皮に着いた花粉を落としてくれんかなあ。」

「うなー」


 了解、なのか、今忙しいから後にして、なのか、判別がつかない。


「とりあえず、玄関にブラシ置いとくから、使ってくれよ。」

「ふあー」


うーむ、これはどうだろう。分かった、かなあ。めんどくさい、かもしれん。


 まあ、どっちでもいいや。どうせ、今までは何もしてこなかったのだし。そもそもこの築66年の木造住宅は風通しが過剰に良い。服や毛皮の花粉を払っても、そよそよと風に乗って花粉が入り込んでくる。ブラシなんて、気休めだ。


 病は気から。気にしないのが一番さ。それよりごはん、ごはん。私は食卓に着き、本日の丸茹で定食にありついた。


 我が家の丸茹で定食にはいくばくかの種類があり、今回は和風である。どこが和風かというと、味付けに使うのが調味味噌なのだ。私は里芋や椎茸、大根、ニンジンに甘みそをてろてろ掛ける。ちょいとカラシを添えると良い。市販の調味味噌はへべれけレベル34の私には甘すぎてくどいのだが、自分で作って常備するのも面倒くさいから、そこは我慢である。


 なお、洋風の場合はオリーブオイルとハーブ塩、中華の場合はごま油ベースのタレ、無国籍風としてはドレッシングや醤油マヨがある。メニョ定食も実にバリエーション豊かと言えよう。


 ぬちゃぬちゃと私が里芋を咀嚼していると、からからと掃き出し窓の音がした。


「あれ、メニョ、こんな時間に散歩かね。夜回りか。」

「ふあー」


メニョが食事を終えてからさほど時間は経過していない。何か気になる音でもして、見に行ってきたのだろう。私はネコほど耳が良くないし、お酒を頂いてほわほわしているので異変には気付かなかった。ニャルソックは役に立つなあ。


 あ、そうだそうだ。


「花粉、花粉。」

「にゃ」


私が言うと、メニョもはっと気づいたような顔でまた掃き出し窓の外に出た。そこにはブラシは無いのだが、どうするのだ。と思っていたら、ブルブルブルと身を震わせた。雨に打たれて毛皮に水滴が付いた後にやらかすやつだ。あー、あー、あー。なるほど。って、それで良いのか?


「にゃー」


 どうでございましょうか、かな。メニョが髭をそよがせ、しっぽをピンと立てて寄ってきた。効果のほどは分からないが、メニョが私に気を遣ってくれたのは確かである。ここはひとつ、実証してやる必要があるな。


 私は椅子から降りて、メニョの毛皮に顔を突っ込んだ。ふす、ふす。思い切りメニョの香りを吸い込む。ううん、夜の冷気を含んだメニョの毛皮がしっとり良い気持ち。


「へっくしょん、ふえっくしょん、ぶえっくしょい!」


 私は盛大にくしゃみを連発した。メニョが胡乱な目でこちらを眺める。


「ち、違うんだ。今のは、ネコ毛が鼻に入っただけだって。」

「ぬー」


メニョはぶいんとしっぽを振って、私から遠ざかった。


 それ以来、家に帰ってもメニョが毛皮を吸わせてくれない。ううう。仕事で擦り切れ腐って凝集沈殿している我が精神をどうやって癒せと言うのだ。これではストレスで悪化してしまう。こうなったらもう、花粉症は治ったことにしよう。病は気からなのだ。

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