第36話

 食う、寝る、遊ぶ。酒、博打、女。金、名声、権力。似たような物を三つ並べて、好きなものを選ばせていけば自ずとその人柄が表れる。なお、私の場合、順に、寝る、酒、金である。食うのも好きだが、他の選択肢はさほど魅力的ではない。


 そんな私が、休日の朝、しっかりと早起きした。酒を飲むためではないし、三文の得のためでもない。単に、早朝から30度を超す猛暑で、寝ていられないだけだ。私は汗でしっとりとした布団から這い出し、生ぬるい水道水で顔を洗った。寝不足なのに、眠れない。朝から体が重くてだるい。夏なんか無くなれば良いのだ。


 私はのそのそと食卓に向かった。そして、異変に気付いた。いつもなら、我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョが朝ご飯を用意してくれているのに、今日は何も無い。メニョもいない。はてな。多少は涼しいから、庭で避暑かな。


 私はぼりぼりと腹をかき、首をかしげたが、頭も体も暑さにやられて機能停止状態である。朝ごはん、何食べよう。火を使う気力は全く起こらないから、生でいけるものだな。となると、シリアルか。


 私はぼんやりしたまま、棚からどんぶりを出した。そこに、ざらざらとシリアルを流し込む。


「メニョ―、朝ご飯だぞー。」


私はどんぶりを、メニョ用の食事台に置いた。呼ばれたメニョが、どこかからしてぽてと足音を響かせて登場する。


 メニョも暑さにやられたのか、何となくぼんやりした様子で、どんぶりに顔を突っ込んだ。だが、即座に顔を上げ、不満そうにしっぽを振る。


「ん、食べないのか。夏バテか。」

「んぬー」


私はどんぶりを覗き込んだ。フルーツグラノーラが、こんもり入っている。しまった、これは私の朝ごはんだった。


「すまん、すまん。間違えた。」


私はすぐにメニョどんぶりを取り出し、メニョのカリカリを流し入れた。夏場はメニョも食欲が落ちる。よって、涼しい時期よりは少なめだ。


 メニョがカリカリと音を立てて朝食に取り組むのを眺めつつ、私は自分のどんぶりに牛乳をたっぷりと入れた。冷たい牛乳を飲むと腹を壊す、とメニョは信じているので、メニョが朝食を作る時は夏でもぬるい牛乳だ。しかし、本日は、冷蔵庫から出したてキンキン。わーい。


 冷たい牛乳をずるずる啜っているうちに、ようやく私の頭の霧も濃霧から薄靄に変化してきた。そうだそうだ。今日は、メニョを動物病院に連れて行くのだった。


「メニョ、ご飯食べたら、ワクチン打ちに行こう。」

「…」


メニョはどんぶりから顔を上げた。半開きの口からカリカリの欠片がこぼれる。しまった、と顔に書いてある。どんぶりに残ったカリカリと庭を落ち着きなく見比べていたかと思うと、メニョは意を決したようにどんぶりに背を向けた。そして、そそくさと庭へ退却を計る。


 そのしっぽ目がけ、私は声を掛けた。


「メニョ、動物病院は涼しいぞう。」


ぴたり、とメニョの足が止まった。しっぽがぷいぷいと揺れている。何か考えているらしい。何しろ、今日は飛び切り暑い。予想最高気温が39度とか、とんでもないことになっている。午前7時時点で百葉箱の中が30度を超え、日当たりの良い我が古家の室温は今や35度に達しようというところだ。毛皮のコート着用ではさぞ辛いことだろう。


 しかし、メニョはふたたび抜き足差し足で退場しようとする。やむを得ず、私は更に一押しした。


「ワクチン済んだら、ネコカフェに行って避暑しようか。」


メニョの歩みが再度止まった。しっぽの動きが激しい。やはり、暑いのだろう。


 ちなみに、ネコカフェと私が呼ぶのは、ネコがキャストとして客をもてなすやつではなく、単にペット随伴可能な普通の喫茶店である。ほどよくひなびていて、長時間滞在可能だ。本日のように耐えがたきを耐えねばならなぬ酷暑の日など、しばしば利用している。


 ちらり、とメニョがこちらを振り返った。が、すぐにまた外を向いてしまう。しっぽが大きく揺れる。どうも、あと一押しが必要っぽい。しょうがない。


「今晩は、お刺身にするか。帰りに魚屋に寄ろう。」

「にゃ」


待ってました、とばかりにメニョが振り向いた。とことことどんぶりの前に戻って、何事もなかったかのような顔でカリカリの残りを食べる。


 何だか、騙されたような気がする。何しろ、メニョは賢い。演技して私を欺くくらいのことはするのではないか。私は純真で、他人を信じやすいのだ。いや、まあ、メニョはヒトではないが。


 まあ、いいか。刺身も久しぶりだし。加熱が不要で、冷たいまま食べられるというのは、酷暑日の本日は大変にありがたい。野菜でも充填豆腐でも何でも丸茹でにするメニョだが、さすがに刺身は茹でたことがない。


 私も自分のどんぶり作業に戻ることにした。少しぬるくなって、少しふやけたグラノーラをずずっと啜る。仕上げに、冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、空になったどんぶりにどろどろと流し入れる。ここにオレンジリキュールを混ぜると美味しいのだが、メニョを動物病院に連れて行くという課題の前にそれはいささか不安。梅シロップにしておく。


「メニョもヨーグルト食べる?」


私はヨーグルトをぐるぐるかき混ぜながら、メニョに聞いた。


「なーふ」


YesかNoかよく分からないが、足元をぬるぬるするので、食べたいのだろう。私は小鉢にヨーグルトを入れ、メニョに供した。山の天気とネコの目とネコの気分は変わりやすい。とにかく、ご機嫌を取っておくに越したことはない。


 よし、ここらでもう一息、メニョをいい気分にさせるか。


「メニョは超絶可愛いなあ。最高だ。」


私はヨーグルトを口に運びつつ、メニョを褒め称えた。


「…」


メニョはヨーグルトをなめ終えるや否や、返事もせずにすたこらと庭の日陰に退散した。私の下心はバレバレらしい。逆効果だったか。ちぇ。本心なのにな。


 こうなったら、首に縄つけてでも連れて行くしかないか。問題は、ネコの鈴と同じく、いかにして縄を付けるか、だが。私はため息をつきつつ、洗い物に取り掛かったのだった。

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