第35話

 ハハキトクスグカエレ。かつては、電報が何よりも早い第一報を告げていたのだろう。


 だが、この現世にあっては電報はもはや絶滅危惧種。ネコも杓子も、薄平べったい長方形の画面とにらめっこだ。必要な情報も、不要で過剰な情報も、発信すれば即座に相手に届いてしまう。便利だが、風情は無い。


 そんな世の中に対抗すべく、私は一人敢然と立ち上がった。そして、無謀な戦いを挑み続けている。あたかも、痩せ馬に乗って風車に突撃するドン・キホーテの如し。


 何が言いたいかというと、私は例の薄平べったい長方形の物体を所有していない。買ったことが無いので、無い状態を不便とも思わない。そんなものがなくとも、知らせはちゃんと届くのだ。


「おお。ワクチンの季節だな。」


私は郵便受けの中に入っていた葉書を眺めて、大きめの声で呟いた。身の丈四尺の飼いネコ、メニョに聞かせるためである。メニョのかかりつけ病院から、今年の分のワクチン接種がそろそろですよ、とのお知らせが届いたのだ。こちらが忘れていても、催促してくれるので助かる。


 とはいえ、晩御飯を食べ終えたメニョは、聞こえないふりで水を飲んでいる。ワクチンだろうと治療だろうと、この世で病院が好きな生き物は医者くらいのものだろう。私も病院は嫌いだ。ヒトでさえそうなのだから、ましてやネコはしっぽ巻いて逃げ出す勢いである。


 そして、身の丈四尺のネコがしっぽを巻いて逃走を図ると、手に負えない。小型生物ならば、無理やり抱えてキャリーバッグに押し込んで連れ出すこともできようが、私はメニョが入るキャリーバッグを所有していない。というか、そんなバカでかいキャリーバッグ、あるのか。ワニ用か。


「メニョ、今週末に早速行くか。」

「…」

「こら、聞こえないふりして、逃げるんじゃない。」


 私はメニョを両腕でむんずと捕まえた。まあ、この時間には動物病院は閉まっているので、今捕まえてもしょうがないのだが。折角なので、もふ散らかしておく。


「ぬー」


メニョが文句を言いながらぬるりと私の抱擁をかわす。しっぽをぶんぶん振って、ご不満のご様子だ。


「今日行くわけじゃないんだから、そんなに怒るなよ。」

「んー」

「ほれ、どらやき、一口やるから。」


私は食後のデザートのどら焼きを一口分むしって、メニョに差し出した。メニョはあんこが好きである。ひくひく、とひげをそよがせて匂いを嗅いでから、メニョはどら焼きをぱくりとやらかした。大して噛みもせずに、ごくり。あれでよく味が分かるものだ。


 しかし、それで機嫌が直るかというと、そうでもない。そこはかとなく不機嫌な様子で、私から離れていく。口惜しいので追いかけると、こちらが追い付けない速足でどこかへ逃げ去って隠れてしまった。あのでかい図体をどこにしまいこむのか不思議でならないのだが、私はメニョとのかくれんぼに勝ったためしがない。

ちぇっ。面白くない。近所の和菓子屋で買った、とっておきのどら焼きを分け与えたというのに。


 私はすごすごと食卓に戻った。しかめ面で残りのどら焼きにかぶりつき、もぐもぐよく噛んで味わう。皮がしっとりもっちり。あんこたっぷり。いつもながら、旨い。うーむ、しあわせ。私の機嫌は、こうしてすぐ直る。メニョは放っておこう。


 私は夜の身支度を済ませ、ベッドに転がった。扇風機に当たりながら、両眼を閉じる。クーラーの無い我が古家で熱帯夜に対抗する手段は、扇風機と我が身に蓄積した疲労である。ねっとりとした空気の中、私は速やかにまどろみの世界へといざなわれた。


 と、それを引きはがして現実へと引き戻そうとする魔手が。いや、正確に言うなら、魔の舌が。メニョが私の顔をべろりとなめているのだ。ネコの舌は、ざらざらしている。そして、メニョは図体がでかくて舌もでかい。こいつでなめられると、やすりで削られているような心地になる。


「やめ、やめ。顔の皮が無くなる。」

「なーう」

「私の面の皮は、薄いんだ。控えめなお人柄なんだ。」

「…」


何故そこで否定的な沈黙を返すのか。失礼しちゃうぜ。


 と思ったら、お次は頭の毛をなめ始めた。毛づくろいか。今このタイミングで実施しても、朝にはぼさぼさ寝ぐせが付くから意味がないではないか。かといって、朝にやってもらいたいわけではないが。


「やめ、やめ。メニョの舌でなめたら、禿げるよ。」

「…」


何故今度は肯定的な沈黙を返すのか。まだ禿げてないもん。


 やむなく、私はごろりと寝返りを打ってメニョに背を向けた。顔の皮も髪の毛も大事だが、睡眠時間も重要だ。メニョに飴玉代わりにされていては、寝付けない。


 何とかメニョのおしゃぶりが止み、私は再びうつらうつらととろけ始めた。何しろ、私は寝つきがとんでもなく良いのだ。ああ、良い感じ…と微かな意識で感じたその時、私は身体前面への鈍い衝撃で再度現実に引き戻された。


「何だ何だ…ああ、メニョか。」

「にゃ」


メニョが、私の腹に自分の背中をくっつけて丸まっている。おそらく、横たわる拍子に私とぶつかったのだろう。しなやかに寝転がればいいのに、メニョはばたんと横倒しになる。この体格の生き物が勢いよく体当たりしてくるのだ。目覚めずにいられようはずもない。


「もう、いじけたと思ったら、こんどは何だ。機嫌取りか。」

「にゃ」

「けしからんなあ。可愛すぎるぞ。」


私はメニョをもふもふと撫でまわした。メニョは低くごろごろ鳴っている。暑いけど、やっぱりメニョとくっつくのは気持ちが良い。


 まあ、どれだけ甘ったれておねだりされても、いずれ病院には連れて行くのだが。今日のところは、それは言わずに、一緒に寝るとしよう。

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