第37話

 東京の上野公園と言えば、西郷隆盛と犬の像であろう。犬の首輪から伸びる紐を西郷さんががっしり握りしめており、いかに犬が遁走を計ろうとも西郷さんから逃れることはできないであろう。かように、西郷さんの時代でも、ペットには首輪とリードを付けていたものらしい。


 翻って現代、私は大型犬用の首輪をがっしりと握りしめて、じりじりとターゲットとの距離を詰めつつある。ターゲットは、他でもない、我が家の身の丈四尺の飼いネコ、メニョである。本日はワクチン接種のため、動物病院に行こうと係争中だ。


「メニョ、クソ暑いんだから、無駄に動き回るな。熱中症になるぞ、私が。」


本日の予想最高気温は39度だ。朝食後、メニョに首輪をつけようとして逃げられ、追いかける、という運動を繰り返している私は、既に汗だくである。


「えい。」

「うやあ」


私はメニョに飛び掛かったが、暑さで朦朧としているので照準が狂った。だが、これが逆に功を奏し、逃げようとしたメニョの行く先を遮ることができた。おかげで、何とかかんとか、巨大ネコを捕獲と相成る。


「御用だ。神妙に致せ。」


私はメニョの首に輪っかを嵌め、リードを付けた。ここまですれば、メニョも諦める。


 ふてくされてまんじゅうになって唸っているメニョの脇で、私は汗びっしょりの衣類を着替え、デオドラントなシートで中年ボディを拭った。加齢臭に汗臭が加わっては、老害著しい。多少なりとも気を遣うのが中年なりのマナーというものだ。


「じゃ、行くぞ。」

「ううう」


 戸締りし、帽子をかぶり、私はお出かけ準備万端なのに、メニョは唸って動かない。ぐいぐいリードを引っ張っても、頑として譲らない。誰に似たんだ、この頑迷さは。


 やむを得ず、私はメニョを抱きかかえた。だが、身の丈四尺の巨大ネコを抱いたまま、真夏の炎天下を闊歩する体力は私には無い。私は外へ出るなり、日向にメニョまんじゅうを置いた。灼熱の太陽がメニョの黒い模様をじりじりとあぶる。たちまち、メニョは諦めたように起き上がった。


「よし、じゃ、行くか。」

「…」


返事はないが、メニョはのろのろと日陰を歩き始めた。日頃は一緒に散歩する際、メニョは屋根の上やら木の上を3次元移動するが、本日はリード付きなので水平移動だ。あたかも犬の散歩のよう。メニョにとっては全く気に入らない状態だ。いつもはピンと上っているしっぽが、だらりと垂れている。余程ご不満らしい。


 病院に行く以上、キャリーバッグに入らないのならせめてリードを付けなくてはなるまい。だが、ふてくされたメニョと猛暑の中歩くのは、私も楽しくない。互いに押し黙ったまま歩を進め、我々は目的地に到着した。最寄りの動物病院だ。


 ウィーンと自動ドアを開けて中に入れば、たちまちクーラーの冷気がお出迎え。ああ…。文明の利器、万歳。


「メニョ、涼しいな…。」

「…うあ」


さしものメニョも、涼しさの快感には抗えないらしい。ふうーと息を付き、冷たい床にべっちょりと腹ばいになってしまった。私も、そうしたい。


 だが、ヒトたる身ではそのようなはしたない真似をしでかすわけにもいかない。私は汗をぬぐいながら、予約を入れてある旨を窓口で申告した。何しろ全然流行っていない個人院なので、すぐに診察室に通される。もう少しゆっくりクーラーの恩恵にあずかりたいのに。


「メニョリータちゃんですね。相変わらず、大きいなあ。折角だから、体重測りますね。」


 何が折角なのか分からないが、ずんぐりむっくりした獣医師は毎回てきぱきとメニョの体重を測る。が、特に太いとか細いとか言うこともなく、何の感慨もなさそうに数値をメモする。メニョは大きめではあるが、数多の犬猫を診てきた獣医師にとっては然して驚くに値しないサイズなのだろう。


「じゃあ、メニョリータちゃんを押さえておいてください。」


獣医師は何の気なしに私にそう言った。この巨大なネコを押さえつけるのが、獣医師でもない素人にとっていかに困難であるか、想像できないのか。今朝の格闘の様子を動画でお見せしたかった。走り回る幼い孫に付いて行けない祖父母の如しであったのだぞ。


 既にHPを使い果たしている私は、メニョを力ずくでどうこうできようはずもなく、診察台の上のメニョに言葉を尽くすことにした。武力ではなく、対話こそが平和への道。


「しばし、動かぬように。動くと、成功するまで何度も刺されるぞ。」

「…」


返事がない。ただのしかばネコのようだ。


 まあ、メニョは四つ足も頭もぐるっと丸めて固まり、けむくじゃらの巌と化して動かないので、このままで大丈夫だろう。私は両手を軽くメニョに添え、押さえるふりだけしてワクチン接種を見守った。ワクチンの量は、体重に関わらず一定だ。メニョの体格からすると、注射器が儚いくらい小さく見える。が、大小にかかわらず針を刺されるのは不快らしい。刺す瞬間、掌に微かにぴくっと振動が伝わってくる。


「はい、終わりましたよ。よく頑張りましたね。」


あっという間に注入が終わり、メニョは獣医師のむくむくとした手のひらで撫でられた。


「ついでに、健康診断していきますか?今キャンペーンで、お得な価格でやってますけど。」


メニョを撫でながら獣医師が言葉を続ける。商売っ気があるのかないのか、言葉とは裏腹に気乗りしない口調である。


 外は暑いし、もうしばし涼むために健診というのもありかもしれない。私はちらりとそう考える。が、その途端、メニョが獣医師の手をはねのけるように勢いよく顔を上げ、診察台から飛び降りた。


「ぬあー」


ぐいぐいと前進し、リードを持つ私の手を引っ張る。首輪が苦しくないのかしらん。


「嫌みたいですね。じゃあ、しょうがない。」


 獣医師は自ら提案しておきながら、あっさりと案を撤回した。こやつめ、やる気あるのか。こちとら、もう1時間は身体を冷やしていきたいのに。


 しかし、関心を失った獣医師と、脱出を目論むメニョに引き裂かれ、私にはなす術もない。渋々、診察室を出た。待合室に行くや否や、メニョは安心して床に平たく伸びる。ちぇっ、羨ましい。私はいまだに汗が引かないのに。せめて精算を待つ間だけでも、とクーラーの風の当たる場所に移動したが、何しろ他の客がいない。あっという間に窓口に呼ばれ、金をむしり取られ、この楽園に居住する時間は終わりを告げた。


「ところで」


 ワクチン接種証を鞄にしまい込んでいると、獣医師がメニョを眺めながら呟いた。


「うち、ペットホテルもやっているのですが、ご旅行の予定など、ありませんか。」

「ネコがいるので、無いです。」

「いえ、ペットホテルやってますので、預かりますよ。」

「はあ」

「何なら、宿泊のついでに、健診もやりますよ。」

「はあ」


打っても響かぬ答えを返してしまってから、私ははたと気づいた。この益体も無い世間話を長引かせれば、もう少しクーラーで涼めるのではないか。架空の旅行の計画を話してみるか。行ってみたいところならあるのだ。


 ところが、火の粉が降りかかりそうな気配を感じたのか、メニョがのそりと起き上がった。ひどく不満そうな声で、獣医師に向かって文句を言う。


「うあーあう」

「そうですか。では、ご縁がありましたら、ご利用ください。」

「ぬー」


メニョは最後に一言答えると、すたすたとドアに向かう。獣医師も、会話は終わったという体で奥に引っ込んでしまった。


 いやいや、待て待て。今、会話してなかったか。飼い主たる私ですら、メニョ言語を聞き取れないというのに。まさか、獣医師ともなると、ネコ語を理解できるのか。さすが国家資格。


 私は感心しながら、メニョに引っ張られて炎天下に連れ戻された。うむ、ひどく暑い。一瞬でめまいがする。


「にゃ」


メニョが私の脛にすり寄って、何か催促してきた。これは、私にもわかる。


「ネコカフェに涼みに行くか。」

「うにゃ」


メニョが満足そうに返事をする。当たったらしい。よし、では、干からびぬうちに新たなオアシスに向かうとしよう。

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